第13話「ブサイクからブサイクへ」

 フランス語の授業は前期と変わらず、少人数の緩いスタイルで展開された。


 コミュニケイションの授業は、相変わらず気恥ずかしくなるような会話のレッスンを伴った。テキストの文章を俳優になったつもりで情感たっぷりに読み上げるとか、夏休み中の出来事についてペアを組んだ人同士で語らうとか、講師からの一筋縄ではいかない癖のある要求に、私も光蟲も数多の半笑いをもらした。


 グラマーの授業は、前期はごく基礎的な内容で、難しく感じる点はそれほどなかった。しかし、初めて触れる言語であるがゆえに暗記すべき内容はそれなりに多く、それが不十分だと赤点ぎりぎりの成績になることが光蟲によって実証されている。

 初級コースなので、後期に入っても基礎的な内容であることは変わらないものの、前期と比べると文法や構文は複雑さを増し、暗記に加えて多少思考を必要とする場面に出くわすこともあった。


 哲学科でドイツ語とラテン語を重点的に学んでいる光蟲は、文法や文章の構造自体はドイツ語やラテン語よりも簡明に感じるが、週一回ずつしか学ばないので記憶が定着しづらいと話していた。フランス語に触れる回数は私も変わらないが、彼のように第二外国語を三つも並行するのは難儀なことだろうし、頭の切り替えにも苦労しそうだ。


「いやあ、しんどいね」

 光蟲が、コミュニケイションの講師が退室した直後に大げさに呟く。彼は、金曜日は一限から五限まで授業を詰め込んでいるので、そう口にするのも無理はない。

 対して私は、金曜日は二限と三限の専門科目、それと五限のフランス語の三コマなので、いくぶんゆとりがある。しかも、今日は三限をサボって浅井と部室にいたので、そのぶん体力的に余裕があった。

 

「だんだん手ごわくなってきたね。男性名詞と女性名詞の区別がややこしいなぁ」

 単語に性別の分類があることは、言語というものに対しロジカルなイメージを抱いていた私を困惑させた。

「ドイツ語にも名詞の性の分類はあるよ。フランス語と違って、男性名詞・女性名詞・中性名詞の三つに分かれるけどね」

「へぇー、フランス語だけじゃないのか」


 高校時代、学校内の英語の試験はどれもほとんど満点に近い点数で、単語や熟語も相当な数を記憶していた。

 また、文法に関しては、高校入学時より通い始めた早稲田アカデミーで先取り学習をしていたため、学校の試験程度でつまずくことはなかった。文法に関してはそれなりにセンスがあったらしく、また教えてくれた講師が非常に優秀だったこともあり、高校一年の間に高校で学ぶほぼ全範囲を習得し、使いこなせるようになった。講師からも、「試験問題が文法だけなら、日本中どこの大学でも受かる」とまで言われたほどだ。


 しかし、記憶力だけでは難しいのが長文読解で、単語力や文法力に鑑みると不思議に思えるほど上達せず、模擬試験などでも成績が振るわなかった。高校三年の冬の時点で、センター試験の問題で良くて八割取れるかどうかという程度であり、私の総合的な英語力は、とても上智大学を受験できるレベルではなかったのである。


 結局、自分は応用力や読解力が足りないということで、私が暗記力だけで生き延びてきたことをわかりやすく示している好例だった。光蟲と夕暮れのメインストリートを歩きながら、ふとそんなことを思い出した。


「飯行きますか」

 正門へと足を進めながら、いつもの調子で光蟲が言った。

「ん……今日はちょっと用事が。来週でもいいかな?」

 夜から、上智の大学院に在学中の先輩に、久しぶりにネット碁で対局してもらう約束をしていた。


「いいよ、来週で。じゃあ俺は、新宿で映画でも観るかなー」

 四ツ谷駅前の横断歩道のそばには高齢のホームレスが、いつものごとく死んだようにうつむいて座り込んでいる。

「で、また途中で爆睡?」

「ははは、そうかもね」

 もう三ヶ月は切っていないであろう前髪が、光蟲のメガネのレンズに派手に垂れ下がっていた。


「それはそうと、近いうちに散髪に行くってのはどうかな?」

 嫌味に聞こえないよう――光蟲に限ってそんな思い違いはないと信じていたが――、私は頬を緩めて尋ねた。


「めんどくさいんだよなー、床屋行くの」

 光蟲が、豊かで重い黒髪を掻きながら苦笑する。

「ブサイクからブサイクになるのに金を払っても何も楽しくないわ」

「おいおい」


 確かに光蟲は、容姿の面で特段優れているとは言えないが、かといってそこまで辛辣な自虐を飛ばすほど醜悪でもないように、少なくとも私には見える。


「せめて健康で文化的な最低限度の生活を難なく送れるレベルのブサイクでありたかったぜい」

 なんだその喩えは、と呆れて半笑いを浮かべながら、四ツ谷駅の改札を抜ける。

「そんなひどくないっしょ」


 私がそう言うと、光蟲はいつもの半笑いを返してきた。

 その半笑いを見て、光蟲がどのような返答を期待しているというわけでもなく、もしくは行き過ぎた自虐を悔いているわけでもく、単にこの帰り道のひとときを愉快なものにしようとしているだけなのだろうと感じた。


「まあ、千円カットで雑に済ませるわー」


 中央線のホームは、一日を終えてくたびれた顔をしたサラリーマンたちで賑わっている。

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