2. 桐野修一 6:03 p.m.

 修一は香夏子の荷物を手に、武道館の中へと続く人の列を見つめていた。修一くらいの年頃の客が一番多いが、ほかにも、仕事帰りのサラリーマンや家族連れの姿なんかもちらほら見える。どう見ても演歌の似合う老夫婦が、連れ立ってロックを聴きに来ているのには驚かされた。

 人垣の向こう側に、バンドのグッズを売っているテントが見える。そこに香夏子がいるはずだった。修一は時計を見た。すでに十五分ほど待ちぼうけを食らっている。


 しばらくして、列の切れ間を縫うようにして香夏子が戻ってきた。両手に大きな袋を二つ持っている。

「お待たせ」

「何を買ったの?」

「こっちが、バンド・オリジナルのパーカー」と右手に持った袋を掲げ、「そしてこっちが、バンド・オリジナルのポスターとパンフレット」と左手を挙げる。

 いちいちバンド・オリジナルという枕詞が必要なのか、修一は疑問に思う。

「あまり使いすぎないでくれよ。香夏子が使いすぎると、俺の小遣いまで減るんだから」

「私は自分で稼いだお金を、自分の好きなことに使ってるの。修の小遣いとは関係ないわよ」

「はいはい、そうですか」


 修一がふと足元に視線を落とすと、靴紐がほどけていた。「ちょっと、これ持っててくれる?」と、荷物を香夏子に差し出す。

「か弱い乙女に、これ以上荷物を持たせる気?」

 文句を言いながらも、香夏子は荷物を受け取る。

「自分の荷物だろう?」

 修一は屈むと、靴紐を結び始めた。「それに『か弱い乙女』なんていうのは、とっくの昔に死語だよ」

 そのとき、修一の頭上で甲高い悲鳴が聞こえた。修一は驚いて顔を上げる。

「ちょっと、何すんのよ!」

 香夏子の正面に黒いキャップをかぶった小柄な男がいて、二人はまるで綱引きをするみたいに何かを引っ張り合っていた。あまりに突然の出来事に、修一は呆然とその様子を見つめている。

「修、助けて!」


 ワンテンポ遅れて、修一はようやく目の前の男が香夏子のバッグを奪おうとしていることに気がつく。修一は慌てた。慌てたあまり、何も言葉を発することができないまま、香夏子側の助っ人として綱引きに加わろうと、手を伸ばす。しかし、修一の手が届くよりも一瞬早く、耐え切れなくなった香夏子が手を放した。抵抗を失った両選手が後ろに倒れこむ。香夏子はそのまま尻餅をついたが、キャップの男は器用に身体を翻し、足が絡まりそうになりながらも盗んだものを手にしっかりと握り、逃げ出した。


「修、バッグ! 私のバッグ!」

 殺気立った香夏子が、地べたに座り込んだまま、男の逃げた方向を指差しながら必死に訴える。「何してるの、早く追いかけて!」

「落ち着きなよ、香夏子。大丈夫だから」

 修一が宥める。

「いったい、何が大丈夫なのよ。あの男、私のバッグが……」

「バッグならここにあるよ」

 修一の言葉に香夏子が自分の傍らを見る。確かにそこにバッグがあった。

「じゃあ、私のバンド・オリジナル」

「それもここにあるから、大丈夫だって」

 香夏子はきょとんとする。

「じゃあ、あいつ、何を持って行ったの?」

 そう言ってから、香夏子が「あっ」と声を上げる。「CD!」


 周囲の人たちが、遠巻きに修一と香夏子を訝しげに見ている。男は途中で人にぶつかって転んだが、すばやく身を起こすと、すぐに二人の視界から消えた。

「ビデオ・パラダイス」

 修一がぽつりとそう呟いた。

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