第28話「不遜なぐらいの自信」

 三限の退屈なゼミが終わり、四限はもともと空いているので、フランス語の時間までは時間があった。

 五限のグラマーの授業でこれまでに習った範囲の小テストを行うので、図書室に行って最終確認をしてもよかったが、囲碁部に寄ってみることにした。茶道部が忙しくて最近はあまり顔を出せておらず、団体戦の後は一度も行ってない。また、小テストのほうは、ある程度自信があった。二週間前から知らされていたため、それなりに復習していたつもりだ。


 囲碁部の部室まであと数歩のところで、中から石音が漏れてきた。この自信に満ちたような石音はきっと井俣だ。私はノックをして、ゆっくりと扉を開ける。


「あ、お疲れ様です~」

 井俣が普段の調子で言い、向かいで対局していた浅井も会釈する。

「お疲れ様です。この前は、休んでご迷惑おかけしました」

 立ったまま、頭を下げて団体戦の件を謝罪した。


「いえいえ、そんな気にしないでください。また来年頑張りましょうよ」

 井俣はもう少し冷たい反応を見せるかと思っていたが、あっけらかんとしており意外に思った。浅井も、笑みを浮かべながら軽く首を振っている。

 浅井の横の席に腰かけ、対局を観戦する。大会が終わったので、ハンディを付けて練習対局をしているようだ。もう終局間近で勝敗は決しているが、浅井は最後まで半コウ争いに尽力する。


 整地してみると、白の十二目勝ち。五子置かせてもこれだけの差で勝つとはさすが井俣だ。


「浅井さん、ちょっと腕上げたよね。布石良くなったよ」

 井俣が、感心した様子でコメントする。

「そうかな、ありがとう」

 浅井が少し照れながら、決まり悪そうに微笑む。

「そういえば、電通大の四将に勝ったんだね。すごいよ、おめでとう!」

 私が初めて団体戦に出た時は五将で二局打って全敗だったので、初出場で白星を挙げたのはあっぱれだ。


「ありがとうございます。全然負けてたんですが、終盤で相手に見損じがあってどうにか勝てました」

 浅井が勝利するところを、この目で見てみたかったなと思う。

「見損じでも何でも、勝ちは勝ちだからね。自信持つといいよ」

「そうそう、来年はもっと多く勝てるように、今から練習しておかないとですね」

 井俣が、我々二人に向けて笑顔で告げた。

 彼とは性格が違いすぎて未だにぎこちない部分があるものの、言うことはだいたい的を射ているし、イニシアチブを取れるので部長には適任だろう。次年度からは、安心して井俣に部長のポストを引き継げるなと思った。


「悦弥さん、時間大丈夫でしたら打ちませんか?」


 井俣と対局するつもりではなかったが、最近茶道部のことで頭が一杯になっていた――というほど熱心に取り組んではいなかったが、やはり文化祭を目前にして緊張をはらんでいた――ので、気分転換には悪くない。


「うん、久しぶりに打ちましょう。五限あるから、時計使って早碁でもいいかな?」

 フランス語の授業まで一時間と少しあるが、ゆっくり打っていては遅れる可能性がある。

「では、一手二十秒でやりましょうー」

 井俣が、手際よく対局時計をセットする。

「お二人が対局するの、一度見てみたかったので楽しみです」

 浅井が、興味深そうに呟く。

「ははは。簡単に潰れないように頑張らないと」


 手合いはいつものように互先たがいせん。ニギリの結果、私の黒番となった。


「お願いします」

「お願いします」


 互いに深く一礼。

 始めと終わりの挨拶が大切なのは、囲碁でも茶道でもスポーツでも同じだ。性格の合う合わないなど関係なく、毎回欠かさず行うべきもの。こうした何気ない行為をひとつひとつ丁寧に積み重ねていくことが、精神的な向上にもつながると思う。


 井俣が対局時計を押し、秒読みのカウントが開始された。

 初手を打つ前に、私は目を閉じてひとつ深呼吸をする。心をしずめ、覚悟を決める。


 あの時と同じだ。春の団体戦、四連敗後の東工大戦の時も、同じような空気を感じていた。もう後がないような、それでいて、どこか開き直ったような心持ちだった。


 今回の井俣との一局で、なぜ後がないと感じるのかは分からない。ただの練習試合、負けてもなんの弊害もない。浅井が隣で観ているせいだろうか。自然と気合いが入る一方、どこか冷静な自分がいることを直感した。

 そんなふうに思うのは不遜かもしれない。それでも力を発揮するには、はたから見て多少不遜なぐらいの自信が必要なのではないかと感じる。


 十秒ほどの精神統一の後、いつもどおりの手つきで初手を放った。

 https://24621.mitemin.net/i427948/


「出たぁ、五の五」

 初手を見て即座、井俣が呟く。予想の範囲内とも、あるいは待っていましたとも取れる口ぶりだった。

 五の五。空き隅の着点としてごく稀に打たれる手だが、春・秋の団体戦で使った大高目おおたかもくと同じか、あるいはそれ以上に珍しい打ち方だった。

 かつて山下敬吾やましたけいご九段が愛用していた時期があったものの、実利に甘いことから運用が難しく、最近はプロ棋士で打つ人はいない。覚悟と勇気を要する一着で、私自身、ネット碁で数局試したことしかなかった。格上の井俣相手に、ろくに練習を積んでいない手を打つのは無謀とも言える行為だったが、これからさらに上を目指すとなれば、そのくらいの豪胆ごうたんさが必要なのではないかと感じた。


 二手目、井俣は左上隅小目ひだりうわすみこもく。三手目、私は右下隅の高目たかもくに構え、五の五と合わせてくらいの高さを主張した。四手目、左下隅小目。私の大胆な布石に構わず、井俣は普段どおりの打ち方だ。


 地の損など細かいことは考えず、感じたままに打ち進める。

 二十一手目の二間にけんトビで、上辺から中央にかけて保証のない大模様を構築した。

 https://24621.mitemin.net/i428212/


 これ以上の模様拡大を嫌ったのか、井俣がすぐさま上辺に侵入してきたため、望みの攻めの展開となった。

 早碁なので、双方深い読みよりも感覚に重きを置いて着手することになるが、読みよりも感覚を重視して打つ私にはそれが幸いした。攻めることで利得を上げるという方針だけブレることのないように留意し、勢いで押し通す。それで失敗したとしても、中途半端に負けるよりもずっといい。


「そっちが先だったか……」

 中盤、一進一退の攻防が続く中、井俣が思わず呟く。悪手とは言えないがやや緩着と思われる彼の一手を受け、私はすかさず追及する。それまで地合いはやや黒が苦しいと思われたが、もつれにもつれて微細な形勢となった。


「終局ですね」

 井俣が私に確認し、ダメ詰めをしてから整地作業に入る。

 目算はできていなかったが、幸運にも二目半勝ちを収めた。


「いやぁ、悔しいなあ。序盤がイマイチだったかなぁ」

 井俣が片手で頭をおさえながら、口惜しそうな顔を見せる。

「すごいですね、五の五とか打ったことないから面白かった~」

 浅井の感想を聞き、私は礼節を欠かない程度に微笑した。

「上辺、すぐに来てくれたのは嬉しかったかも」

「ですねぇ。荒らしましたけど、代わりに下辺が黒模様になって、厚みが移動しただけですね」

 井俣が、いくつかの変化を想定して手早く並べ、簡単に検討する。


 これまで十局ほど打って、一度も勝てなかった井俣を下した。白眉さんの時と同じく、まだたった一局だ。

 それでも、しかし今回は、 それを現実の出来事だと認識するのにあまり時間は要さなかった。強くなっている手ごたえとやらを、少しは実感してもよいはずだ。これぐらいの気概を持って学業やら何ならに向き合っていけたらなと、ふと感じた。


「ごめん、そろそろ行かないと。次のフランス語、小テストあるから遅れられないな」

 携帯で時間を確認すると、授業開始まで五分を切っていた。

「今回は見事にやられましたね。でも、次はリベンジしますよ」

 井俣が、笑顔で私の上達を肯定する。

「うん、またよろしく」


 いつものように、グラマーの講師が五分遅れて来てくれることを願った。

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