3. 千葉正雄 5:10 p.m.

 千葉正雄は、目の前の高層ビルを見上げた。先端あたりを見つめていると、ビルがこちらに倒れてくるような錯覚に襲われる。一階の正面玄関に目を落とすと、ちょうど雄彦が出てきたところだった。背広を着ているが、ネクタイはしていない。


「おう」と雄彦が声を上げる。

 雄彦が新宿駅西口のワシントンホテルに宿泊していると聞いたとき、正雄は不釣合いだと直感的に感じたが、こうして実際に雄彦とワシントンホテルを目の前に並べられると、想像していた以上に不釣合いだった。正雄は思わず笑いそうになる。

「親父に似合うのは、三階建てまでだな」

「あ?」

「何でもないよ」

 正雄は雄彦の半歩前を、新宿駅の方向へと進む。何とも言えない緊張感と気まずさを感じる。まるでデートみたいだな、と正雄は思う。

「にしても、東京ってのはすげぇな。どこ行ってもこんなに人がいるのか?」と言う雄彦の顔は笑っていた。「花火大会みてぇだ」

「花火のときは、こんなもんじゃないよ」と正雄も笑って答えた。


 二週間前、実家から電話があった。年金の控除手続きがどうだとか、携帯電話の料金が高すぎるだとか、そういう用件で母親が電話をしてくることは偶にあったので、正雄は、今回は何のことだろう、と思いながら電話に出たが、「俺だ」と太い声がしたので驚いた。雄彦が電話をかけてくることなど滅多になかったからだ。

「今月の末に、出張でそっちに行くんだよ。それで、夕方から空きができる日があるから、飯でも食わないか?」

 慣れない電話に多少緊張しているのか、雄彦は誘っているというよりは脅しているみたいな口調で言った。正雄が「いいよ」と答えると、幾分ほっとしたように「そうか」と言ったが、「じゃあ、また近くなったら連絡するから、な?」と、最後の「な?」はまた語調を強めた。


「で、どこ行く?」

 しばらく歩いたところで、正雄が尋ねる。

「あ?」

「夜ご飯、食べに行くんでしょ?」

「あぁ。でもあんまり時間がねぇんだ」

「時間がない? 仕事でも入ったの?」

「いやぁ、そういうんじゃないんだけどよ」

 どういうわけか、雄彦は歯切れが悪い。「とりあえず、あそこに入ろう」

 そう言って雄彦が指差したのは、甲州街道に面して建つ、外壁に大きな時計のあるファーストフード店だった。

「ご飯って、ハンバーガー?」

「だから、時間があんまりねぇんだよ。飯は終わったあとでもいいだろ?」

「終わったあとって、何が?」

 雄彦は正雄の問いには答えずに、「こういう店に一回行ってみたかったんだよな」と嬉しそうに呟くと、大股で店内へと足を踏み入れた。

 そのとき、携帯電話で話しながら店の中から出てきた女性が、雄彦の脇腹の辺りにぶつかった。雄彦が二、三歩退き、女性の手からバッグが落ちる。バッグの中身が路上に散乱した。

「ごめんなさい」と女性が謝り、散らかったバッグの中身を慌てて掻き集める。雄彦と正雄もそれを手伝う。女性は電話の相手に二言三言告げてから、電話を切った。


「親父、大丈夫?」

 女性が去ってから、正雄が雄彦に尋ねた。

「あぁ。ったく、最近の若いもんは」と雄彦が常套句を口にする。「謝るくらいならぶつかるな、ってな」

「いや、それは違うと思う」

 正雄はそう言いながらも、ぶつかられてよろめいた姿に、雄彦が歳を取ったことを感じたのも事実だった。

「あれ?」

「どうした?」

 正雄は少し離れたところに落ちていたカードケースを拾い上げた。

「さっきの人のか?」

「たぶんね」


 正雄と雄彦は、女性が去った新宿駅の方向に同時に視線を向けた。

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