2010年・秋

寒露

第10話「三等分のスキル」

 夏休みが終わり、日常が返還された。


 また退屈な授業の数々を受けなければならないと考えると億劫おっくうだったが、授業がなくとも退屈さは似たようなものなので大差はない。


 前期の試験はほぼ全て単位を取得できたものの、意外にもレポートの科目を一つ落とした。レポートなど何か書けば単位が舞い込んでくるものと軽く考えていたが、よくよく自分が提出したものを見返すと、確かに支離滅裂でとても受かるはずのないクオリティだった。必修科目なので、また来年履修しなければならない。


「久しぶり」

 フランス語の教室に入ろうとした最中さなか、後ろから懐かしい声音こわねを拾った。

「どもども」

 光蟲の姿を見て、私は日常が戻ってきたことを再認する。


「夏休み、どうしてた?」

 休み中にも光蟲とはたまに連絡を取っていたが、会うことはなかった。

「ん、まあぼちぼち」

 合宿のくだりは、飲みに行った時のために温存する。

「俺は、たいしたことなかったなぁ。飲んでばっかいたわ」

 こういうとき、彼があれこれ詮索せずにさらっと流すところを好ましく思う。

「あっという間に秋だねえ」

 十月の下旬になれば、また囲碁部の団体戦がある。

「終わったらラーメン行こう」

「うん、行こう」


 話し終えたところで、グラマーの講師がいつものように五分遅れて到着した。



 いつものしんみち通りのラーメン屋は、変わらず盛況を呈していた。

 今日の野球中継は、中日対オリックス。視線を向けている客はほとんどおらず、今この店に両チームのファンはいないらしいことが見て取れる。自分に何の影響もない、だからどうしたと言われそうな取るに足らないことに思いをめぐらせることが、私は案外嫌いではなかった。


「合宿かあ、すごいなぁ。充実してるね」

 いつもの味噌ラーメンを啜りながら、光蟲が柔らかい微笑を浮かべる。

「いやぁしんどいよ。一日七時間も八時間も正座で稽古だからね」

「うわー、それはきつい。自分には無理だわ」

 光蟲は、今日も素早く生ビールのジョッキを空にした。


「たいして楽しくもないし疲れただけな感じだったけど、三日目に、一人で夜道を散歩していた時間だけは良かったなぁ。夜風に吹かれながら飲む缶チューハイの美味いこと美味いこと」

 あの時の記憶を引っ張り出し、私は瞬間的に戸隠にトリップする。

「あぁ、それは間違いないね。すばらしいですな」

 光蟲なら、缶チューハイよりもワンカップの日本酒などのほうが合いそうだ。


「休み中はバイトやったり?」

 飲んでいたレモンサワーのジョッキが空になり、挙手して店員に声をかけた。

「そうだねぇ。相変わらずくだらない労働だと思うけど、金のためだけにこなしてる」

「池袋だとお客さん多いでしょ」

 店員がやってきたので、私は二杯目のレモンサワーを注文する。

「まあね。でも、今どき本屋なんかで列作って並ぶこと自体が非効率的で馬鹿げていると思うよ。アマゾンとかネットショッピングで何でも手に入るのにさ」

「そういえば、僕も最近本屋とか行かないなあ」

 二杯目のレモンサワーが来ると同時に、光蟲が三杯目の生ビールをオーダーした。



「アイス食べに行こう」

 夕食を終えておもてに出てすぐに、光蟲が言った。

 十月といえどもまだ暑さが残っており、しんみち通りを歩くサラリーマンたちの多くは、ワイシャツの袖をまくし上げている。


「この辺にアイス屋あったかな」

「ないね。新宿行きましょ」

 

 新宿高島屋タイムズスクエアのレストラン街にあるアイスクリーム屋は、光蟲の気に入りの休息スポットだ。十数種類のフレーバーの中から三種類選び、一つのカップに盛りつけてもらうスタイルの店である。

 先いいよと言われたので私からオーダーすると、ベテランとおぼしき男性が手早く応じてくれた。円形のカップにアイスを盛り付ける動作にもそつがない。

 しかし、その後光蟲の番になると、男性店員から若い女性店員に対応が代わった。彼女は右胸に"研修中"のバッジを付けており、経験を積むための配慮なのかもしれないと思う。


「なんか適当に三つ選んで」

 私を見ながら、光蟲はいつもの半笑いを浮かべた。

「何でもいいの?」

 私も、彼につられて半笑いになる。

「いいよ。どれも美味いから」


 言葉どおり、私は光蟲に代わって適当に三種類――抹茶とチョコミントとブラッドオレンジ――を伝えた。

 女性店員は、横のベテラン店員に聞きながらぎこちない手つきで、しかし慎重にアイスをすくっている。


「あんなの適当でいいよ。なんなら俺が盛ってやるから」

「まあ、そうもいかないんだよきっと」

 ショーケースを挟んで若干距離があったこともあり、光蟲の声はたぶん彼らの耳には届いていないだろう。

「アイスをキレイに三等分する繊細な技術を、日夜鍛練して習得するんだな、うん」

 感心とも皮肉とも異なる、しかしごく自然な光蟲の口調は、私が彼に関して好もしく思う点のひとつだ。

「ホントかよ」


 バニラと抹茶とキャラメルのセレクトアイスに口をつけながら、お決まりの半笑いを返した。


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