第71話「囲碁との出会い」

 行きつけのモスバーガーは日曜の昼どきということでかなり混んでいたが、なんとか席を確保できた。

 カップラーメンだけでは足りなかったので、ポテトLサイズとモスシェイク(バニラ味)を購入する。まだ十三時過ぎなのでゆっくり休める。


 静かな場所でひとり物思いにふけることが幸福だという事実は、光蟲にルノアールという神聖な場所を教えてもらって気付いた。しかし、静かでなくともこうして一人、自身と接点を持つ人間がいない環境で心身を休めることに安心感を覚えるのは子どものころからであった。

 芝居のほうはもう動きも台詞も不安な箇所はなかったため、台本は開かず、代わりにランドセルから級位者向けの囲碁の問題集を取り出す。


 囲碁に初めて出会ったのは、小学一年生の時だった。

 母がその頃一年ほど、株式会社ユーキャンの一事業部門である日本囲碁連盟の事務のアルバイトをしており、そこでルールを覚えてきた。

 母は出身大学のわりに――大妻女子大学は歴史があり決して悪い大学ではないものの、偏差値は決して高い部類ではない――比較的幅広いジャンルにおける教養を有しているし、物事に対する自分なりの見解の持ち方という観点から見てもそれなりに怜悧れいりな部類の人間だと感じているが、囲碁についてはまったくの素人だった。

 日本囲碁連盟で働くまでは五目並べとの区別さえついておらず、それどころか囲碁イコール五目並べという誤った認識を持っており、「五目並べにプロがあるのね」なんて奇想天外ともいえる思い込みをしていたというのだから、なかなかどうして愉快な側面を有しているものだ。


 母が職場から借りてきた入門用のビデオを観て、私は囲碁のルールを知った。

 特に進んで観始めたわけではなく、何気なく母が再生したものを眺めていたが、アニメのようなキャラクター数名による簡素なストーリー仕立てになっており、小学一年生でも取っつきやすいものであった。それを二、三度観るうちにだいたいのルールを理解し、母と九路盤で対局できるくらいの棋力――と呼べるほどのものではなく入門レベルであったが――に達した。母は五目並べと囲碁の区別は付くようになったものの、囲碁のセンスはまるでなく、私と通算十局以上は打ったはずだが一度も勝てなかった。


 翌年の六月、梅雨入りとともにアルバイトの契約が終了し、母はユーキャンを退職した。

 囲碁は当時からそれなりに面白く感じていたが、継続的に行うという発想はなく、母の退職とともに自然と日常から離れていった。

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