第40話「一番手直り」

「お待たせ。ホント、来てくれてありがとね」

 私服に着替えて部室に行くと、浅井は以前渡した布石の本を読んでいた。


「いえ、こちらこそ。悦弥さんあまり喋るイメージなかったので、さっきのお茶会は少し驚きました」

 彼女が先ほどと同じく“悦弥さん”と呼んだことに――さっきは光蟲につられたものと思われるが――、微かに脳がざわつく。悦弥さん。その響きを反芻する。

「ちょっと思い切ってみたくなってね。気心の知れた人がいたから、安心して話せたよ」

 無意識に普段よりも喜色きしょくを浮かべてしまい、やや決まり悪く感じた。


「光蟲さんでしたっけ。他学部に、お茶会に呼ぶほど親しい友達がいるんですね」

「フランス語の授業で知り合ってから、なんか気が合ってね。逆に、同じ学科の人とは交流薄いよ」

 社会福祉学科の人間とは、サシで食事や飲みに行ったことなど一度もない。

「へぇー、そうなんですね」

「彼、ちょっと変わってるけど面白い人だから、機会があればまた飯でもね。まあ、もう機会ないかな」

 ちょっとどころではないよなと思いながら、私は得意の半笑いを見せる。

「確かに、学部も違うしなかなかなさそうですね」

 互いに半笑いを浮かべながら、でも同じ大学にいる以上、ありえない話ではないよなとも思った。


「相変わらず、頑張ってるね」

 以前貸した棋書には、所々に付箋が貼られている。

「いえ、他に何もやってないので、これだけはやり込みたいと思いまして。とりあえず三周したんですが、五周ずつ終えるまでお借りしていいですか?」

 短期間に同じ棋書ばかり繰り返して、よく飽きないものだと脱帽した。

「うん、いいよ。でもそれだけ熱心にやってるなら、団体戦の白星も納得だね」

「そんな。あれはむしろ序盤がひどくて、終盤に相手のポカに救われただけなので」


「まあ、打とうか」

 碁盤の上の手前にある碁笥ごけを開け、白石が入っていることを確認して盤の右横に置いた。

「手合いは、また定先じょうせんですか?」

 これまで、浅井とは毎回定先で対局していた。井俣にならってそうしていたのは、ハンディなしの団体戦で対局するための練習が目的だった。


「いや、六子ろくしでやってみようか」

「六子ですか」

「少し多いかもしれないけどね。浅井さんが勝ったら次は五子ごし、負けたら次は七子ななし。一番手直り形式でどうかな?」

 一番手直り形式の対局は実際にやったことはないが、白眉さんが他大学の部員と行っている姿を見て、ひそかに憧れていた。


「いいですね、面白そう」

「定先で負けてばかりだと、やる気も続かないでしょ」

 余計な一言かもしれないと思いつつ、私は半笑いで付け足す。

「そうですね。でも、六子でも自信ないですよ」

 浅井のナチュラルな微笑を確認し、ホッと胸をなで下ろした。


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