第一章 恋愛初心者、恋始めます

恋愛小説のようにはいきません

 人は恋に落ちる時、どんな感じなんだろう。鐘が鳴るって、本当なのかな。私は、リストの『愛の夢』が流れた。……と、後に職場の先輩である成田千絵さんに言ったら、「それは店内でかかっていた音楽でしょう⁉」と指摘されてしまった。確かに、そうだった気がする。


 惚けた勘違いをした私は、やっぱりその時点で恋に落ちてはいなかったのだろうか。ストンと落ちるというよりは、少しずつ少しずつ、あの人に惹かれていったのかもしれない。

 人との関わりを避けてきたが故に、誰かを好きになるということもなく、ここまで来てしまった。いや、恋愛云々以前に、人間関係についての勉強が必要だと思う。


 見た目も中身もお子様だと自他共に認める私が好きになってしまったのは、手の届かないような年上の男性だった。


 あれは遡ること、約二年前。



【二年前】


 今日も朝から暑く、猛暑日になると天気予報で言っていた。そんな天気でも、この書店内は冷房がしっかり効いていて涼しい。

 比較的大きな書店である『宮脇書店』は、駅から歩いて十分という好立地ということもあり、涼みに来る人も多い。この日は学生が夏休みで、日中でも若い人も多かった。


「琴ちゃん、在庫補充お願いね」

「はい」


 店長さんに頼まれ、バックヤードで該当の本を確認しながら準備し、順番に棚に並べていく。そして、工学系の書籍があるコーナーに移り、棚と棚の間で人目が遮られながらの作業をしている時だった。


「すみません」


 不意に背後から男の人に声を掛けられた。


「は、はい!」


 私は学生時代からバイトをしているにも関わらず、未だにお客さんに話しかけられると緊張してしまう。


 振り返ると、視界にはティーシャツに書いてある英字が飛び込んできた。訳すと変な意味になるな、なんて思いながらも視線を上に上げていくと、にこやかに笑っている大学生くらいの男の子と、その後ろには友達だと思われる少し背の低い男の子が立っていた。


「情報工学理論の本を探してるんだけど、どこ?」


 この書店は専門書の取り扱いが多いため、こうして難しそうな書籍を探しに来店する人も多い。

 頭の中で情報系の書籍がある辺りを思い出しながら、特別なことでもないのに、勝手に速くなっている心臓を落ちつけようと深呼吸をした。


「こ、こちらです」


 該当の本棚へと案内し、これで役目を終えたと油断したところに、背の高い方の男の子に腕を掴まれてしまった。


「ななななな、なんでしょうかっ⁉」

「バイト? 何時に終わるの? 待つから俺らと遊ばない?」

「えっ、えっ⁉」


 なにっ⁉ 本は? 違う、その前に離して欲しい!


「なんなら友達呼んでくれてもいいし。夏だし、楽しいことしようよ」


 友達いないし、本があれば楽しいんだけど。そうじゃなくて、断らなきゃ……こういう時はどう言えばいいの⁉


「あああの! はなっ、はなっ」

「何? うわ、顔真っ赤。照れてんの? かわいいね」


 上手く言葉が出てこないから、せめて腕を離してもらおうと、一生懸命腕を振ったり引いたりしてみたが、がっちりと掴まれていてビクともしない。動かせば動かすほど、その爪が二の腕に食い込んできて、痛くて、顔が歪んでしまう。


 その時。


「すみません。建築デザインに関する本が見つけられなくて。もし、こちらの方の御用がお済みでしたら探してもらえませんか?」


 控えめなのに耳触りの良いテノールの声が、バタついていた私達の中に落とされた。

 ハッとして横を見ると、線が細くて背の高い男性が私の横に立って見下ろしている。メタルスクエアの眼鏡の奥に見える切れ長の目は一見冷たく見えたが、私に向けられている視線には優しさが感じられる。

 そう思っていると、不意にポーンっとミのフラットが優しく響き、『愛の夢』が流れ始めた。流れるアルペジオが頭に響いているものの、ゆったりとしたメロディに反して、私には余裕の欠片もない。


「あっ、は、はい!」


 私にも聞こえる程の舌打ちをした学生二人組はすんなり諦めてくれたようで、あんなにしつこかったのに、いつの間にか腕は解放されていた。


「あ、の……ありがとう、ございます」

「いえ。僕は本の場所を聞いただけですから」

「あっ、本……」

「あぁ、こんなところにありました。ありがとう」


 私がまだ本を探していないにも関わらず、その男性は目当てだったであろう本を手にして、静かに微笑んでから、あっという間に行ってしまった。


 一瞬の出来事。


 男性は助けてくれたのに、そうじゃないと言う。初めから本の場所は分かっていたのだろう。それでも、わざと分からないフリをして助けてくれた。

 さり気ない優しさに気付いた途端、胸がじわじわと熱くなっていった。


 後から考えれば、随分とベタな出逢いだったと思う。まさか自分自身に恋愛小説のような出逢いがあるとは。

 でも、小説と違うのは、主人公であるはずの私が次の行動など起こせないということ。そして、これ以上の接点が持てなかったということだ。


 その後、その男性の姿を見かけることは度々あった。

 仕事が建築関係なのか、そういった専門書を買っていくこともあれば、小説を買っていくこともある。

 店内をゆっくり見て回り、何も買わないということもある。そんなふうに観察している私は、もしかしてストーカー気質だったのかもしれない。


 でも、そうして見ていたお蔭で、接点は無いものの、その男性が第一印象と違わず、優しい人だということが分かった。

 時には、おじいさんが届かない本を代わりに取ってあげていたり、小さな子どもの視線に合わせてしゃがんで何かを話していたり。

 その時に見る笑顔がとても穏やかで、私は仕事中だということを忘れて見蕩れてしまう。

 ただ、私にその笑顔が向けられることはない。それでいい。その笑顔がこちらに向いて、その視線に捉えられてしまえば、私は石のように固まってしまうだろうから。


 だから、私はその人を遠くから見ていられたら、それでよかった。


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