注文の多い料理店

波瀾 紡

<短編>注文の多い料理店

 急に降り出した雨の中、駅前繁華街の裏通りを、一組のカップルがずぶ濡れになりながら、足早に駆けていた。


「もう! あなたが二時間も遅れるから、せっかく予約したレストランに入れなかったじゃない!」


 バッグを頭の上にかざして、少しばかりの雨よけにしながら、女性は声を荒げて男性を睨みつけた。


「だから、何度もごめんって言ってるだろ! 俺だって、遅れたくて遅れたんじゃない。仕事で急なトラブルが起きたんだから、仕方ないじゃないか!」


 男性の方は、髪もスーツの上着も濡れるに任せながら、少し苛ついた表情で吐き捨てるように女性に言い返した。


「だから私は、休みの日にしようって言ったのに、貴也たかや君が大丈夫だって言ったんだよ!クリスマスイブに、予約時間を二時間も遅れたら、お店に入れないの当たり前じゃない!」

由香里ゆかりの誕生日が今日だから、今日にしたかったんだって! 俺の気持ちもわかってくれよ!」

「それはわかるけど、寒い中ずっと待ってた私の気持ちもわかってよ!」


 せっかく誕生日の祝いにと、由香里のことを思って、奮発してフランス料理を予約したのに。


「由香里も、腹が減ってイライラしてるんだろ。とにかくどこか、店に入ろうよ」

「もう帰る! どうせどこも満席だよ! 人生最悪の誕生日だわ!」


 由香里は顔をくしゃくしゃにして、怒りをぶつける。雨でわからないけれど、涙を流しているのかもしれない。


 さすがにクリスマスイブの夜、裏通りといっても繁華街は人で溢れている。

 夜の九時。

 まだまだ飲食店は混み合っている時間だ。


 その時、派手な看板の飲食店の間に、間口が狭く白い塗り壁の平屋の建物が、ひっそりと建っているのが貴也の目に入った。


「ちょっと待って」


 貴也は前を行く由香里の手首を掴んで引き止めた。


「何よ!」


 由香里は立ち止まり、振り返ると、眉間に皺を寄せて貴也を睨んだ。


「これ、レストランのようだ」


 貴也が指差す方を由香里が見ると、窓もなく、白い塗り壁に、小さなこげ茶色の木製扉だけが付いて、閉鎖的な雰囲気を漂わせる平屋の建物があった。

 玄関扉の横には、小さな札が掛かっていて、何か文字が書かれている。


《RESTAURANT

 WILDCAT HOUSE》

~西洋料理店 山猫軒~


「あ、ここ料理店だよ。目立たない店だから、席が空いてないかな?」

「こんなお店、大丈夫?」

「隠れ家的なこういうお店って、美味しいことが多いよ」


 由香里は目を伏せて、どうしようか逡巡したが、雨の中歩き回るのにも疲れたし、腰を落ち着けたいという思いが勝ったようだ。


「うん、わかった」


 貴也は木製の重い扉の取っ手を握り、押し開けようと手に力を込める。その時、取っ手の横に小さな紙が貼ってあり、文字が書かれていることに気づいた。


『どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません』


 少し変な日本語。

 もしかして、外国人シェフが経営しているのだろうか?


 少し気にはなったが、冷たい雨の中で冷え切った体を早く温めたい気持ちで、貴也は扉を開けて玄関の中に足を踏み入れた。

 続いて由香里も玄関内に入ったのを見届けると、貴也は木製扉を静かに閉じた。


 扉の裏にある貼り紙が目に入る。


『ことに若いお方は、大歓迎いたします』


「若い人向けのお店だって」

 貴也が何気なく言うと、今日まさに二十八歳の誕生日を迎えた由香里はムッとした表情をしている。

「どうせ、もう若くないわよ」


--そんな意味じゃなくて。


 貴也はいちいち突っかかる由香里に、少し辟易しながらも笑顔を作って機嫌を取った。

「そんなことないよ。若いじゃないか。俺なんて、もう三十五だし」


「何これ?」

 貴也の話を聞いているのかいないのか。由香里は目の前のもう一つの扉を指差す。


 貴也は少し薄暗い玄関内をぐるっと見回すと、四畳半ほどの狭いスペースに、今入ってきた木製扉と、目の前の水色のスチール製ドアしかないことに気づいた。

 他はすべて、白い壁。


 由香里の指先には、水色のドアに取り付けられた、四角く黒いプレートがある。金色の文字で、何か書いてある。


『当軒は注文の多い料理店ですから、どうかそこはご承知ください』


「へぇ、なかなか流行ってるんだね。こんな裏通りの店で」

「やっぱり美味しいのかな?」


 由香里は期待と不安が入り混じった顔をしている。


「とにかく中に入ろうよ」

「う、うん」


 二人が水色の扉を開けて中に入り、扉を閉めると、その裏側に、また貼り紙。

『注文はずいぶん多いでしょうが、どうかこらえて下さい』


「お客さんがあまりに多くて、待たされるのかな?」

 貴也は、少し変な店だと、少し不安になってきた。


「また扉?」

 由香里の声に前を見ると、また少し薄暗い狭いスペースで、目の前に今度は赤い扉が付いていた。


「変なお店よね。どうしてこんなにたくさん扉があるの?」

「これはね、きっとロシア式なんだよ。寒い所はみんなこうさ」

「へぇ、そうなの」

「いや、知らない。冗談で言ってみただけ」

「何よ! 笑えないし」


 確かに何となく奇妙な雰囲気で、不安な気持ちを紛らわせようと言った冗談だったが、由香里には不評のようだ。

「早く店内に入って、テーブルに座りたい」

「そうだね……」


 少し気まずい思いで、貴也は短く答える。


 前の赤い扉の脇には小さなテーブルがあり、長い柄のついたブラシとドライヤーが置いてある。横には手のひらくらいの大きさのカード。


『ここで髪を乾かして、きちんと整えてください。靴に付いた泥も落としてください。上着も脱いでください』


 足元には、泥除けマットが敷いてあり、すぐ横にはハンガー掛けがいくつかかけられたハンガーパイプがある。


「あ、助かる」


 由香里は嬉しそうにドライヤーとブラシを手に取り、雨に濡れた髪を乾かして整えた。


 サービスがいいのか、それとも身なりを整えないと入店させないような高級店なのか。


 貴也も髪を整え、二人で上着をハンガーにかけると、赤い扉を押して開いた。


 そこはまた狭くて四角いスペースで、前には黄色い扉がある。

 扉の脇にはこれまた小さなテーブルがあり、壺とその横にカードが置いてあった。


『壺のなかのクリームを顔や手足に、しっかり塗ってください』


「なにこれ?」


 由香里は壺を覗き込み、クリームを指先に取ると、目の前に近づけてまじまじと見た。


「なんだかいい香り。高級なクリームかな? 寒い中ずっと待ってたし、肌がカサカサしてるから助かる」


 由香里はそう言いながら、まずは手の甲にクリームを塗り、次に顔にも塗り込んだ。


「わぁ、すべすべになる。いいクリームだわ、これ」


 由香里は調子に乗って、腕にもクリームを塗りだした。

 貴也も顔と手の甲にクリームを塗り込んだ。


「クリームはありがたいけど、いったいいつになったら料理を食べられるの?」


 由香里は、至極もっともな疑問を口にした。


「どうだろう? もうすぐじゃないの?」

「ホントに? 貴也君は、いつもいい加減なことを言うんだから!」

「いつもって何だよ!」

「いつもって、いつもよ!」


 由香里は腹立ち紛れに、黄色い扉を開くと、中にずかずかと入っていく。

 貴也は焦って追いかけたが、由香里はすぐに立ち止まり、危うく由香里の背中にぶつかりそうになった。


「また扉?」


 由香里の肩ごしに前を見ると、オレンジ色の扉があり、また横に小さなテーブルが置いてある。

 同じようなカードと、金ピカの香水入れの瓶。


『もうすぐお食事ができます。あなたの頭に、瓶の中の香水をよく振りかけてください』


「ああ、もうっ!」


 由香里はイライラしながら、香水の瓶を手にして、頭に振りかけた。

 が、少し表情を和らげて呟いた。

「あら? いい香り」


 貴也も瓶を持って、頭に振りかけた。確かに心安らぐ、いい香りだ。

 --しかし。


「由香里、帰ろうか?」

「え?ここまで来て?」

 急に言い出した貴也に、由香里は怪訝な表情を見せた。


「なんだか妙だよ、この店」

「私はお腹ぺこぺこなのに、また他のお店を探すの?」


 貴也は由香里の言葉には答えずに、今入ってきた後ろの扉に手をかけた。

 ノブをがちゃがちゃと回すが、扉は頑として開かない。


「開かない…」

「え? ほんと?」


 由香里もドアノブを握り、力を入れたが開かない。

「壊れてる……のかしら?」


 これは、いよいよまずいのではないか?

 貴也は焦る気持ちを抑えながら、由香里の顔をじっと見つめた。


「貴也君、何をうだうだしてるの? お腹空いて死にそう! 早く行こう!」

 待ちきれなくなった由香里は、踵を返すと、前の扉に向かった。

「あ、ちょっと待てよ由香里」


 扉の向こうには、相当やばいモノが待ち構えているかもしれない。


 そんなことを気にせず、オレンジ色の扉を力任せに開ける由香里を目にして、貴也は息を飲んだ。


◆◇◆


 思わず目を閉じた貴也がゆっくりと目を開くと、また同じような狭くて薄暗いスペースがそこに存在していた。


 目の前にあるのは黒い扉。扉の横には壁掛け型のモニターが掛かっている。

 少し薄暗い室内で、モニターが不気味な輝きを放っている。


「もうっ!また扉!?いったい、いつになったら料理が食べられるの!?」

 由香里はかなり頭に来た様子で、大きな声をあげた。


「おい、由香里」

「何よ!こんなことになったのは、貴也君が遅れてきたからじゃない!」

「何度も言うけど、仕事だから仕方ないじゃないか」

「だから私は、日曜日にしたら?って言ったのよ!」

「今日が良かったんだって!」

「貴也君は、いつも自分のやりたいようにやるんだから! 自分勝手過ぎる!」

「そんなこと、ないだろ。由香里だって……」

「由香里だって何よ?」


 責め立てるような由香里の目を見て、貴也は言葉を失った。

 なんで俺ばっかり責められないといけないんだよ。


 貴也は由香里から視線を逸らすと、ふと扉の横にあるモニターが目に入った。

 黒い画面に、浮かび上がる赤い文字。


『イライラしていると、せっかくの料理が美味しくなくなります。どうか、お気を鎮めてください』


 貴也はぞっと背筋が凍り、震える指でモニターを指差した。

「ゆ……由香里」


 貴也の指先の方を振り返り、由香里は画面に見入る。


「な、何これ?」


「これは、本物の『注文の多い料理店』だよ」

 由香里は声を震わせて尋ねた。

「なんのこと?」

「宮沢賢治。知らないのか? 注文が多いというのは、向こうがこちらに注文してきてるんだよ」

「何のために?」

「こ、これは……料理を食べさせる店じゃなくて。つ、つまり……俺たちを食べてやるという店なんだよ!」


 バタン!


 突然、後ろの扉が閉まった。ノブを力一杯ねじっても、びくともしない。

 もう貴也たちには、目の前の黒い扉から、次の部屋に入る選択肢しか残されていない。


 貴也は恐怖に身を縛られて動けなくなったが、ふと我に返って隣の由香里に目をやった。

 青ざめてぶるぶるっと震える由香里。


「大丈夫だ。俺が守る」

 貴也が由香里をぎゅっと抱きしめると、由香里は震えながら貴也の胸に顔を埋めた。


 モニターが明るさを増し、文字が切り替わった。


『何度も申し上げますが、美味しい料理をいただくためには、精神状態がとても大切です』


 どこからか、見られている!?


『私どもは、注文の多い料理店です。申し訳ありませんが、もう少しだけ注文をさせていただきます』


「はあ? 今度は何をさせる気だ?」

 貴也は、由香里を抱きしめる腕に力を入れた。


『質問です。彼氏さんは、今日という日にとてもこだわりをお持ちのようですが、それはなぜですか?』


「そんなこと、なんで答えなきゃいけないんだよ!」


 --何も返答はない。

 貴也の叫び声の後は、静けさが支配する。


 由香里が貴也の胸から顔を上げ、真顔で貴也に尋ねた。


「私も、それを知りたい」

「え?」


 貴也は面食らった。

 が、真剣な表情の由香里を見て、照れを隠すようにぶっきらぼうに答えた。


「それは、由香里と付き合って初めての由香里の誕生日だから……前から欲しがってた指輪を買ったから、どうしても今日渡したかったんだよ」


 目を大きく開いて驚いたような表情をした由香里は、貴也の顔をじっと見つめている。

 そして、しばらくして口を開いた。


「今、持ってるの?」

「うん」


 由香里の顔はみるみるくしゃくしゃに歪んで、瞳からは大粒の涙が溢れ出した。


「貴也君のこと、自分勝手だなんて言ってごめんね。ホントにごめんね」


 由香里は泣きじゃくりながら、何度も何度も頭を下げた。


「でも結局あんなに由香里を待たせて、俺の方が悪かったよ。由香里の言うとおり、休みの日にしとけばよかった」

「最近貴也君は仕事が遅い日が多くて、凄く疲れた顔をしてることが多いからさ……また遅くなると貴也君の体が心配だもん。だから誕生日のその日じゃなくても、休みの日でよかったんだ」


 そんなふうに心配をしてくれていたのか。

 貴也は胸が熱くなるのを感じた。


「由香里……そんなに俺のことを想ってくれてたのか?」

「当たり前じゃない!だって大切な大切な貴也君だもん」


 由香里がそんなに自分のことを考えてくれていたなんて。

 今まで気がつかなかった。


 --会えば喧嘩をするばかりで、由香里はもう自分のことを好きじゃないのかと思うこともあった。

 貴也は自分がいかに由香里のことがわかっていなかったのかと省みた。


「ありがとう、由香里。大好きだ。絶対にお前を守ってやるからな!」

「ありがとう貴也君。私も大好き!」


 貴也が由香里をしっかりと抱きしめた時に、前方の黒い扉が静かに開いた。


 少し薄暗くて狭い今の空間とは打って変わって、扉の向こうは明るく真っ白で広々とした空間が広がっている。眩しさで貴也も由香里も目を細めた。


 よくよく目を凝らして見ると、黒いベストに黒いズボンを穿いた男性と、同じく黒いベストに黒いロングスカートの女性が立っている。ウエイターとウエイトレスのようだ。

 二人とも満面の笑みを浮かべ、ぴんと背筋を伸ばしている。


 そして二人の男女は腰を折って一礼をすると、男性が口を開いた。


「お二人が、お互いに大切な存在であることがわかり、ほっとしました。これからも、お二人仲良くお過ごしください。お互いに相手を慈しむ温かい気持ちでお料理を食されると、料理がさらに美味しく感じられますよ」


 今度はウエイトレスが言葉を発した。


「当店は注文の多い料理店です。お客様が仲良くしていただかなければ、料理をお出しいたしかねます。本当に注文が多くて、申し訳ございません」


 貴也と由香里は抱き合いながら、お互いの顔をきょとんとした表情で見つめ合った。


 男女の従業員が声を揃える。

「それではお客様。今宵素晴らしい料理を、本当に仲の良いお二人で、ゆっくりとお召し上がりください」


 貴也と由香里は手と手を握り、ウエイターとウエイトレスにエスコートされながら、店内へと進んだ。


++++++

『お客様の幸せな気持ちが、最高の調味料です』


 西洋料理店

 山猫軒

++++++




=== 完 ===

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