3. 千葉正雄 6:05 p.m.

「懐かしいもんだ」

 九段下駅から地上に出たときに、雄彦がぽつりと言った。

「懐かしいって、来たことあるの?」と正雄が尋ねる。

「あぁ、四十年前にビートルズが来たときにな」

「ビートルズって、あのビートルズ?」と正雄が驚く。

「ほかに、どのビートルズがこの世界にいるんだ?」

「親父、ビートルズ見たの?」

「あぁ、見たさ。ちょっとしたコネでチケットが手に入ってな」

「親父が、ビートルズを?」

「だから、そうだって言ってるだろうが。お前もくどい野郎だな」


 正雄には、にわかには信じがたかった。四十年前にはもちろん生まれていなかった正雄も、ビートルズの日本公演の様子は古めかしい映像で何度か見たことがあった。今の自分と同じ年頃の雄彦があの場所にいたとは、もちろんありえないことではなかったが、少なくとも正雄には想像できなかった。

「羨ましいな」

「今思えば、貴重な経験だった」と言って、雄彦は目を細めた。


 田安門への道筋には、強面のダフ屋がプラカードを持って並んでいた。

「こういう奴らは、あの頃はいなかったぞ」と雄彦は言った。

「親父、ひょっとして歯磨き粉を買ったの?」

「歯磨き粉?」

「何かで読んだことあるんだけどさ、来日公演のスポンサーが歯磨き粉の会社で、その会社の歯磨き粉を買って応募すればチケットが当たるっていうキャンペーンをやってたんでしょ?」

 雄彦がグーにした右手を左の手のひらに落とした。

「そうだ、そんなことやってたな。お前、よく知ってるな」


 そのときだった。五十メートルほど先に見える門のあたりが、何となく騒がしくなった。「何だ、あれ?」という声がどこからか聞こえ、前を歩いていた人たちがまるでウェーブでもするみたいに次々と左右に寄っていく。見ると、キャップをかぶった小柄な男がこちらへ向かって走ってくる。疲れているのか、どこか怪我しているのか、どことなくバランスの悪い走り方だ。正雄も必死に走るその男から出ている気迫のようなものに気圧され、自然と道を空けた。しかし、雄彦は避けなかった。その場に立ち尽くし、鋭い目つきで迫ってくる男を見ている。


「親父」と正雄が声をかけるが、雄彦は動かない。最後には、走ってきた男の方が雄彦を避けるかたちで、わずかに左に進路を変えた。そして、雄彦の右横を通り過ぎた瞬間、予期していなかったことが起きた。男が転んだのである。何かに躓いたようによろめいた男は、両手を付いたものの支えきれず、そのまま顎から地面に倒れた。見ている人が代わりに呻いてしまうような転び方だった。正雄が状況を飲み込めないでいるところに、別の足音が男を追うようにして走ってくる。


「おじさん、ナイス!」

 そう言った人物は、次の瞬間には地面に突っ伏している男に馬乗りになった。キャップの男が苦しそうな声を上げながら、必死に逃げようとする。

「おい、おとなしく観念しろっての。直樹、お前も手伝え!」

 その呼びかけに、もう一人が男の尻あたりに膝を抱えて腰掛けた。男を押さえつけているというよりは、ピクニックでもしているような雰囲気だ。

「あ」と体育座りの男が、雄彦に向かって声をかける。「さっきはどうも」

 雄彦の顔が一瞬思案する表情になり、それから「あぁ」と緩んだ。

「ライターの」

「そう、ライターの」

「その節はどうも。で、何をしてるんだ?」

「さぁ、何をしてるんでしょう」と自分にもわからないというように、体育座りの彼は答える。


「何だ、直樹、知り合いなのか? こいつ、ひったくりの犯人なんすよ」

 そう言って、馬乗りになっている方の、いかにも「最近の若者」といった風貌の男が、倒れている犯人の頭を手で叩いた。諦めたのか、男は反応を示さない。

「おい、こいつ、どうする?」

「やっぱ、こういうときは警察じゃないのか?」と体育座りの男は言う。

「そう言えば、坂を下りたところに交番があったと思うぞ。今もあればだけどな」と雄彦が提案する。

「あぁ、ある」と馬乗りの男。

「じゃあ、そこに連れていこう」と体育座り。

「俺も手伝うぞ」と雄彦。

「いや、おじさんはもう十分手伝ってくれたよ。見事な足払いだったからな」と馬乗りの男が親指を立てる。「ついでに言うと、その歳でロックを聴こうっていう心意気が粋だね。息子さんとライヴ楽しんでよ。なぁ、直樹?」

「え? あぁ、あとは任せてください」と体育座りの男が微笑む。


「親父は、ビートルズのライヴを見たんだ」

 どうしてだかは本人にもわからないが、気づくと正雄はそう口走っていた。一瞬、ほかの三人がきょとんとする間があってから、馬乗りの男が驚きの声を上げる。

「マジかよ! それ、最高にすげぇよ、おじさん」

「それは、すごい」と体育座りの男も頷く。「やっぱり、すごかったですか? ビートルズもだけど、会場の雰囲気だとか」

「ってか、よくチケット手に入りましたね? あ、あれっすか? 歯磨き粉買ったら、チケットが当たるっていうやつ」

「何だ、それはそんなに有名な話なのか?」

「いいから、さっさと連れていけよ!」

 すっかり存在を忘れられ、ベンチと化していた犯人が叫んだ。

「あぁ、悪い悪い。すっかり忘れてたよ」

 二人の若い男は、犯人が逃げないように慎重に立ち上がる。犯人も余力がない様子で、おとなしくしている。

「じゃあ、おじさん、今度会ったら、ビートルズの話聞かせてよ」

「そのときライターなかったら、貸しますから」

 そう言うと、二人は犯人の両脇を抱えて、去っていった。雄彦と正雄は、しばらくその後姿を見送る。


「何だか、不思議な若者たちだな」

 やがて雄彦が言う。

「あぁ。いい人たちだ」と正雄も答える。「親父、あの犯人に足を引っ掛けたのか?」

「あぁ、まぁな。どう見ても怪しかったからな」

「あんまり、無茶するなよ」

「無茶なんかしてねぇよ」

 二人は再び武道館に向かって歩き始める。


「ところでよ、お前、どうして突然ビートルズの話なんかしたんだ?」

「さぁ、どうしてだろう?」と正雄は門の上に目をやった。一羽のカラスが、こちらを見下ろしていた。「最高にすげぇと思ったから、自慢したくなったのかもね」

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