第29話「反断捨離」

「手ごたえ、ないわ」

 授業の後、光蟲が苦い笑いを浮かべて小テストの感想を呟く。

「思ったより難しかったね」

 八割五分は取れていると思うが、勘で解答した箇所もあり、これまでのように九割は難しいかもしれない。


「飯食ってく?」

 小テストの日は、普段の授業より少し早めに終わるのが良い。

「行きましょー」

 光蟲がスマートフォンを操作しながら、いつもの調子で答えた。


「たまには提案してみようかね、飯屋めしや

 いつもは光蟲が行き先や入る店を決めており、彼のチョイスになんの不満もなかったが、珍しく普段見せない場面で意思を表出してみたくなった。

「おっ、良いね。おすすめ教えてよ」

 スマートフォンをポケットにしまい、光蟲はいかにも重そうな黒い鞄を肩にかける。


「うん、じゃあ市ヶ谷で。それはそうと、何入ってんの、それ。めっちゃ重そうだけど」

「あぁ、大量の本持ち歩いてるからね。ドイツ語やラテン語の辞書とか、よくわかんない学術書とかいろいろ。おっと、フランス語の辞書もあったわ。まあ、どれもたいして使わないんだけどね」

 光蟲が鞄の中から、分厚い辞書やら哲学書やらを取り出して机に並べて見せる。

「せっかく持ってきてるなら使いなよ。それだけ重いのわざわざあって」

「いやあ、なんか持ってきたことで満足しちゃうんだよねー」


 例えばコンサートのチケットを事前に購入し、当日になって行くのが面倒になるような感覚に似ているのだろうかと想像する。対象を使うまでのプロセスが大切で、それ自体にはたいした意味を持たないとでも言おうか。


「今時、こんな厚い辞書持ち歩いてる人いないでしょ」

 半分呆れ、半分感心しながら半笑いになる。

「まずいないだろうね。でも、やっぱ辞書は紙じゃないとダメなんだよなぁ」

 彼は最新の携帯端末を使いこなしているわりに、意外とアナログな一面があるなと思う。


「本も、アマゾンで大量に買いまくってるね。買ってもいつも読み切れないんだけど」

 辞書や哲学書を鞄に戻しながら、光蟲も半笑いを浮かべていた。

「置き場に困るでしょ」

「ヤバいよ。自分の部屋とか、足の踏み場もなくなりつつあるからね。断捨離とか、いっさいする気ないけど」

 こういう妙なポリシーが、いかにも光蟲らしい。

「だから本買いすぎて、しょっちゅうクレジットカード止められてるよ。今月もたぶんもう止まってんだろうなー」

「いや、それはヤバいから。ブラックリストに載るでしょそのうち。断捨離しなくてもいいけど節約しなさいよ」

 最近、光蟲と話していると、今日みたいに半笑いで収まらなくなることがしばしばある。



「それで、市ヶ谷のどこ行くの?」

 正門横の守衛は、やる気なさげにあくびを漏らしている。

「子どものころからの行きつけのカレー屋があるんだけど、どう?」

 中学時代、日本棋院の囲碁教室に通っていた時からよく訪れている店だ。


「いいよ、カレー久しぶりだから食べたいね」

「僕の母親が、大妻の短大に通ってたころからある店なんだ」

「へぇー、歴史のある店なんですなあ」

 横断歩道のそばのホームレスが珍しく起きて周囲に視線を送っており、私は思わず目をそらす。


「カレー自体はわりと普通だけどね。歩いてく?」

 市ヶ谷までは、外濠そとぼり公園沿いに歩いて十分ほどで着くので、電車に乗るのもばからしく思える。

「近いから歩けるでしょ」

「荷物、平気?」

「いつもこれぐらい持ってうろついてるから、大丈夫」


 六時過ぎで、空はもうずいぶんと夜に色付いている。ルノアールのブレンドコーヒーに、一層のありがたみを感じる季節が近いなと思った。


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