4. 小川 舞 5:28 p.m.

 小川舞は、バッグの中から震える携帯を取り出した。東京行きの中央線の車内、三鷹駅を出たあたりだ。画面には、見覚えのない番号が点滅している。東京で一人暮らしをするようになってから、舞は知らない番号からかかってきた電話には出ないことにしていた。電車の車内ということもあり、やはり今回も出ない。


 携帯をしまうと、今度は財布を取り出し、中から一枚の紙を抜く。銀行の明細書だ。「ザンダカ」という片仮名表記に続いて、四桁の数字が並ぶ。舞はため息を一つ吐くと、紙を握りつぶし、両足で地団太を踏みながら、「くっそぅ」と喉の奥で唸った。隣に座っていた、黒いキャップを目深にかぶった小柄な男が訝しげに舞を見たが、舞はそれに気づいていない。


 新宿駅に着き、階段を上っていると、前を歩いていた人が突然立ち止まったので、この後どうするかで頭が一杯だった舞は危なくぶつかりそうになった。髪を茶色に染め、腰からチェーンを垂らしたその若者は、携帯電話を耳に当てながら、深々とお辞儀をした。「誠に申し訳ありませんでした」と、演技がかった物言いで謝罪している。その様子を眺めながら、こういう、電話しながらお辞儀をする人って偶にいるよな、と思う。


 改札を出たところで、舞はお腹が空いていることに気づいた。そして一旦それに気がつくと、そのことが気になって仕方なかった。そういう性格なのだ。迷った挙句、駅から少し歩いたところにあるファーストフード店へと向かった。「腹が減っては軍はできぬ」という多くの人によって擦り減るほど使われた諺が、舞の頭を駆け巡っていた。


 レジの前でメニューと睨み合いながら、舞は再び迷った。一目見たときから気になって仕方がない、「真夏のスパイシー・チキンサンド」。しかし懐の寂しさを考えれば、普通のハンバーガーで手を打つべきなのは明らかだった。ハンバーガーが百八十円。スパイシー・チキンサンドは三百八十円。この二百円は今の舞にとっては大きかった。まるで人生の縮図だ、と舞は思う。ふと気づくと、レジの店員がほかの客と話していたので、舞はこれ幸いとばかりに思いっきり悩む。しかし、まもなく本来の仕事に戻った店員が、舞の気持ちを察したのか、商品の解説を始めた。


「こちらはふっくらとしたバンズで、ジューシーなピリ辛チキンをサンドした、この夏のおすすめ商品となっております。本当に、すんごくおいしいんですよ」

 販売マニュアルでそう指示されているのか、舞を落とそうと心に決めたのかはわからないが、店員は「ふっくら」だとか「ジューシー」だとかいう魅力的な形容詞を添えて、丁寧かつ元気よく説明してくれた。前半はまだしも、後半は完全にこのお姉さんの個人的感想じゃんか、と舞は思う。

「私の負けです」

「え?」

「それ、ください。あとアイスコーヒーも」

「あ、はい。ありがとうございます。五百六十円です」と店員が快活に言った。その笑顔がどうもしてやったりと言わんばかりな気がして舞は唇を噛みながらも、不承不承財布を開いた。商品を渡したあとに、「ありがとうございました」と店員がもう一度威勢良く言った。


 舞は二階の窓際の席に座ると、足元を行き来する人の波を眺めながら、ふぅっと息を吐いた。ふと、窓枠のところにジッポーが置いてあるのに気がついた。誰かの忘れ物だろうか、とそれを手に取りながら舞は考える。帰るときに店員に預けよ、とポロシャツの胸ポケットに入れた。

「さてと」

 心の中で呟いたつもりのその言葉は、知らず知らずのうちに声になっていた。あと三十分で開演。さてと、どうするか。お金がない。だから、チケットもない。ついでに策もない。さてと、どうする。


 ほんの少しの間考えたあと、舞はとりあえず「真夏のスパイシー・チキンサンド」を満喫することにした。

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