誰も知らない(伊豆急行、河津駅)

誰も知らない

河津駅からバスで30分ほど行ったところに、七つの瀧がある。誰が作ったのかもわからないし、そもそもなぜ瀧があるのかもわからないが、それぞれ個性的な形をしているので、名前がついているらしい。全部合わせて河津七瀧という。

まあ、この瀧を、見学するのなら、車で来る人も最近は多い。しかし、車を停める駐車場に恵まれないので、先ず、伊豆急行の河津駅で電車を降りて、そこから修善寺方面行きのバスに乗り、水垂という所で下車してやってくる人のほうが多くいる。先ず、水垂バス停から降りると、最初に現れるのは、二番目に大きな瀧と言われる釜瀧、続いて瀧の形がエビの尻尾に見える海老瀧、次に周りの岩が蛇のうろこに見える蛇瀧、ここまでは結構険しい山道を下る。次は小説伊豆の踊子の記念碑がある初景瀧、岩が蟹のはさみのように見える蟹瀧、二つの瀧が合流する出会い瀧、それまではきっちりと遊歩道が整備されており、歩くのが苦手な人でも楽しめるようになっていた。そして、最終目的地は、大瀧である。この地方では瀧のことをたると発音する事が通例になっており、それぞれの瀧のことを、たきではなくだると呼んでいる。つまり、全ての瀧は、「~たき」ではなく「~だる」と発音するのだ。でも、そういう事情を知らない外国人などは、「おおたき」などと発音してしまう人が多いので、観光関係者は訂正するのに苦労するのだった。

大体の人は、釜瀧からスタートするが、山登りだいすきな人は大瀧からスタートして、釜瀧を最終目的にする人も少なくない。そういう場合は、河津駅から別の系統のバスに乗って、河津七瀧というバス停で降りる。そのまま大瀧から釜瀧に行ってもと来た道を戻ってくる人もいれば、水垂バス停からバスに乗って、河津駅に戻って行く人もいる。

基本的に、河津駅は伊豆半島の尻尾に近いところにあるから、そこから新幹線駅である熱海駅や三島駅などに戻るにはかなり時間がかかるので、河津七瀧を見たあとすぐ帰るという人はあまりいない。熱海や伊東などの大きな旅館に泊まっていく人もいるし、河津駅近辺の旅館に泊まる人もいる。数はあまり多くないけれど、七瀧近くに温泉旅館も建っている。特に大瀧の近くには温泉が豊富に出ていて、ここの温泉は神経痛や外傷等に効果があるので、湯治にやってくる人もたまにいる。

その、七瀧の中で最も大きな瀧である大瀧の近くに、佐藤美代子がやっている小さな食堂があった。板前をしている夫と二人で経営している、本当に小さな店だった。それでも休日は、それなりに客が入るから、経営にはあまりこまったことはなかった。

東京からこっちヘやってきた美代子は、来たばかりのころは、それなりに静かで良い場所だと思っていたが、どうも、ここにいるのはつまらないと最近感じるようになっていた。こんなところで食事とみやげ物を売るという商売は、果たして楽しいのだろうか。客なんて、瀧めぐりにやってくる観光客ばかりだし、ほとんどの客は年寄りばかり。しかも売っている内容は、みたらし団子とかあん団子などの串団子。近隣の七瀧茶屋さんでは、イチゴを多用したデザートが売られているが、最近はその店に、若い客や子供の客をとられてしまって、団子とそばを売っている美代子の店の売り上げは減る一方であった。

その日も、年配の観光客を相手に、彼らの自慢話をはいはいと聞いていた。どうせ年配の人なんだもん、大体話すことは、子供自慢か孫自慢、あるいはその逆ばっかりだ。ここに長く住んでいると、観光客がなぜここに来たのか、大体わかる様になっている。もう会社も終わって、悠々自適の生活なので、刺激がほしいからここへ来る人が八割ぐらいを占める。あとは、小さな子供をつれた家族連れ。彼らは、ディズニーランドの方が良いと行ってなく子供を慰めるのに苦労する。あと、ありえる話なら、学生が、自然と触れ合うためにとかそういう企画でやってくるか、だけだろう。そういう子たちは、瀧のことなんてまるで構わず、退屈な授業から開放されて、だいすきな恋愛のこと、洋服のこと、ゲームのことなどを、汚い声でまくし立てる。

多分きっとこれ以外の目的の人はまずいない。そう美代子は確信している。そういうはなしを聞いて、相槌を打つ今の生活は、はっきり言えば、退屈だ。昔のように、原稿を書くとか、絵を描くとか、そういう素敵な目的でここに来る人はもはやいなくなってしまったかな?

もし、そういう人が居たら、面白いのに。なんて考えても、ない物はない。

でも、美代子は、よそ者であるからこそ、瀧の美しさだけはしっかり感動していた。そこは、だれにも変えられなかった。どうしてもお客さんが来てしまうと、瀧の美しさを知ってほしいと思ってしまう。海外の人は、感動を丸出しにして感動するが、日本の観光客は、そういうことをもろに表現する人は少ないので、ちょっと寂しかった。感動してほしいという気持ちは常に持っていた。七つの瀧を見て、何か感じてほしかった。

それを頭に思いながら、今日も店をやっている。

そんなある日の午後のことである。

玄関の戸がガラガラと開いた。お昼にしては遅く、夕飯にしては早すぎるほど早い時間だった。こんな時に、何かを食べるなんてお客さんは先ずいないから、店は空っぽすぎるほど、人がいなかった。

「あーあ、時間間違えてこんな早く来すぎてしまった。チェックインにはえーと、」

「うん、まだ二時間以上あるよ。」

二人の男性が入ってきたが、あれ、この二人、今までの目的の客とは少し違うのではないか?と思われる格好をしていた。一人は黒に白で麻の葉が描かれた着流しを身に着け、もう一人は白い着物と袴に黒い羽織を着ている。

「いらっしゃいませ。」

美代子は、そういって二人を迎えた。ほかの客は誰もいないので、席は全部開いていた。特に予約も入っていなかった。

「あ、どこでも好きなところへどうぞ。」

「じゃあ、奥へ座らせてもらおうぜ。」

黒い着物の男性が車いすに乗っていたので、明らかに瀧めぐりに来たわけではなさそうだった。もう一人の男性が軽く会釈した。その顔は、言って見れば西洋的な美形で、どこかの映画俳優にそっくりだった。美代子は、移動していく二人を眺めながら、思わずボーっとしてしまった。そのくらい、綺麗な人だった。ほれぼれするほどきれいだった。でも、なまめかしいというか、そういう色気のある綺麗さとはまた違う。独特のものだ。

「おい、何をしている?お茶かなんか出してくれよ。」

そういわれて美代子はハッとし、

「あ、御免なさい。」

急いでお品書きと描いた、A4サイズの画用紙を彼に渡して、すぐにお茶を二つだした。

「さっき、電車の中でラーメンを食べたばかりなのに、又食べるの?」

と、綺麗な人がそう聞くと、

「当たり前だい。飲むだけじゃ味気ないだろう?何か食ったほうが良いんだよ。」

と、もう一人の男性はそう言った。電車の中でラーメンということは、今話題の伊豆クレイルに乗ったのだとわかる。あの電車には、食堂車があって、乗っている人は、ラーメンを食べられるようになっているから。

「ラーメン電車も良いけど、こういう素朴な御茶屋さんの団子も旨いぜ。おい、女将さんよ、この写真はみたらし団子で良いのかな?僕は、字が読めないので、写真でしか見れないからさ。」

と、彼が言う。彼はどちらかといえば、綺麗な人の引き立て役かな。私が女将さんって呼ばれるなんて、相当ふけたかしら、私?何て思いながら、

「そうですよ。うちのお団子はみたらしと、あん団子と、あと、海苔巻きが好評なの。」

と返事を返した。

「じゃあ、僕はみたらし五本。後、水穂さんにあん団子二本。」

「いらないよ杉ちゃん。僕は、お茶だけあれば。」

綺麗な人は、あわててそう返したが、

「だめだめ、ちゃんと食べなくちゃ。ここは製鉄所ではないのだし、食べないでぶっ倒れても、誰も手は出してはくれないぞ。それに、この前ぱくちゃんにもらったどら焼き食べられたんだから、もう当たることもないもんね。」

と、杉ちゃんと言われた人は言った。

「わかりました。みたらし五本と、あん団子二本ですね。暫くお待ち下さい。」

二人の名前がわかってよかったなと思いながら、美代子は厨房へ戻っていった。

数分後。

「はい、みたらし団子と、あん団子ね。」

美代子は、二人の前に、注文された品を置いた。杉ちゃんと呼ばれた人は、すぐに頂きまあすと言ってみたらし団子にかぶりついたが、水穂さんと呼ばれた綺麗な人は、全く手を出そうとはしない。

「食べんのか?」

杉ちゃんが聞くと、水穂さんは本当に申し訳なさそうに頷いた。

「だめだよ。だって、お昼も食べてないのに。ラーメン電車の中でも、僕だけがラーメンを食べて、何も食べなかったでしょ?何か食べないと、また倒れてしまうよ。」

「そんな事言ったって、食べる気がしない。のどを通らないもの。」

「薬だと思ってさ、無理してでも良いから食えよ。ここの女将さんにも失礼だぞ。お茶だけ飲んでいくなんて。」

「う、うん。」

水穂さんは、そういって、あん団子を一本取った。でも、口へ持っていくことはどうしてもできないようだ。何かわけがあるのだろうか?

「お口に合いませんでしょうか?」

美代子も、内心心配になって声をかける。

「お団子は甘いですからね。食欲のないときにも、比較的食べやすいんじゃないかしら。ほら、甘いものは結構、熱が出たときでも食べられるじゃないですか。うちのあん団子、甘味には結構自信があるんですよ。作っている主人がそういっていました。」

「ええ、、、。」

美代子に催促されたと思ったのか、水穂さんは無理やり団子を口に入れて食べ始めた。よし、良かったとまずは安心した。次は旨いとか、おいしいとか、そういう言葉を口にするとおもった。というより、口にするはずだった。しかし、聞こえてきたのは言葉ではなくて、激しい咳の音。

「おい、しっかりしろ!団子一つ食っただけで何でそうなるの!」

「杉ちゃんごめん、悪いけど、手ぬぐいか、」

咳に邪魔されて全部言い切れずに、口に当てた手指が、赤く染まってしまった。

「馬鹿!何やってるんだよ!こんなところで!ほんとにさあ、お前、何でそう食べ物を怖がるようになった?」

馬鹿と言われても、さらに咳き込み続ける水穂さん。杉ちゃん自身も、本気で馬鹿とは思っていないらしく、あーあ、本当に君という人は!何て愚痴を言いながらも持っていた手ぬぐいで汚れた手を拭き、背を叩いたりしてやっていた。

幸い、酷いものではなく、指を汚す程度で済んだ。

「馬鹿だなあお前。今回は食べ物が引き金になったというよりも、日ごろっから何にも食わないからそういうことになるんだ。もうさ、製鉄所にいるときからちゃんと食べておかなくちゃ。こうしていざ外へでた時に、食べ物を受け付けてないから、そういうことになるんだよ。もう、いつでもどこでも何も食べないというわけにはいかないよ。ちゃんと食べることは、礼儀にもつながるよ。そういうところが病んでるんだろ。そこを何とか自覚して、治そうと思おうな。」

美代子は、水穂さんは付き添いで、杉ちゃんの方が何か疾病があるのかと思っていたので、またびっくりしてしまった。ああ、何てことだ、立場は逆だったのか。その衝撃から立ち直るのに、数分かかった。

でも、あそこまでなると、かなりの重度であるという事であった。多分、というか確実に、瀧めぐりは難しいだろう。

「飯が食えないじゃ済まされないよ。これから、旅館まで行って、湯治にいくんだからよ。多少のことは理解してくれると思うが、一口も食わないのは、礼儀知らずだぞ。まあ、疲れるとは思うから、旅館に着いたら、すぐに布団敷いてもらって、休ませてもらおうな。あーあ、早く三時にならないかな。こうなったら横になったほうがいいなあ。」

時計を見ると、まだ二時だ。あと一時間近くある。それが途方もなく長く感じられた。

「一体どこに泊まる予定なんですか?」

美代子は杉ちゃんに聞いた。

「へ?ああ、あのね。アオキのなんとかってあるかな?」

「青木野坂の事ね。」

そこは、瀧からは少し離れたところにある、観光旅館とはまるでかけ離れた、いわば昔からある、湯治専門の旅館として知られていた。そういえば、前にここへ来たお客さんが、重い障害がある人は、宿泊料金を半額にするなどと宣伝していると、言っていた事がある。彼もそのために来たんだろう。他の旅館と違って長く滞在できるとも聞く。ただ、このあたりを支配している大規模な旅館とは、不仲であるらしく、立地も、瀧からは少し離れたところに立っており、景観には恵まれておらず、いわば仲間はずれになっているようだ。そこで、御主人が、温泉の効果をうたった、いわばもてなし上手な旅館にしてしまったのだろう。繁盛しないと言われていたが、心の病気などで疲れ果てた人が、よく泊まっていると聞いている。

「僕、時計読めないけどさ、後どれくらい待てば良いのだろう?」

杉ちゃんが大きなため息をついた。そこで美代子は、さっきは難しいと思ったことを実行させてみることにした。たぶん、こういう障害を持っているのなら、店の中に閉じ込めておくよりも、外を歩いたほうがずっと気分よく過ごせるはずだ。青木野坂に泊まっている人は、自然を感じる場所であるほうが、より回復は早いと聞いたこともあったので。

「すみません、もし、よろしかったら、待っている間に、瀧でも見に行ったらどうですか?」

美代子は、二人にそう提案した。

「あー無理無理。僕は歩けないし、水穂さんも長くは歩けないだろ。」

杉ちゃんはそういうが、

「でも、初景瀧までなら遊歩道があって見にいけるわよ。車いすの人でも。それ以降は流石に見れないけど。四つの瀧を見るだけでも、ここは空気は良いし、時折、カワセミが飛んでいるのが見えて、癒しの場所として人気なのよ。」

と、美代子はにこやかに返した。

でも、二人とも、自身がなさそうだった。

「せっかくだから、最初の大瀧だけでもいいじゃない?それだけでも十分迫力あるわよ。本当に感動的だから、見に行ってみない?」

「オオダルってなあに?大きな酒の樽でもあるのか?」

「違うよ杉ちゃん。このあたりで瀧の事をたるって読むんだよ。」

水穂さんがやっと正気を取り戻してくれたようで、そう訂正した。訂正してくれるなら、もうかなり落ち着いたのだろうと思った。それなら、連れて行ってもいいのではないかと思った。

「そこはこの店から近いの?」

「ええ、五分もかからないわよ。」

そう。それだけは合っていた。確かに、車いすでも五分はかからない。そこだけは間違いなかった。

「じゃあ、少し散策してみる?」

杉ちゃんが言うと、水穂さんも頷いた。

「ご迷惑かけてすみません。これで店の掃除の足しにしてください。」

水穂さんは、一万円を美代子に差し出すが、せき込んで出した内容物は、指に付着した程度で、別に何も汚れてはいない。美代子は、

「いいえ、結構よ。お団子代だけ払ってくれれば。」

と、言った。水穂さんは、残りのお団子代を全て払った。あれ、千円札が一枚多いのでは、と思ったが、それはそのままにしておいた。どうしても受け取ってほしいのだな、とわかったので。

「大瀧はどこですか?」

水穂さんに聞かれて、

「あの坂道を少し登った先よ。」

と、美代子はにこやかに言った。

「わかりました。ありがとうございます。本当に、何から何までご親切にしていただいて、すみませんでした。」

すみませんでしたという表現がやけに気になるけれど、美代子はそこを指摘するのはやめにしておいた。その代わり、水穂さんの顔が非常に疲れたように見えたので、こうすることにした。

「あたしも、付いていきますから。この時間はどうせ、だれもお客さんは来ない

し。休日になれば別だけど、そうじゃないですからね。平日は。それに、少しなら、店の板さんに見ていてもらえばいいわ。」

と、付け加えた。厨房の板さん、つまり、夫のことであるが、他人の話にあまり首を突っ込まず、結構自由にやらせてくれる人であることがよかった。頼まれなければ動かない人であるのもある意味では好都合だった。

「おう、そうしてもらおう。それでは頼むぜ。宜しくお願いしますだ。」

水穂さんが答えを考えている間に、杉ちゃんがそういってくれたので、美代子はそれでいいと思った。

「じゃあ、よろしく頼む。」

杉ちゃんに言われて美代子は、厨房にいた板さん、つまるところ自身の夫に、じゃあ、お願いします、と言って、三人で店を出た。夫が、早く帰って来いよ、と言っていたのなんてどこにも聞こえなかった。

「こっちよ。」

美代子は大瀧があるほうまで先導した。確か、坂道を少し登った所に大瀧への入り口があった。

しかし、別のものがあった。

「これは?」

そこには、「大瀧温泉天城荘」のでかでかとした看板。その隣に小さく大瀧入り口と書かれた看板がある。

「どういうことですか?」

「つまり、瀧がこの建物の敷地内にあるのよ。」

まさしくその通りなのだった。大瀧はこの旅館の敷地内にある。でも、そこの正門は、大瀧を見に行く観光客のために、確か開きっぱなしになっていることを記憶していた。

美代子は、この看板の近くにある、立派な門構えした、旅館の正門の前に立ってみて、

「あれ、正門が閉まってる。」

と、声を上げた。

「なんで?大瀧は誰でも行けるようになっていたはず。それなのに、なんで閉まっているのよ!」

と、同時に正門がギイと開いた。

「何ですか。美代子さん。ここはうちの旅館の敷地内だけどね。でかい声は出さないでもらえない?」

この旅館の女将さんか。70代くらいの、ちょっと老けた女性が現れた。

「敷地内って、大瀧は誰でも見に行ってもよいはずだったのでは?」

「昔はそうだったが、今は違うよ。あの周辺の土地はうちが買ったんだよ。瀧を見たかったら、うちへ泊まらないと、見られない。もう、町から買い取ったんだから、それは町も承知しているんだ。だからうちが好きなようにシステムを作ってもいいじゃないか?」

瀧を管理しているのは、その旅館ではなく、河津町がやっているはずだ。それなのになぜ?つまり、瀧を買い取ってしまったのだろうか?

「美代子さんも知っているだろ?ほら、こないだの台風で遊歩道が全滅したから、その修理はうちがしているんだよ。だって、うちは瀧のすぐ前に、露天風呂を作ったりしてるんだから。うちがあの土地を買って、そのお金で修理しているんだからね。もし、本当に見たかったら、うちの旅館に泊まって、それでお金を払ってみて頂戴。それだって、修理代に当てているんだよ。」

と、いうことは、瀧の近辺の土地は、すべてこの旅館が買い取ってしまったのである。そして、独自のやり方で復旧工事を急いでいたのだろう。

「まあ、あきらめて頂戴ね。うちが買い取ったおかげで、復旧工事が早く進んでいるんだ。町に任せていたら、それこそ遅すぎてお客さんが入らないだろ。とりあえず瀧の直前はすべて完成したから、泊まっているお客さんであれば入れるよ。でも、正門から遊歩道は、倒木の撤去がまだ進んでいないから、まだ入れないな。いい、美代子さん。うちもあんたも観光商売だからわかると思うけど、うちは瀧見の風呂で人気を集めてきたんだから、それが入れなくなったらおしまいなわけ。それだから早く、復活させたいのよ。だから、まちより早くあそこを私有地ということにしてさ、それで私達のペースで復興させたいのよ!」

「わかりました。すみません。」

美代子より先に水穂さんが言った。

「そういうことなら、そうします。早い復興にいそしんでください。」

「通れないなら仕方ないな。」

杉ちゃんも同じことを言った。

「女将さん、一度だけでいいから、見せてやってくれませんか。この二人、どう見ても体が不自由なのですから、普通の観光客とはわけが違います。お願いできませんか!」

どうしても行かせてあげたいな、と美代子は思って、女将さんに詰め寄った。なぜか、そうしてやりたいという気持ちが入ってしまったのである。通常の観光客とはわけが違う。「違う事情、、、?何もなさそうに見えるけど?いったい何のことよ。とにかく大瀧を見るのは、まだ待ってて。」

この時、この女将さんになぜか妬みも湧く。

どうして大瀧を独り占めする?

だって、観光に来た人みんなが見に行っていい場所だったのに。

今は、この旅館だけのものになってしまったの?

なぜ!

悔しくて、別の言葉を言おうとしたその時に、

「もういいですよ。僕たちも、事情があって、期待していたけど、実際は無理だったというのは、慣れてますから。この程度の事では、失望はしません。」

客にそんなこと言われるなんて、客商売どころか、ダメじゃないか!と思った。そうじゃなくて、客にサービスしてあげるのが客商売なのだから、だれでも見ていいと思うのに。

「気にしないでください。今は隣の家で何があるのか全く知らない時代ですよ。そのほうが、平和に生活できるからそうするんでしょう。だから、本当に納得しています。だって、早く復旧してもらわないと、ほかの客が困るでしょ。そのためには、町の計画では追いつけないから、ここを買い取って、すぐに何とかしたい、という気持ちもわかりますよ。それで、いつかまた見れる日が来るのなら、僕たちは何も気にしませんので。」

気にしないって、あなたは、自分のことがわかってそういうのでしょうか?もう来年はここへは来られないのではないですか!

そんなこと、口に出して言えたら、どんなに楽だろう。

でも、今、こんな場所で言ったら間違いなく笑われるだろうから、美代子は涙をためて、正門を見つめるしかなかった。

「まあ、今復旧工事を一生懸命やっているから、もうちょっと辛抱してくださいね。あんたさんは、どこから来たの?」

例の旅館の女将さんが、そう聞くと、

「あ、僕らは富士からです。」

水穂さんは正直に答えた。そうじゃなくて、東京とかそういうところから、わざわざ来たと言ってくれればいいのに!

「富士からじゃあ、同じ静岡県だし、比較的近いね。それじゃあ、いつでも来られるじゃない。またホームページか何かで、復旧したら伝えるから、その時に来て頂戴よ。じゃあ、宜しくね。」

冷たい声と一緒に、正門はギイイと閉まってしまった。

「すみません、お手数お掛けして。僕たち、そろそろ青木野坂へ行きます。たぶん、歩いていけば、チェックインの時間になると思います。今日は、本当にご親切にして頂いてありがとうございました。」

「ほんとに、ありがとうな。まあ、瀧を見れないのは残念だったが、あんなつんけんとした女将さんのいる旅館に泊まるよりも、こうやって親切にしてくれる人がいるところのほうが余程思い出に残るよ。」

水穂さんと杉ちゃんの台詞で、やっと我に返るが、こうして誉めてもらえるなんて、ほとんどありえない話なのだということに、気が付かされた。

「私。大したことやっていないわ。連れて行ってあげると言っていながら、実現できないんだから。無責任な人よ。」

「いや、いいんじゃないの?少なくとも僕らに瀧を見せてやるという気持ちはあるんだろ。それを独占しようとなんて、これっぽっちもないだろう?もう一度聞くが、瀧を見たかったのは君だったの?」

杉ちゃんにそういわれて、美代子は顔を真っ赤にし、

「違います!そんなことありません。あたしは、瀧なんて何回も観ているし、飽きる程です!」

と言った。

「そこを大事にしてくれよ。」

杉ちゃんはまたそんなことを言った。

「じゃあ、これで失礼します。元来た道を行けば、着けると思いますので。」

二人は、踵を返して、青木野坂のある方向へ歩いていく。せめてそこの訂正をしてやりたかったなと思ったが、そこは間違っていなかった。

たぶん、これがあの二人との最初で最後の出会いなんだろうなと、美代子は確信した。それだからこそ、ここで一番綺麗な大瀧を見せてやりたかった、と悔しがった。悔しいけど、人生にはいろんなことがあるもんだと思いながら、美代子は元の持ち場へ戻っていった。

瀧は、誰も知らないで流れているだろう。

瀧を、誰が見ているのかも、

瀧が、誰の土地になっているのかも、

知らない。

誰も知らない、、、。

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杉ちゃんの秘境駅編 増田朋美 @masubuchi4996

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