2. 桐野修一 6:35 p.m.
「本当に、警察に行かなくていいのかな?」
修一がそのセリフを口にするのは、これで三回目だった。香夏子はうんざりしたように、「大丈夫だって言ってるでしょ」と言う。
「でも、あれは立派な犯罪だよ」
「立派な犯罪って、どんな犯罪よ」と香夏子はむくれる。「最低の犯罪よ」
「いや、そういう意味じゃなくてさ」
「とにかく、私は行かないわ。警察なんか行ってたら、せっかくのライヴが見れないじゃない。それに、盗まれたのは元々誰のかもわからないCD一枚なんだし、行かなくても問題ないわよ」
「そうかなぁ」と修一は煮え切らない。
「それより、この雰囲気。いつ来てもいいわね、ライヴっていうのは」
そう言って、香夏子は武道館の客席を舐めるように見渡した。
座席はアリーナも含めてほとんどが埋まっていたが、それでも未だに入口からは人が流れ込んでいた。人々が発する小さな声は、重なり合い、雪だるまのように膨れあがって一つの大きく虚ろな音となり、耳鳴りのように響く。武道館の中には、騒々しさとともに、人々が来るべきときを今や遅しと待ち構える緊張感が漂っていた。騒然としているのに、隣の人が唾を飲む音が聞こえてきそうな、そんな不思議な感覚が修一を捉えていた。
「そうだ、カメラ、カメラ」
香夏子はバッグの中をあさり始めたが、直に、「あれ?」と声を上げた。
「カメラないの?」
「カメラはあるんだけど」
「だけど?」
「カードケースがないのよ」
「カードケース?」
「そう。あまり使わないカードをまとめて入れてあったんだけど……変ね、いっつもバッグの中に入ってるのに」
「ひょっとして、さっきの男が?」
「まさか。バッグの中からカードケースだけ抜くなんて、無理でしょ。でも、あのとき転んだ拍子に落ちた可能性はあるかもね」
「どうする? 警察に行く?」と修一は心配そうに尋ねる。
「あんたは何かというと、すぐに警察ね」と香夏子は笑う。「いいわよ。どうせ期限切れのポイントカードばっかりだし。ひょっとしたら、書いてある携帯の番号も今のと違うくらい古いかも」
無くなっても困らないようなものをどうして持ち歩いているのか、修一には理解できない。
「そう言えば、香夏子の前の携帯の番号って、ちょっと変わってたよね。確か、7と5ばっかりだった」
「あと、3ね」
「あの、すみません」
突然の声に驚いて振り向くと、一目で会場係員だとわかるスタッフジャンパーの女性が立っていた。
「はい?」
「申し訳ないんですが、チケットの半券を拝見できますか?」
「あ、はい」
修一は言われたとおりに、一度財布にしまった半券を取り出す。係員の女性は素早くそれを確認する。礼を言って立ち去る際に、「西側Eの二十八番はお客様いらっしゃいます」と無線で報告を入れていた。
「何、今の?」と香夏子が怪訝そうな声を出す。
「さぁ。うちらがチケットも持たずに忍び込んだとでも思ったのかな?」
「あらぬ疑いをかけられたってこと?」と香夏子は大げさに声を張る。「大変じゃない。警察に行く?」
「本気で怒るよ」
そのとき、会場のライトが落ちた。ほんの一瞬、そこにいる全ての人が息を飲む間があってから、すぐに雪崩のような歓声が上がる。そしてその歓声を切り裂くように、ドラムの音が弾ける。香夏子が悲鳴を上げ、修一が感嘆の声を漏らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます