第42話「味噌ラーメン」

 地上に戻ると、あたりはすっかり夜が立ち込めていた。

 昼間と比べるとぐっと寒さが増し、厚手のジャケットを着ていても、首筋や手など無防備な箇所が攻め込まれる。


 そういえば、珍しく今日の浅井はヒールが高めの靴を履いている。下ろしたてか、せいぜい一、二度履いた程度であろうと思われるネイビーブルーのパンプスにより、およそ五センチほど上乗せされているだろうか。

 並んで数分歩き、なにか普段と違うなと感じていたが、原因がわかってすっきりした。異性の背丈に特段のこだわりはないが、いつもと違う浅井を見られたことや、彼女がそうしてくれたことを――たまたまかもしれないが――嬉しいと思う。


 模擬店が並んでいたメインストリートでは、学生たちが寒さなど気にもとめぬ様子で、名残惜しむようにたこ焼きやらフランクフルトやらの匂いを身体中に漂わせながら、後片付けに勤しんでいる。茶道部のほうは人数が多いこともあり、この時間にはもう終わっていたので部員たちとすれ違うことはなかった。


「こんな小さいキャンパスなのに、張りきって店出しすぎじゃないかねぇ」

 光蟲が口にしそうな軽い皮肉だなと思う。いや、彼なら、もっと切れ味鋭い表現を用いるだろうか。

「そうですね」

 浅井が、私の隣を歩きながら目で微笑む。

「あそこで焼き鳥売ってたの、青法会せいほうかいの人たちです」

 浅井の示す先に、確かにそれらしき学生が数名見えた。

「あぁ、そうだったの。それはもしかすると失礼なことを言ってしまったかな」

 右手で後頭部を軽く触りながら、私は苦い笑いを浮かべる。

「いえいえ、全然。乗り気でない部員のほうが多かったんですが、何人か毎年張りきってやる人がいて、それならその人たちだけでどうぞってことになったので」

 私の慌てぶりにくすりと笑い、浅井が内情を説明する。

「そっかそっか」

 ああいう模擬店で食べ物を買いたいと思ったことはただの一度もないが、彼らが漂わせる様々な匂いには青春の二文字を感じさせられ、それは別段悪い気がしなかった。


「どこ行きますか?」

 正門を出たので、そろそろ行き先を決めなければならない。

「そうね……そんなお店詳しくないけど、しんみち通りによく行くラーメン屋ならあるよ。あんまり若い男女で行く感じの店ではないけど」

 男臭いラーメン屋という間抜けなチョイスにではなく、若い男女という形式ばった表現に、自分で口にしておきながら思わず半笑いになった。

「いいですよ。ラーメン好きなので楽しみです」

 仮に気が進まなくても、浅井はたぶん同意するだろうなと思う。


 日曜日なので、しんみち通りでは薄汚れたスーツ姿のサラリーマンはあまり目にしなかった。ラーメン屋も平日と比べて空いており、そのせいかタバコ臭さも抑え目だ。一番奥のテーブル席が空いていたので腰かける。


「いつも何頼むんですか?」

 浅井が、壁に掛かったメニューに視線を向けたまま尋ねる。

「味噌ラーメンかな。ここの店主さん札幌出身らしいから、特に味噌にはこだわり持って作ってるみたい」

 前に光蟲から聞いた情報だが、インターネット上でも同様の書き込みがあった。

「そうなんですね。じゃあそれにしようかな」

「なんか飲む?」

 光蟲の影響で一人で来る際も、ここでは必ず何かアルコールを頼んでいる。

「いえ、私お酒弱いので。それに一応、まだ十代ですし」

「あぁ、そういやそうか」

 互いに微笑し、そういえば自分もあと三週間ほどはまだ十代であることを思い出した。

「でも、私に構わず飲んでください」

「じゃ、遠慮なく」

 すいませーん、と間延びした声で、近くにいたアルバイトらしき店員を呼びよせた。


 * *


「生一つとウーロン茶一つに味噌ラーメン二つ、お待ちどう!」

 珍しく、店主自ら運びに来た。

「今日は、いつもの兄ちゃんとじゃないのかい」

 どちらかというと強面こわもての店主だが、飲食店の従業員らしい爽やかな笑顔を向けて尋ねる。

「ええ。今日はちょっと、部活の後輩と」

 思いがけない質問に多少の戸惑いを付随させながらも、彼の爽やかさを模倣して答えた。

「そうかい。良いねえ、若いってのは」

 店主につられて、私も浅井も表情を緩める。上部のテレビからはナイター中継――この日は巨人対楽天だった――が流れているが、例によって観ている客はほとんどいない。


「美味しい」

 麺とスープを二口ずつ口にした後で浅井が呟く。

「麺の太さはちょうどいいし、スープにも深みがあるよね」

 ここ以外のラーメン屋へはほとんど行かないので薄っぺらいコメントしかできないのが惜しいが、普段食べる安いカップ麺などとは次元の異なる味であることは間違いない。

「あったまりますねぇ」

 カウンターで食べていた老人が会計を済ませ、縦格子たてごうしのガラス扉を重そうに開閉している。入り口から離れているが、寒空の匂いと冷気が味噌スープにブレンドされた。


「やっぱ、頭使ったあとの食事は美味いね」

 半東で奮闘し、さらに対局まで行ったので、普段に増して実感する。

「ふふ、そうですね」

 麺とスープを順調に運び入れ、浅井の唇のグロスはいくぶん落ちてきている。


「すいません、追加で餃子とレモンサワーを」

 水を継ぎ足しに来た店主に依頼すると、すぐさまあいよと、活気のある返答がなされた。

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