第十話 問い、また誇り
俺はまだ、夢を見ているのか。
脳裏に響く、微かな声。
叫ぶ様な、子供の泣き声。
消える。消える。消える。
その言葉が、今までの俺を殺してゆく。
俺の形をした〈思い出〉が
まるで、
俺の中から、ゆっくりと、
ゆっくりと、なくなってゆく。
あの時、俺と共に身を乗り出した男の顔を
もう、思い出すことは出来ない。
オマエハダレダ。
問い続けて、問われ続け、
気づけば此処までやって来ていた。
今では、昔の名前すらも、思い出せないのだ。
一つ一つの部品が繋がって、
俺が再び、作られてゆく。
しかし、それは過去の姿では無い。
別の姿をした、今の俺だ。
其処に残っているのは、現世の記憶。
《山本晴幸》としての、俺の記憶。
〈いっそ、忘れてしまうのなら
此処で生きるというのも、また一興か〉
俺はゆっくりと目を開け、うすら笑みを浮かべた。
目を開ける。
状況を理解した俺は、息を吐く。
決して幸せな夢では無い。
されど、夢だったならば
ずっと見ていたかったものだ。
途端に、俺は苦笑する。
若殿なら、こう言うのだろうな。
目の前の事象すら見ようとしない。
そんな晴幸殿は嫌いです、と。
俺は障子を開け、息を吸い込む。
出立した頃と同じ、宵の空。しかし、遠くの空が白く染まり始めて居る。
じきに夜が明ける。こうして、一日目の朝が、訪れる。
「御目覚めか、晴幸殿」
俺は、背後から聞こえた声に振り返る。
其処に立っている一人の男。
俺は、その男を知らない。
「直ぐに着替えよ、
其方には教えねばならぬ事が
山程ある故な」
男はその言葉と共に、部屋を出る。
そうか、俺は此処では一番の新参者。
若者に従うのはやはり良い心地がしなかったが、今は従うが吉だな。
俺達は城下へ出て、門番に挨拶を交わす。
城内は、誰もいないかの如く静かである。
早朝故に、まだ多くの者が寝静まっている為だ。
俺は物音を立てない様に、廊下を歩く。
ふと、奥の方から良い匂いが漂ってくる。
ほのかな味噌の香り。
恐らく、早くから料理人が朝食を作っているのだろう。
後を追う俺の気配に気づいた男は立ち止まる。
そして、何かを思いついたかのように、振り返る。
「申し遅れた、私は
俺の頷きを見て、男は再び歩を進める。
飯富が俺に教えるのは、厠の場所、食事の時間など、此処で過ごす為の基本的な事。
そして、飯富が俺に与えた仕事について。
〈武田晴信の元へ向かうこと〉
其れが、俺が与えられた最初の仕事である。
士官の挨拶と、晴信が役目を任ずる為である。
本日の夕飯の後に向かうと良いということだった。
「其れまで、ゆっくりしていると良い。
また朝食は此の広間で摂る事になっておる」
其処は、百人は収納できるであろう大広間。
飯富によれば、城の中で最も広い部屋だという。
「軍議も此処で執り行っておるのだ」
「軍議......」
俺は再び、其の広間に目をやる。
主君、武田晴信が座るであろう場所には、武田氏の家紋、四つ割菱が大きく描かれてある。
「飯富殿、
晴信様は、如何様な御方であらせられる」
飯富は笑みをこぼし、其の家紋を眺める。
「殿はあの四つ割菱を、御家の誇りを背にし、戦っておられる。
其れは〈虎〉の如く、勇ましい御方にござる」
「甲斐の......虎」
「はは、甲斐の虎、か。中々良い響きであるな」
不意の呟きに笑う飯富。
俺は何処か、こっぱずかしい気持ちに駆られる。
飯富虎昌
セントウ 一二四七
セイジ 一〇五四
ザイリョク 九三八
チノウ 一一二五
この時代、武士の名には士官先か己の御家に代々伝わる〈通り字〉を付けるのが一般的である。
飯富虎昌。彼の名にある虎も、武田に仕官した事で得たものなのだろう。
「さて晴幸殿、じきに朝飯の刻になる
支度を致そう」
そう言って飯富は歩き出す。
向かう先は、味噌の香りがしたあの部屋。
俺は直ぐに飯富の後を追う。
暁の空には、朝日が昇り始めていた。
この時、俺は少し後悔していた。
もう一歩、もう一歩遅ければ
あの四つ割菱が、昇りゆく朝日に
眩しく照らされている様を、
見ることが出来ていたものを。
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