第14話「成果」

 外国語学部イスパニア語学科を卒業し、四月から上智の大学院生となった桑田白眉くわたはくびさんには、入部当初から色々と世話になった。


 忙しい人なのでなかなか部室で打つ機会はなかったが、休日に他大学との交流戦がある日などはまめに声をかけてくれたし――彼はとにかく人脈があり、他大学の囲碁部に知り合いが多かった――、夏には様々な大学の囲碁部が集う合宿にも誘ってもらった。合宿に関しては、例によって楽しかったことよりもしんどく感じたことのほうが多かったが、とにかく囲碁に対する熱意や行動力という点で、白眉さんは抜山蓋世ばつざんがいせいとさえ言える人だった。

 小柄ながらも端正な顔立ちで、女性には事欠かないように思えた。それでいて、同性からもそれなりに好かれており、私も白眉さん――名字よりも呼びやすいので、下の名前で呼んでいる――のことは、囲碁部の部員の中で一番信頼できる人として好ましく思っていた。


 白眉さんは熱意だけでなく実力も備えており、最初に対局した時、三子さんしのハンデをもらってなお負かされた。その後は練習のために先番(コミなし)で打っていたが、これまで一度も勝てたことはない。先日、私のいないときに珍しく部室に顔を出していたらしく、井俣と互先で対局して勝利したと聞いた。井俣も善戦したようだが、白眉さんが勝ってくれて嬉しいと思った。


 最後に白眉さんと対局したのは二月。部室で打ちたかったが、例によってスケジュールが合わずネット碁だった。それなりに勝負にはなったものの、やはり格の違いを見せられ中押し負けを喫した。

 対局後、入部した頃と比べてずいぶんと力を付けたと評価された。当時は満足していたが、今の私はそれでは不満だと感じる。部長としての自覚と責任感をかつてよりも抱くようになり、秋の大会を目前に控えている今、白眉さんと対等に打てるぐらいの棋力になりたいと思った。


 いつも打っているネット碁サイトは比較的段位がからく、大学一年の時は二段と三段を行き来するのが精一杯だった。

 二年になり、教室でプロ棋士に教わるようになってから三段は安定して維持できるようになり、調子が良いと四段まで上がれることもあった。秋の関東リーグまであと十日ほどになり、手ごたえのある練習相手を欲していたところで、偶然に白眉さんから連絡――春の大会の際は都合がつかなかったが、今度は観戦に行くという知らせ――をもらったのは啐啄同時そったくどうじだった。私と違い、学業なりアルバイトなり多忙な日常をやりくりしている中、時々対局する程度でもネット碁で六段を保っているのはさすがである。


 春の団体戦以来、私の碁は徐々に変わってきた。

 それまでの守り主体の棋風から、積極的に攻めを狙う棋風へと変化していった。やはり、くだんの東工大学との一戦が、大きな転換期となったと言える。以前の打ち方とどちらが良いかはわからないが、攻めるほうが面白いと感じたし、そのほうが自身の力を発揮できるような感触があった。

 そうした方針転換に至った理由は恐らく囲碁の技術的な問題だけでなく、外側の事情も関連していたと思う。学業は中途半端でアルバイトもせず、たいした刺激もなく高校までと大差ない気の抜けた生活を送っている中、せめて盤上ではアグレッシブに立ち回りたいという願望じみた感情を、私はたぶん持ち合わせていたのだろう。


 今回の対局は、大会のための練習ということで互先で行うこととした。

 白眉さん相手に少しのハンデもなしに打つのは初めてだったが、不思議と緊張感はなかった。

 勝敗については特に考えていなかった。ただ、今の自分の碁を見て白眉さんはなんと言ってくれるだろう、どんな反応を示すだろうという興味だけが存在していた。対面の対局でないことを、少しだけ残念に思った。


 黒番。「対局を始めます」という無機質な機械音声の後に、私は一手目をクリックする。持ち時間は一人二十分と団体戦よりも少ないが――団体戦は一人五十分――、三十秒の秒読みが三回あるので、それなりにじっくり考えることができる。

 五手まで進み、目指していた布石が完成した。

 https://24621.mitemin.net/i424588/


 目外もくはずしの連打から天元の一路左に構えるという挑戦的な布石は私のオリジナルではなく、ネット上の見知らぬユーザーの模倣だ。

 両目外しだけでも珍しい中、そこに天元脇の一子を加えた見知らぬ打ち手のセンスに脱帽した。手の善悪云々ではなく、視覚的な雄大さや美しさに魅了され、ここ最近何局か試している布石だ。むろん、白眉さんとの対局で披露するのは初めてで、この布石を目前にしてどのような表情を浮かべているだろうかと考えると、いくらか心が弾んだ。

 

 その後、改めて省みると序盤からいかがなものかと思う打ち方をしているが、上手相手に萎縮せず堂々と戦えたことは、教室に通って勉強を重ねた成果もあるだろう。  

 本局、普段と比べて白眉さんがやや本調子でない感も受けたが、一貫して攻めの姿勢を見せた結果、私は五目半の差で勝利した。


 対局終了後、サイト内のチャット欄を使用して感想戦を行うかと思われたが、白眉さんは「ありがとうございました」のひと言を残して早々にログアウトし、やや気まずさを覚えた。一局負けたぐらいでへそを曲げるほど幼稚な人ではないと思うものの、一年半前まで三子置かせても容易に勝てていた相手から互先で一本取られては、まともな性格を有する人でも平静を保てないかもしれないとも思った。


 数分後、携帯に一通のメールが届いた。白眉さんからだ。

 メール画面には「いやあ、めちゃめちゃ強くなったね。正直負けるとは思わなかった。また大会を観に行くからそのときに話そう」という内容が、数ヶ所の絵文字入りで記載されている。悔しさをこらえながら送ったかどうかはわからないが、「負けるとは思わなかった」と書くあたりが素直だと感じた。


 ほんの数十分前のことなのに、いかにしてこの現実を獲得したか、私はよく思い出せなかった。

 白眉さん相手に互先で勝利したという事実をサイトの履歴で確認し、さらには棋譜まで再現してもなお、それが自身の手により成し遂げたことであると確信するには、さらに数十分を要した。


 たった一局だ。それで同列に並んだなどと考えるのは、身の程知らずも甚だしい。

 それを用心深く確かめた上で、勢いよく立ち上がり快哉かいさいを叫んだ。衝撃で、椅子に敷いていたクッションが床に落ちる。


 囲碁を続けてきて良かったと、私は初めて実感した。

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