第72話「共通の興味と目的意識」
母の退職以降、しばらく囲碁とは無縁の日々を送っていたが、五年生になったこの年の夏、私は母から三千円分の図書カードをプレゼントされた。
母は以前から、私のテストの成績に応じてお小遣いを増やしてくれたりしたが、一学期中に学校で行われた大小様々な規模のテストで、私がすべて九十五点以上というハイスコアを叩き出したことを母はおおいに称賛してくれた。首藤も私のことが気に食わないとはいえ、さすがに答案に難癖を付けるような真似は困難だったのだろう。採点においてはごく普通の教師と同じように、潔く正答箇所に丸を付けてくれた。
何か欲しいものがあれば買ってやると言われたが、特に思いつかないと答えた。数日後、私がよく本屋に行っているからという理由で、母は高得点を連発したご褒美に図書カードをくれたのである。
夏休み中に、行きつけの本屋で囲碁を題材とした青春漫画を、母からもらった図書カードで購入した。本屋にはよく足を運ぶので、前々からその漫画の存在は知っており多少興味も持っていたものの、わざわざお小遣いをはたいて買おうとは思っていなかった。
最初は一巻のみを買ったのだが、思いのほかハマってしまい、次に本屋を訪れた際に当時発売されていた七巻まですべて購入した。三千円は小学生としては大金で、そう簡単に使い切ることはないと思っていたが、予想に反してあっという間になくなった。
その漫画を読んでいるうちにまた囲碁をやってみたくなり、九月から毎週日曜日、駅前の小規模な初級者教室に通い始めた。
その教室は三十級からのスタートだったが、数年のブランクがあるとはいえルールはしっかり覚えており、また、シチョウやゲタといった石を取る基本的な手筋やごく簡単な死活の知識も有していたので、二十五級からのスタートとなった。
今日の教室は、講師の都合で休み。先週の対局――初級者教室なので公式の十九路盤は用いず、十三路盤で対局した――で同市の別の小学校に通う受講者に勝ち、十九級に昇級した。
囲碁教室は、私にとって楽しみなイベントとなった。
負ければそれなりに悔しいものの、それ以上に楽しさが優った。何より心地よかったのは、教室の講師や受講する子供たちと、適度な距離感と割り切った関係性で接することができた点だ。
学校の人間関係は、大人も子供もくだらないしがらみが存在してうんざりだった。得意も苦手も興味の有無も好きも嫌いもひっくるめて総合的に判断され、そこから自分なりに個性を表出しようと逸脱するとそれを多方面から阻止されるような、気を遣い合ったり空気を読んだりすることばかりが求められる不自由極まりない環境における関わりは、私には合わない。
囲碁教室ではそうした厄介なしがらみがなく、週一回顔を合わせるだけなので、互いに余計なことを考える必要性がない。講師は子供たちに囲碁を教えて強くすることだけを考えるし、子供は囲碁を習って上達することだけを考える。
二十数名の受講者は、小学一年生から六年生まで幅広い年齢の子供が集まっていた。みなそれぞれ共通の興味と目的意識をもとに短時間だけ集結しているということが、私には心強く感じた。学校と異なり、そこにいる理由を同じくしている人ばかりだったので、他愛ない会話も滑らかになりやすく、関わることが楽しいとさえ感じた。
また、教室の講師が二十歳そこそこの女性で――院生出身で、以前プロを目指していたそうだ――、笑った顔が少しだけ柴咲コウに似ている美人だったことも私を愉快にさせた。彼女もルノアールの店員に負けず劣らずの美脚を持っており、当時から上半身よりも下半身に吸い寄せられる子どもだった私は、教室の帰りに向かいのセブンイレブンのトイレで発散することが習慣となっていた。
共通の目的意識ということであれば公文やそろばん教室にも言えるかもしれないが、公文は個別塾のようなスタイルで生徒同士の関係はないに等しかったし、そろばん教室もそれぞれ黙々と問題を解くことが大半で、公文と似たようなものだった。
もともと、一人の時間を好み、余計なつながりは進んで持たない子どもだった。それで、充分に満足のいく日々を送っていた。
しかし、五年生に進級して以降様々な係累に巻き込まれ、私はとても疲れていた。
疲労はいつしか孤独へと変貌し、私の中でちくちくとうごめくようになった。人恋しい、などというセンティメンタルな感情ではない。同情や慰めを欲しているわけでもなかった。そこまで心の弱い人間ではなかったと思う。
ただ、裏表や駆け引きのない、いわば等身大のやり取りのようなものをしたかったのだ。平穏だった私の日常の歯車は、どこで狂ってしまったのだろう。
問題集を半分ほど解き終えて店の壁掛け時計に目をやると、午後二時五十分になろうとしている。
深いため息ののち、トレイを片付けてくだらないしがらみに溢れた環境へと足を向けた。
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