3. 千葉正雄 5:28 p.m.

「だめだ。出ない」

 そう言うと、正雄は電話を切った。カードケースの中のカードに書かれていた携帯電話の番号に電話をかけてみたのだ。

「移動してて気づかないのかも知れねぇな。今の電話は着信履歴っていうのが残るからよ、そのうち向こうが落としたことに気づいて電話してくるだろ」

 隣で「都会的だから」という理由で注文したキャラメル・マキアートを飲んでいる雄彦の言葉に頷き、正雄はカードをカードケースに戻す。


「で、親父、これから何があるの?」

「あ? あぁ。お前、洋楽好きだろ?」

「洋楽? まぁ、いくつか好きなバンドはいるけど」

「あいつらはどうだ? あれ、あの、何とかレイン」

 雄彦は本当に度忘れしたのか、わざと曖昧にしているのか、そう言いながら背広の内ポケットを探っている。

「シルバー・レイン?」

「あぁ、それだ、それ」

「好きだよ。結構好きだ」

 それを聞いた雄彦の顔が、ぱっと明るくなった。

「そうか、そうか。実はこれが手に入ったんだ」

 雄彦は、細長い封筒のようなものを正雄に渡した。中を見て正雄が声を上げる。

「ライヴのチケットじゃないか。それも今日のだ」とそこで、正雄は素朴な疑問に思い至る。「どうして親父がこんなの持ってるんだよ?」


 正雄が尋ねるのも無理はなかった。雄彦が聴く音楽と言えば、もっぱら演歌か「古き良き」という修飾詞の似合う昔の歌謡曲で、流行りの曲を聞くと、決まって例の「最近の若い者は」というセリフを口にしたからだ。流行りなうえに洋楽となれば、もはや理解不能であることが正雄には容易に予想できた。文字どおり、知らない国の言葉だ。


「あ? まぁ、知り合いにな」

 知り合いに何なのかによって大分意味合いが違うだろう、とチケットに記された「二階・南・E列・二十八番」という座席番号を見ながら、正雄は思う。

「これに行くの?」

「嫌じゃなければな」

「いや、俺は嫌じゃないけど…親父は?」

「俺のことはいいんだよ」

「いいんだよって」

「行くのか? 行かないのか?」

 短気な雄彦の口調はわずかに怒気を帯びる。

「行くよ。喜んで行くよ」

「じゃあ、決まりだ」

 そう言うと、雄彦はポケットからタバコを取り出し、ライターを探してポケットというポケットを叩いた。「ここ、タバコ吸ってもいいのか?」

「大丈夫だよ」と正雄は答え、雄彦のために灰皿を取りに行く。戻ってくるとき、雄彦が隣の席の若い男に何かを手渡しているのが見えた。どうやら、ライターを借りたらしい。


「お前は吸わないのか?」と雄彦が正雄に尋ねる。

「俺? 吸わないよ」

「そうか」

 雄彦はそう言うと、美味そうにタバコを吹かした。


 店を出るときになって、正雄は再びカードケースのことを思い出した。

「これ、どうしようか?」

「この店に置いていけばいいんじゃないか? ひょっとしたら取りに来るかも知れねぇし」


 正雄はレジの前にできている列には並ばずに、脇から店員に声をかける。行列の先頭にいる女の子はメニューを見ながら真剣に悩んでいて、正雄がこのまま注文を始めても気づきもしなさそうだった。人生の縮図がどうのこうのと呟いている。正雄の呼びかけに、レジを打っていた女性店員が「はいっ」と元気のいい声で返事をしたが、自分の前にできている行列に気が気じゃないようで、どこか落ち着かない。これ以上仕事を増やさないで、と顔に書いてある。


「これ、店の前に落ちてたんですけど」

「あ、はい。落とし物ですね」と店員は言い、正雄の手からカードケースを受け取ると、無造作にレジの横に置いた。「ありがとうございました」と店員は相変わらずの威勢の良さで言うが、正雄は、そのまま忘れなければいいけど、と思う。


 少し離れたところで待っていた雄彦のところに戻ると、「化石になる前に思い出してくれればいいけどな」と雄彦が言った。

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