第30話「祝杯」

 市ヶ谷に来るのは久しぶりだった。


 最後に訪れたのは、確か七月の個人戦(学生王座戦関東予選)の時。個人戦は、団体戦とは異なりトーナメント方式なので、負けたらその時点で終了となる。上智大学からは、私と井俣の二人だけ参加した。井俣は三回戦で元院生の強豪に敗れたものの、一・二回戦を勝利し実力を発揮した。

 対する私は初戦で別の元院生と当たる不運に見舞われ、あれこれと勝負手を放って粘ったが、格の違いを見せつけられた。負けてしまったので先に帰らせてもらう、という私に、井俣は同情した様子で「お疲れ様です」と返してきた。その大会の後にこの店に寄ったのだ。


 『カレーの王様』というインパクトのある店名は、母が大妻に通っていたころから変わらない。

 各種具材のトッピングや日替わりの大盛サービスなどが記載された店前のメニューは今様いまように改変されている点もあろうが、かつてと変わらないレンガ調の外壁に昭和の郷愁が漂っている。赤褐色せっかっしょくのそれは、中学・高校時代の退屈で平穏な日々を思い出させる。子どものころから、私はこの店の壁を見るのが好きだった。

 

「ビーフカレー、特盛かな」

 光蟲が、メニューを眺めながら言った。

「よく食うねえ」

 大盛は私もよく頼むが、特盛はさすがに考えたことがなかった。

「いつも何頼むの?」

「ん……特に決まってないかな。自分もビーフにするよ。大盛で」

 店に入る直前にそっと壁にふれると、立冬りっとうの寒気がじわりと左手にみた。


 夕飯時としては少し早いのか、店内には数えるほどしか客はおらず、従業員も暇そうにしていた。

「お、ここビールあるんだ。じゃあ大ジョッキで」

 光蟲は、本当にビールを溺愛している。

 

 井俣に勝利した喜びを噛みしめるため、私も同じサイズを注文する。

 カウンターでカレーを受け取ると、ジョッキは後からテーブルに運んでくれるとのことだった。



「生ビール二つ、お待たせです」

 東南アジア系の若い店員が、なまりのある日本語を口にしながらジョッキを運んできた。


「じゃあ、今日もお疲れ」

「お疲れ様~」

 いつもどおり、光蟲のほうから口を開いて酒を重ねる。乾杯は、気の合う者同士で行う時に限り意味があるということは、夏季休暇中の合宿の際に身をもって実感した。


 生ビールをごくごくと適量飲んでから、ビーフカレーに取りかかる。トッピングした半熟卵にスプーンを挿入すると、するするとカレーの波に溶解された。


「うん、美味い。正統派ですな」

 ひと口食べると、光蟲が満足げな笑みをたたえた。

「わりと普通だけど、美味しいでしょ」

 店員が多国籍になっても、ここのカレーの味は昔から変わらない。

「うんうん、さすがはお母さんが学生のころからある店だね。安定感あるわ」

 褒めつつも辛さが足りなかったようで、テーブルの上のスパイスを取って振りかけている。


「囲碁部の一年に強いのがいるんだけど」

 光蟲がスパイスを振る手を止め、視線をこちらに移す。

「四月から何度も対局して一度も勝てなかったんだけど、今日、初めて勝ったんだ」

 辛口を選んだものの、それでも確かにやや辛さが足りないと感じた。

「それはすごいね。やっぱり教室にも通って勉強してるから、上達してるんだなぁ」

 こういう時、どれほどの価値があり、どれほどの苦労を要したのかをつぶさに知らなくとも率直に関心を示してくれる点で、この男は良い性格をしていると思う。一見簡単なようで、そういう感情表現は結構難しいものだ。


「この前の大会では気持ちの切り替えができなかったけど、今日はすごく落ち着いて打てたんだよね。なんか、最近わりといい感じかも」

 珍しく、光蟲よりも早いペースでビールを減らしていく。

「いやいや、すばらしいよ。成長の証ってやつだね」

「そうかな」

 直球の称賛を受け、決まり悪そうな半笑いを浮かべながらスパイスに手を伸ばした。

「そうそう。悦弥くんはもっと自信持って良いと思うよ。俺が保証する」

 そう言った光蟲の表情は、いつもの半笑いではなくいつにない爽やかさをまとっていた。


「俺が入ってるシネマ愛好会なんて、何ひとつまともに活動してないからね」

 そういえばそんなサークルに所属していると前に話していたが、あまり詳しく聞いたことはなかった。

「映画好きだから、ピッタリのサークルじゃないの?」

「一年の頃は、まだ真面目に映画観たりしてたんだけどねー。最近は部室で音楽流して、菓子食いながらダベってるだけだわ」

 それもまた、光蟲には似合っているような気がした。

「楽しそうでいいじゃん」

 ジョッキを持ち上げながら、私はいたずらっぽく笑ってみせる。


「最近は三年生や四年生もあんま来ないからね。もはや俺のプライベートルームと化してるな」

「どういうことだ」

 口に含んでいたら噴き出していたかもしれないなと、安心して破顔一笑した。

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