4. 小川 舞 6:20 p.m.

 舞は、九段下駅の二番出口から地上に出た。周囲の人たちがこぞって右手に伸びる坂道を上り始めたので、舞は特に考えることもなくその流れに乗った。道の両脇には、プラカードを首にかけ、チケットを掲げて「シルバー・レイン、チケットあるよー」と連呼している人たちの姿もある。彼らの間を通り抜けながら、舞はいつになく緊張していた。自分がチケットを持っていないことを彼らに悟られまいと、できるだけ堂々と足早に歩きぬける。もちろんそんなことはないのだが、チケットがないのがばれたら最後、買うまで彼らが執拗に脅してくると舞は信じていた。


 お堀を渡り、二つの門を越える。開演時間が間近にも関わらず、たくさんの人々がゆっくりとした足取りで武道館へと向かっていた、ように舞には見えた。私がチケットを持ってたら、こんなギリギリの時間にこんなのんびり来たりしないのに、と舞は八つ当たりし、突然草むらから聞こえたカラスの鳴き声に驚きながら、先へ進んだ。チケットがなくてもここまで来れるんだな、と意外に思う。

「中まで入れちゃったりしないかな?」

 もちろん入れるはずもなく、武道館を目の前にし、舞は策に窮した。仕方なく、車道の端の縁石に腰を掛けると、紙切れを見せるだけで難なく武道館の内部へと入っていく人々の背中を見ながら、ため息をついた。


 しばらくして、左手に警察官が二人現れた。舞は特に疾しいこともないのに、どきりとする。警察官のそばには三人の若者がいて、そのうちの一人が、身振り手振りを交えて何かを熱心に説明していた。雑誌のモデルが着用している洋服一式をそのまま着込んだようなその男に見覚えがあるような気がしたが、すでにどこで見かけたのかは思い出せない。警察官たちはしばらくうろうろと歩き回りながらメモを取ると、チケットの確認をしている二人の係員のうちの一人に何事か話しかけ、来た方向へと去っていった。


 彼らがいなくなったところで、舞は以前友人がした話をふと思い出した。いつだったか、大学の食堂で何人かの友人と映画の話をしていたときだった。その中の一人が言った。

「ねぇ、ただで映画を観る方法知ってる?」

 みんなが首を捻ると、彼女は得意げに言った。

「係員にチケットを見せる場所があるじゃない? あそこを後ろ向きに通るのよ」

「後ろ向き?」と尋ねたのは舞だ。

「そう。こうやって後退りしながら入るのよ」とその友人は立ち上がると、不自然な動きで後ろに下がった。「ムーン・ウォークだ」と誰かが言った。

「そしたら?」

「そしたら、係りの人は中から出てきたと思うじゃない?」

 その人間の心理を巧に利用した妙案に、その場にいた全員が感嘆の声を漏らした。なんてことはもちろんなく、その場にいた全員が一笑に付したのだが、今の舞はその案に賭けてみようと考えていた。

「何で笑うのよ? やってみる価値はあると思わない?」

 ある、と舞は拳を握り締めた。もちろん、そのまま実行したところで成功するとは舞も考えていなかった。だから、少しばかり応用を効かせることにした。


 舞は膝をぽんっと叩いて立ち上がると、係員のところに歩み寄り、できるだけ平然を装ってにこやかに話しかけた。

「あの、すみません」

「はい」

 係員は舞に一瞥をくれたが、チケットをもぎ取る手を休めはしなかった。

「一度入場して出てきたんですけど、チケットの半券を失くしちゃったみたいで」

「どちらから出られました?」

「え?」


 係員は訝しそうに舞を見つめている。舞はすぐに質問の意図を理解した。入り口はほかにもう一ヶ所あるが、どちらにも係員が立っているので、中から出ようとする人物がいればすぐに気がつくのだ。舞は必死に頭を回転させる。

「ここから出たんですけど、あ、お兄さんがちょうど警察の方と話してたときだったので、気づかなかったんじゃないですかね?」

 忘れず笑顔を付け足す。係員は納得いかなそうな表情を浮かべながらも、否定するだけの確信もないらしく、「再入場は原則禁止なんですけどね」と呟くように言った。

「すみません」

 笑顔。

「座席の番号は何番ですか?」

「え?」

 どうしても無意識のうちに訊き返してしまう。「あぁ、よく覚えてないんですけど、確かEの二十八だったような……」

 係員は怪訝さを増した目で舞を見る。もう少し無難な数字にしておけばよかった、と舞は後悔する。

「ここから出たということは、二階席ですよね?」

「え? あ、はい。そうです」

「東西南北は?」

「東西南北?」

 一体どんな仕組みになっているんだ、と舞は内心思う。「えっと、西、かな…」

「かな?」

「です」


 係員は黙って腰のあたりに手を当てると、角の生えた黒い箱のようなものを口に当てて喋り始めた。トランシーバーだ。「そう来たか」と舞は呟いた。片手が塞がったことでチケットをちぎる作業は一旦中止となり、列の進みが遅くなった。並んだ人たちの舌打ちの混じった視線が、背中にちくちくと感じられた。

「入場管理の大柴です。座席の確認をお願いします。二階席、西側E列の二十八番はお客様いらっしゃいますか?」

 しばらくの間沈黙があってから、返答があった。音量が小さいうえに不明瞭なので、舞にはよく聞き取れない。

「はい、一応お願いします」と入場管理の大柴さんが言った。「その席はすでに埋まってるみたいなんですよ。一応、その方のチケットを確認していますけれど、座席にお間違いはないですか?」

 言葉遣いこそ丁寧だったが、大柴さんの目を見れば、彼が自分の話を信じていないことは舞にもわかった。

「私の負けです」

「え?」

「もう一回、よく探してみます」

 そう言って、舞は最後の笑顔を見せた。「そうしてください」と大柴さんは言い、再びチケットを破り始めた。


「くそぅ、やっぱりダメか。ムーン・ウォーク作戦」

 縁石の上に戻り、舞は嘆いた。そのとき、音とも振動とも付かない轟きが建物の中から一気に溢れた。歓声というよりは、エネルギーと言ったほうが適切だった。ライヴが始まったのだ。列に並んでいる人々が一斉に武道館の大きな屋根を見上げ、それからそわそわと前を窺いだす。舞は自然と会場の様子を思い浮かべてしまい、高まる鼓動を抑えきれずに、その場でジャンプした。

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