予兆
もみじの葉が、空と同じ紅に染まっている。
黄昏時、ということもあるのか。村はずれの池のほとりにある小さな祠に、人の姿はなかった。
時折、風が木の葉と水面を揺らし、そのわずかな音だけが響いている。
「ここも、か」
誠治郎は、眉をしかめる。精悍な顔つき。かつてのあどけなさは消え、眼光に鋭さがある。藍色の小袖と袴に二本差し。剣士としての風格が漂う。
「ひどいものですね」
答えた声は女である。しかし、髪は無造作に結い上げ、縞の小袖に袴に、こちらも二本差しで、遠目では男のように見える。
「きちんと管理はされているようではありますが」
鏡子の言うように、祠は、きちんと手入れをされており、朽ちてはいない。祠の周囲の草も丁寧にひかれており、荒れた様子はどこにもない。
しかし、清浄なはずの場所に、明らかに穢れが生じている。
祠の柱に虫食いのように、ねばねばとした闇がまとわりついていた。
誠治郎は、祠の扉に手をかけた。ピリリと、神気を肌に感じる。
「まだ、神の力は残っている」
「それは、幸いです」
誠治郎の言葉に、鏡子が頷く。
星山大社の大祭から十年。
次の大祭が近いからなのか、それとも前回の大祭がうまくいかなかったせいなのか。
このところ、蘇芳全体で、魔族の動きが活発化している。どこの神域も、このように魔に蝕まれていることが多い。
まだ、神気が残っているのは幸いだった。
もともと祀ってある神が健全なら、修復は簡単だ。
開いた扉の奥には、御神鏡が置かれていた。
夕日の残光を僅かに反射している。
「やはり曇っているな」
「……ひどいものですね」
磨かれた鏡面の一部が、黒く曇っていた。
鏡子が、懐から龍笛をとりだす。
「はじめます」
ざわりと、もみじの葉が揺れた。
鏡子の唇が龍笛にふれ、楽の音を奏でる。
透き通った音色が、静かに流れ始め、池の水面を渡っていく。それに呼応するかのように、しゅうしゅうと、木や池の水面から黒いものが噴き出した。
黒い塊は、一か所に集まりながら、ふくれていく。
辺りから噴き出るものがなくなると、塊はどんどんと質感を増し、人のような形を取り始めた。
誠治郎の腰丈ほどの大きさ。それは、角が生え、銀の目をもつ鬼となった。
鬼は、その目に二人を映すと、キッと威嚇の声を上げる。
誠治郎は、鬼を見据えたまま、鏡子を庇うように立つ。
ひらり、と、もみじの葉が舞い落ちる。
鬼が腕を振り上げ、誠治郎に躍りかかってきた。長い爪が鈍く光る。
鬼の一撃を身体を横に振ってかわし、誠治郎は抜き打ちざま、鬼の身体に白刃を滑らせた。
「日輪よ、我に、力を」
白刃がまばゆい光を放ち、鬼の断末魔の叫びが、あたりに轟く。
夕日の残光に鬼が溶けるように消えると、鏡子は笛を吹き終えた。
「終わりましたね」
「ああ」
祠の御神鏡の曇りは晴れて、銀の鏡面を取り戻していた。
「それにしても、酷い状態ですね」
要としている神社はともかく、そこらじゅうの祠が、魔に侵されている。
地道に浄化作業をしてはいるものの、終わりが見える様子が全く見られない。
「根本的に、何かが狂っているようだな」
都への道をたどりながら、誠治郎はため息をつく。
都そのものに張られた結界は、まだ侵されてはいないとはいえ、周辺がここまで穢れているのでは、結界が破られるのは時間の問題だ。
「星山大社の方も確認いたしましょうか」
「いや、一度、陛下にお話しした方がいいだろう」
今、宮中では、十年に一度の大祭に向けての準備も行われている。
『前回と同じ』では、おそらくは、十年持たない。
星山大社の大祭は、
「……明日の夜神楽までには、戻らねばならぬのだろう?」
誠治郎が、今回の役目に鏡子を伴おうとした時、宮廷祭司である鏡子の兄
鏡子は、誠治郎と共に封魔の仕事をしてはいるが、役目上は、兄、実成と同様に祭司なのである。
「形式的な祭祀より、現実の封魔の仕事のほうが優先されるべきだと思います」
鏡子は頭を振る。
夜神楽というのは、一年の実りに感謝するための祭りであって、封魔の意味あいは非常に低い。祀りというより、政の意味合いが強い行事である。
「鏡子殿がいないと、実成殿の負担が大きかろう」
「……そんなことは」
「いずれにせよ、陛下に速やかにお知らせせねばなるまい」
十年前のあの日。
天に流れた、いくつもの赤い星。
裂け目から吹き上がってきた妖気を、誠治郎は思い出す。
「霧氷山の結界に何か起こっているとしたら、俺たちの力だけでは手に負えない」
「……誠治郎さま」
誠治郎は、提灯に灯りをともす。
都の灯はまだ遠く、空には満天の星が輝き始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます