第41話「夢物語」
置碁の経験はそれほどないが、日本棋院の教室の対局でたまに打ったり、プロ棋士の指導碁や棋譜解説を見たりしているので、それなりに勝手はわかっているつもりだ。
「お願いします」
「お願いします」
いつもどおり、互いに一礼。いつにも増して濃厚な静寂を纏った狭い部室に、それぞれの挨拶がはっきりと響く。快晴のSJガーデンで自分らしからぬ爽やかな進行役を務めるのもたまには良いが、やはり私はこちらのほうが安心できる。
一手目、コゲイマガカリ。数秒の思考の後、浅井はケイマに受けた。
もともと三連星の布陣が敷かれている状態でケイマに受けるのは消極的に思えるが、見方を変えると落ち着いた応手とも取れる。三手目のヒラキに、黒は同じくケイマのツメ。次に上辺の打ち込みを見つつ、隅を強化して良さそうな手だ。
悠長に上辺を守っている余裕はなく、五手目で左下にカカリ。今度も受けてくるかと思いきや、
私は、しかしここで珍しい打ち方をした。
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「初めて見た……」
私の放った一手に、浅井は興味と困惑を同居させたような表情を浮かべる。
浅井は、入部当初と比べて感情を表に出しやすくなった。
碁打ちとしては、ポーカーフェイスでいるほうが対局相手に眉を読まれにくく良いのだろうが、浅井が以前よりも楽しそうに碁を打っている姿を見られることが嬉しかった。
それが自分のおかげだなどと思うほど私は不遜な人間ではないものの、彼女の変化に自分の存在が多少とも影響していたとすれば、私が部長を務めている意味があるのかもしれないと感じる。
先週の教室の講義で目にしたばかりのその手は、数年前に
六子も置かせているので多少の薄みには目を
しかし、浅井が冷静に序盤のリードを守り切り、八目勝ちを収めた。
「いやあ、参りました」
もう少し僅差にできるかと思っていたが、
「いえいえ、これだけ置いているので」
浅井は苦い笑いを浮かべながらも、私から奪取した初の白星に満悦しているように見える。
「弱い石を作らないように意識して、しっかり打てていたね。布石も安定してたよ」
「ありがとうございます。でも、少しぬるかったかも」
「まあ、多少割食ってるところはあったかな」
いつものように、初手から並べ直して検討する。持ち前の記憶力を頼りに、おそらく二百手近く再現された。
「よく覚えていますよね~。私、まだ自分の打った碁でも二、三十手ぐらいしか並べ返せないです」
私の
「互いの着手の意図を今以上に考えて打てるようになると、百手ぐらいは自然と再現できるよ」
井俣のように自信家ではないので断定的なアドバイスは避ける主義だが、珍しく明確な物言いをした。
「意図ですかぁ。確かに、まだ何となくで打ってしまっている場面が多いです」
「まあ、そのうちできるようになると思うよ。そろそろ、終わりにしますか。長くなって悪いね」
普段、検討はあまり長々と行わないほうだが、気づけば対局終了から四十分ほど経っている。
「いえ、ご丁寧にありがとうございました」
碁石を片付けながら、そういえばだいぶ腹が減ってきたなと感じる。茶会の間はあまり食欲が湧かず、休憩中も菓子パンひとつしか口にしていなかった。
「時間あるようなら、夕飯行く?」
石をしまい終えて互いに挨拶した後、ほんの数秒の間を置いて提案した。
「あっ、良いんですか?」
予想通りの展開のはずだが、浅井は少し不意を突かれたような口調で、しかし口元を緩めて答えた。
「うん、もちろん」
女性と二人きりで食事に行くことは初めてだったが、特別緊張することはなかった。
自然で、もしくは必然とさえ言えるかもしれないその平凡な第二局面への踏み込みは、私に
大学二年生にもなってそれまでそんな経験もなかったのかと、おそらく大多数の人は驚くことだろう。これまでの私には、でもそれは想像だにできないことだった。文化祭の準備に加わることができずに教室の隅でうなだれていた自分や、あるいはもっと前の、今よりも世間に対して好戦的だったり挑発的だったりした頃の自分には、夢物語のような行動だ。
大学生活って、良いものだな。
光蟲の気遣いをありがたく咀嚼しながら、浅井とともに薄汚れた部室を後にした。
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