第43話「清々しさ」

「二百円のお返し。まいどどうも!」

 店主の快活な挨拶を聞きながら、釣り銭を財布にしまった。


「美味しかったですね。おごっていただいてすみません」

 おもてに出ると寒さは確かに増しているものの、ラーメンのおかげか、体感温度は少し高いぐらいだった。

「いえいえ、それぐらいはね。コーヒーでも飲んでく?」

 本当はもう少し酒を入れたい気分だったが、相手は健全な未成年なので、さすがにここは歩幅を合わせて健全な定石に従うよりない。

「そうですね、そうしましょうか」

 浅井も、予想通りという声色で応手した。


 ルノアールは思っていたよりも混んでいたが、ちょうどよく禁煙の端席が空いていた。


「いらっしゃいませ」

 昨日も会った美脚店員が、お冷とおしぼりを運んでくる。

 ストッキング越しにもわかる彼女の脚線美や豊満なヒップにさりげなく見惚れつつ、正面に座る浅井が見やすいようにしてメニューを広げる。

「ケーキとかもあるから、食べたかったら遠慮なく」

「良いですね。どうしようかな……おすすめありますか?」

「ガトーショコラかな。程よい甘さで美味しい」

 普段はブレンドだけで満足してしまうのでケーキは頼まないが、初めて光蟲と訪れた際に注文した。ルノアールのガトーショコラは光蟲も太鼓判を押しており、彼のコメントを引用した。

「じゃあ、それにします。あと、ブレンドを」

 

 頃合いを見てやって来た美脚店員に、ブレンドコーヒーとガトーショコラを二つずつオーダーした。


 * *


「ルノアールって色んなところで見かけるけど入ったことなくて、初めて来ました」

 ガトーショコラにフォークを入れながら、浅井が思い出したように呟く。

「光蟲くんが好きでね。飲んだ後のシメに来ることが多いかな。最近は一人でも、考え事したいときや落ち着きたいときに来たりするけど」

 この前団体戦をすっぽかした日も、ルノアールのおかげで私の精神は保たれていた。

「へぇ、そうなんですか。癒しの場所なんですねえ」

 六十代ぐらいの老人グループがぞろぞろと席を立ち、会計に向かう様子が目に入る。

「癒しか。そうねぇ、そうかもしれないな」

 ブレンドを味わいながら少しのを置き、私はいかにも感じ入ったように答えた。


「何かあったんですか?」

 浅井は口元を緩めながらも、不思議そうな顔つきをしている。

「いや、何もないんだけど、この時期になると感傷的になりやすくてね。特に文化祭のシーズンは。高三の時、文化祭の準備期間にクラスの人たちとまるでうまくやれなくて、逃避していた苦い記憶があって。まあ今時の言葉を使えば、コミュ障だったというだけの話なんだけど」

 なぜ浅井にこんな話をしたのか、自分でもよくわからなかった。

「そうですか」

 浅井の声は穏やかで、でも心なしか哀しげな声音こわねだった。

「高校のときは帰宅部だったから、ホントになにもしてなくてね。今思うともったいない過ごし方だったと思うよ。浅井さんは、何か部活とか入ってた?」

 酒が入っていたので、普段よりも少しばかり口数が多くなっていることに自分でも気付いた。


「私、高校中退したので。部活も入ってなかったですね」

 ありふれた返答ではなさそうだと予期していたものの、しかし驚かざるを得なかった。

「そうだったんだ。そうとは知らずに、余計なことを話して申し訳ない」

 美脚店員が失礼しますと言いながら、サービスのお茶を運んできた。

「いえいえ、気にしないでください。隠すことでもないですからね」

 珍しく、浅井も半笑いを浮かべている。

「それじゃあ、大学受験は大検か何かを取って?」

「そうですね。今は大検ではなく高卒認定試験って名称ですが、中身は同じようなものですね」

 今日のお茶は昨日のそれよりも少し熱く、ひと口飲んですぐさま水に手を伸ばした。

「そうかぁ。いろいろ大変だったろうに、立派なものですよ」

 他人事ではあるが、真面目な感想だった。


「高校で、クラスメイトからいじめられてまして。最初のうちは我慢して通っていたんですが、途中で不登校になって、結局中退したんです」

 それなりに驚きはしたものの、中退と聞いたときからの予想の範疇でもあった。

「私、普段からあんまりしゃべらないし表情も乏しいので、周りからすると扱いにくい存在だったんでしょうね。あと、自分で言うのもなんですが、成績は結構良かったので、それがまたかんに障ったのかも」


 自分に似ている、と思った。いや、実際の性格はいろいろと異なるのだろう。しかし、同じような要素をぶら下げていながら、よく自分は高校時代にいじめを受けなかったと思う。

 当時は、もしかしたら神が見逃してくれたのかもしれない。それ以前の出来事と天秤にかけ、帳尻を合わせてくれたのかもしれない。


「よく耐えたんだね。すごいな」

 私がやや声量を落としてそう言うと、浅井は少し意外そうな顔を見せた。

「僕もかつて、担任の教師からいじめられてた」

「えっ?」

 浅井が、完全に意表を突かれたような反応を示す。

「小学五年生の時だけどね。いわゆる体罰ってやつ。暴力受けたり、授業追い出されたり、いろいろやられた。そういうのが続いて、だんだんクラスの連中からも冷たくされて、毎日しんどかったな。だから浅井さんのつらかった気持ちも、少しはわかるような気がするんだ」

 そういえば、体罰行為やクラスメイトからの嫌がらせが最もエスカレートしていたのも、今ぐらいの時期だった。

「池原さんも、つらかったでしょうね」

 呼び方が苗字に戻っても、今の私にはなんの意味も感情ももたらさない。


「でも浅井さん、入部当初より笑顔が増えたよね。見ていて嬉しいよ。大学生活、楽しくやれてるってことじゃないかな」

 そんな爽やかな感想を抱いてあっさり口にしてしまうなど、なんだか私らしくないような気がした。

 それでも、囲碁部や茶道部の様々な性格の人間と交流し、同じ目標に向けてともに行動したり、あるいは光蟲のような一風変わった人間と関わりを深めることで、私自身においても何かが変わってきたのかもしれない。

 それが何かははっきりとは分からないが、たぶん他人への純粋な興味だったり、または相手を思いやる気持ちだったり、生きていく中で誰もが当たり前に抱いている感情だろう。 


 私は、でもこれまで、そういう当たり前のものをないがしろにしてきたように思う。


「ありがとうございます。池原さんや、囲碁部の皆さんが良くしてくださるおかげですよ」

 わずかに頬を赤らめ、浅井が安堵したような温柔おんじゅうな顔を見せる。


 指に深く入り込んだ刺が抜け落ちたような、ホッとしたような清々しさを、互いに確かに感じていたと思う。

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