秋分

第9話「独りで乾杯」

 大学生の夏休みは長い。

 丸二ヶ月の休暇は、意欲や好奇心が横溢おういつした積極的な人間には楽園そのものだが、生きるのに不器用な人間にとってはいささか長すぎる。

 

 朝早くから退屈な講義に足を運ぶよりもずいぶんましとはいえ、スケジュール帳が不要なほど予定の少ない日々は、自身の能動性の欠如を顕著に示していた。

 光蟲のように――と言うより他の大多数の学生のように――、本屋でも何でもいいからアルバイトでもすれば良かったのだろう。当時の私には、しかし金を稼ぐという行為は遠い次元の事のように思えたし、仮にその気になれば可能であったとしても、昨年の塾講師の一件もあり煩瑣はんさなものに感じた。

 

 怠惰で、無目的な毎日だった。週一回の囲碁教室と週二回の部活動――むろん、活動が盛んな茶道部のほうだ――以外にはほとんど外出もせず、昼すぎに起床してネット碁サイトで暇を潰す日々は、改めて俯瞰ふかんすると哀れで罪深いものだった。


 九月下旬の茶道部の合宿は、休暇中で唯一の夏休みらしい予定だった。

 合宿自体は決して進んで参加したいものではなかったが、秋の文化祭に向けてお点前てまえ半東はんとうの稽古を積んでおかねば後々苦労するのは目に見えていたので、重い腰を上げて参加した。同時に、今度光蟲と会ったときに、ひとつぐらいまともな夏休みならではの出来事に関して話をしたいと思ったのである。


 子供の頃から、合宿や修学旅行などに行く際に乗車する貸切バスが嫌いだった。

 大勢の人間の体温と人工的な冷気とが混ざった狭苦しい車内も、その中でのかしましい話し声も、誰も興味を示さない中、虚しく機械的に景観の解説をするバスガイド――今回乗車したバスにはガイドは居なかったが――も、私を憂鬱にした。

 何より気が重かったのは、数十の人間が、同じ目的で同じ場所に足並みを揃えて向かうということだった。なぜそんなことで気が重くなるのか今一度考えるも、結局は同じ場所に帰結してしまう。すなわち、私という人間は人生に不向きなのではないかという曖昧かつ茫漠ぼうばくな仮定によるのだった。その仮定は、世間一般のいわゆる"普通"と呼ぶべき人々が気にかけないような瑣末でくだらないことへの意識過剰や、あるいはつまらない杞憂きゆうをしばしば生じさせる。


 合宿は昨年と同じく、長野県にある戸隠とがく神社の宿坊で行われた。

 三泊四日は、想像以上に長く感じた。去年は所用のために三泊目の朝に早引けしたが、今年は最後まで参加した。


 稽古は決して楽しいものではなく、次第に集中力が鈍り全身に疲労を覚えた。小学時代から囲碁を嗜んできたことで集中力は人並み以上に備えていると自負していたが、さすがに一日六時間も七時間も正座で稽古をするのは酷なもので、難渋なんじゅうしないほうがどうかしている。

 また稽古のあいま、部員たちでまとまって食事をするのも、部屋に戻ってからさほど親しくもない男子部員数名と、適度に適当な言葉を交わすのも気怠く感じた。


 三日目の夜、稽古場だった大広間は、様相を変えて宴の場と化した。全員で酒を入れながら、くだらないゲームやらカラオケやら無駄話やらに興じる。

 最初の一時間ほどは私も忍従にんじゅうして輪に入っていたが、案の定少しも楽しくはなかった。いや正確には、この宴の場を楽しめるだけの感性や要領のよさを私が持ち合わせていなかっただけかもしれない。しかし、稽古をしているほうがまだましだと感じた。

 適度に不自然な半笑いを灯すのにもうんざりしたため、トイレに行くふりをして、さりげなく広間から抜けた。喧騒を極めた室内において、ただでさえ影の薄い私が抜けたところで気付く部員などいない。宿の自販機でアルコール度数九%の缶チューハイを二本買い、おもてに出た。


 ふらふらと夜道を歩きながら、夜気の涼しさと缶チューハイのほど良い甘さに満足し、私は不意に相好そうごうを崩す。酒というものは、多人数よりも独りで飲むほうが絶対に美味い。


 二十分ほど歩くと、戸隠五社の一つである火之御子社ひのみこしゃにたどり着いた。暗闇で詳細はつかめないが、その地味で存在感のない姿に私は親近感を覚えた。

 鳥居をくぐって僅かばかりの階段を登ると、すぐに社殿が目に入った。質素という言葉がしっくりくるその小さな建造物を、できれば今度は白昼のもとで拝みたいと思う。


 空を見上げると、上弦の月が、どこか恥ずかしそうに闇の中で浮かんでいた。

 二本目の缶チューハイをプシュっと音をたてて開け、私はまず暗闇の社殿に向けて軽く「乾杯」をする。


「乾杯!!」


 そして私は再び上空を見据え、思いきり腕を振り上げ、声を大にして叫んだ。はるか遠方に浮かぶあの月にほんの少しでも届けようとして、気付けば目一杯に背伸びをしていた。


 振り上げた反動でチューハイの中身がこぼれ、私の手や髪をほんのりと酔わせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る