とりとめもない話

九十九 那月

とりとめもない話

「ねぇ、アサ」


 ひとりごとを言うのと同じ調子で、わたしは隣に話しかける。


「なにさ、ユウ」


 ちらっ、と横目で見た先で、本から目を離さないままアサが答える。その態度はまったくいつものことで、だからわたしは腹を立てることすら忘れている。その代わりわたしも、話しかけてから話題を決める、というささやかな失礼を返すことにしている。


「えっと、そうだ、テストの点が悪かった。慰めて」


「はいはい頑張った頑張った」


 とことん適当な調子で答えるアサ。だけどわたしは、それだけでもちょっと嬉しくなる。「へぇー」とか言って流されないだけ、まだまだ心がこもっている方だと思う。アサにしては、だけど。


「やった、ありがと。アサの慰めのおかげでで数学の32点も帳消しだ」


「おい待て、その理屈はおかしい」


 若干慌てて突っ込んでくるアサの様子を見て、わたしは笑う。


 お互いがお互いに興味を持っているわけでもない、ただ、たまたま同じ場所にいて、とりとめもない話をするだけの、友達ともいえない関係。

 だけどわたしは、この関係をとても気に入っている。




 ユウ、というのは、わたしの本当の名前じゃない。ちょっと男の子っぽい響き。本当のわたしの名前はもうちょっと可愛らしい、いかにも女の子、って感じ。

 でもわたしは、ユウ、って呼ばれるのが好きだ。だって、わたしをそう呼ぶのはアサだけだから。


 はじめてユウと会ったとき。わたしは、親と喧嘩して、家に帰りたくなくて、それでふらふらと、校舎のなかをさまよっていた。

 空いている教室で時間を潰すことに決めて、行き当たったところに入って。

 机に突っ伏して、あー、とか、うー、とか唸っていたのだけど、そこで「うるさい」と声をかけてきたのがアサだった。


 わたしは、びっくりして跳ね起きた。まさか誰かいるとは思っていなかったから。でもってよく見渡してみると、窓際で一人の男の子が、本を読んでいた。気付かないわけだ。制服は黒っぽい色だし、それで逆光のなかに、それもほとんど動かないで座ってるんだから。


 普段のわたしだったら、多分そこで、ごめんなさい、とか言って出ていくところなんだけど、そのときのわたしはうめき声を聞かれた恥ずかしさと、あと喧嘩したときの鬱憤がたまっていたんだと思う。ついつい、「教室で何をしてても勝手でしょー」と言い返してしまった。


 そしたらアサは、露骨にめんどくさ、って思ってる顔をしたんだっけ。


「そうだけど、なら僕だって読書してても勝手だろ、邪魔しないでくれよ」


「そうだけど、えっと、うっさい、ってかあんた誰よ」


「後から押し入ってきてうっさいって何だ、そんなやつに名乗る名前なんてあるか」


 わたしの渾身の悪口はあっさりと言い返されてしまって、ぐうの音も出ず。

 けれどなんだか引っ込みがつかなくなってしまって。


「じゃぁわたしだってあんたに名乗る名前はない」


「そうか、まぁ僕も別に聞く気もないし、聞いても覚えないと思うし」


「あーもうイラつく、帰る」


「ご自由にどうぞ」


 今思い返してみても、本当にバカなやりとり。そして本当にバカなことに、わたしは本当にそのまま、荷物をひっつかんで家に帰ってしまった。親と喧嘩中で帰りづらい、なんて言ってたのはどこの誰だ。


 わたしがそのことを思い出したのは、家のドアを開けて、怒っているのを引きずりながらヤケクソ気味に「ただいまー!」と叫んだあとで。

 そしてその頃には、わたしの気まずさはすっかりどこかに行ってしまっていたのだった。




 なんだか思っていたよりあっさりと、親と仲直りして。

 次の日のわたしは、別になにか帰りにくい事情があるわけでもないのに、学校をうろついていた。


 もし昨日の人と会ったら、お礼を言おうかな、とか、そんなことを考えていた。

 抱えていた感情の向け先ができたおかげで、親とうまく話せたような気がして。


 そして、おそるおそる覗き込んだ、前の日と同じ教室に、その日も、いた。

 わたしはこっそりと、昨日よりちょっと彼に近いところに座った。


 横目で彼が、わたしを少しだけ見た。

 それからまた、視線を本に戻す。


 そのときは、少しムッとした。無視された、と思ったから。

 だけど。


「また来たのか。何の用だ、邪魔するなって言ったと思うんだけど」


 覚えていてくれたんだ。

 そんなこと一つで嬉しくなる自分は、やっぱり単純だ。


 ありがとう、と言おうと思った。

 だけどそれも不自然だな、と思って、やめた。


「えっと……ねぇ、空がきれいだと思わない?」


「なんだそれは、新手の告白か」


「ちーがーいーまーすー。誰があんたなんかに。思ったことを言っただけ」


「そうか。まぁいつも通りなんじゃないか」


 ちょっと考えて、空が、ということへの答えなんだと気づく。わかりづらい。


「そうなんだけど、もうちょっとこう、何かないの?」


「灼けるように真っ赤だった。まるで僕の心の中を反映しているように」


「……そんなこと思ってるの?」


「この前読んだ本の表現だ」


「それ、あんたの感想じゃないじゃん」


 と、まぁ、思えばこの時からとりとめもなく。

 わたしたちの時間は、こうして始まった。




「あんたいつも何読んでるの」


「本」


「知ってるから。題名とか中身を教えなさいよ」


「どうせ言っても君にはわからないし、読まないだろ」


「そうだけど」




「どうしていつもここにいるの」


「落ち着いて本が読める場所が他にない。最近は誰かさんのせいでここも落ち着かなくなってきたけど」


「あーはいはい悪かったですね」




「ねぇ、そろそろ、あんた、って呼ぶのも変だと思うんだけど」


「そうか。じゃぁここに来なきゃいい。呼ぶ必要がなくなる」


「それはやだ」


「なんでだ。大体人に名前聞くときは自分から名乗れ、って習わなかったか」


「んー、じゃぁ」


 窓の外に目を向けて。


「ユウ、で」


「なんだそれ」


「名前。ユウ。これでいいでしょ」


「絶対今適当に決めただろう」


「そうだけど、何か文句でも?」


「ない。じゃぁ僕もアサで」


「アサかー、えへへー」


「……面倒な奴だな」


「なんだとー」


 とりとめのない会話の中で、お互いの呼び名が決まったり。




「アサって苦手な教科とかあるの?」


「ない」


「そっか、あたしはある。理科と数学」


「ちょっと覚えればどうにでもなるだろ」


「うわー出た、できるやつ発言。そんなに言うならアサが教えてよー」


「面倒だから嫌だ」


 そんな風に、お互いのどうでもいい情報が明らかになっていったりして。




 わたしたちの、そんなとりとめのない日々は、ずっと続いていた。

 出会った時から、時々、前に一回したような会話を繰り返しながら、放課後の時間をただ浪費するような。

 だけどわたしは、この時間がとても気に入っている。


「ねぇアサ」


「なんだ」


 だから。


「……こんな時間が、ずっと続いたらいいのにね」


 つい、ぽろっとそんな言葉が漏れ出して。


 少しだけ、沈黙の時間があって。

 それから、アサが、ふっ、と笑う気配がした。


「それは無理だな」


「え、なんで」


「だって――」


 アサは、沈みゆく夕日の方に視線を向ける。

 そして。


「——僕は、君のことを邪魔だって言ったろう、忘れたのか」


 そんなことを言う。

 わたしは、ついつい、笑ってしまう。


「なんで笑う」


「べっつに。そうだよね、邪魔だよね。でもちょっとヘコむ」


「嘘をつけ、全然そう聞こえないんだが」


「そんなことないよ」


 あはは、と笑うわたしを、アサは不機嫌そうに眺めて、それからまた本に視線を戻す。

 あのときから、ずっと変わらないみたいに思える、そんな繰り返し。数年も経てば、それどころか一日後にも忘れているような、とりとめもない話ばかり。


 だけど、多分、わたしだけが、その小さな変化に気付いている。


 アサがページをめくる速度が、少しずつ遅くなっていること。アサが少しずつ、色んな表情を見せるようになったこと。アサ、って呼ばれた時、彼が少し嬉しそうな表情をすること。ユウ、って呼び方を、ずっと覚えていてくれること。


 少しずつ変わっていって、だけど変わらない、とりとめもない話の繰り返し。


「ねぇアサ」


 だから。


「……数学のテスト、再試験あるらしいんだけど、何とかならないかな?」


「知るか。ユウが勉強すれば解決する話だろう」


「えー」


 わたしは。


 この関係を、とても気に入っている。

 

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