2. 桐野修一 4:00 p.m.

 桐野修一は、マーチを路肩に停めた。すぐ脇をほかの車が次々と追い越していく。その度に修一の乗ったマーチは、桟橋に係留されたボートのようにゆらゆらと揺れた。あっという間に走り去っていく車を眺めながら、まるで命がけのレースみたいだ、と修一は思う。


 ダッシュボードの上の地図を取り、ハンドルの上で広げる。修一の乗っているマーチにはカーナビが搭載されているのだが、電源は入っていない。「カーナビには従わない。道がわからなければ、地図で調べる」というのが修一のこだわりだった。現在地を見つけたところで、電話が鳴った。


「はい、もしもし、桐野です」と仕事用のキーの高い声で言ってから、それが私用の携帯であることを思い出す。

「もしもし、今晩あなたと約束があるものですが」と相手も営業用とはっきりわかる調子で応じる。香夏子だ、と修一はすぐにわかる。

「あ、その件なんですが、申し訳ないんですけれども、キャンセルさせていただきたいんです」

「お願いだから、冗談だと言って」

「冗談だよ」

「まったく。くだらない冗談言ってて、本当に来れないようなことになったら、冗談じゃ済まされないからね」

「わかってるよ」と修一は少し呆れながら言う。「そんなに好きなの?」

「好きだよ。何をいまさら。決まってるでしょ? 好きでもないのにわざわざライヴに行く?」

 俺はそれほど好きじゃないけれども行く、と修一は思わず言いそうになる。

「修も聴けばわかるよ。今からでも遅くないから聴きなって」と言う香夏子の口調には、少しずつ熱がこもってきている。「何て言うか、ロックを感じるんだよね、彼らの歌には」

「二十一世紀に生きるうら若い乙女は、『ロックを感じる』なんて言わないもんだ」

「ロックが時代遅れなら、『うら若い乙女』なんてとっくの昔に死語だよ。とにかく、早めにバイト切り上げて、ちゃんと時間通りに来てね」

「わかってるよ。これを届ければ今日の仕事は終わりだから」

 そう言って、修一はマーチの扉を軽く叩いた。三鷹のレンタカー店でアルバイトをしている修一の今日の仕事とは、ある客が高田馬場で借り、三鷹で乗り捨てたレンタカーを高田馬場まで戻すことだった。


「どうして、レンタカーのバイトなんて始めたの?」と香夏子がおもむろに尋ねる。

「どうしてって、運転するのが好きだし、それにレンタカーって、ある人が乗った次の日には別の人が乗るわけだろう?」

「まぁ、そうでしょうね」

「ある人はこの車で彼女と昼下がりの海辺をドライブするかもしれないし、ほかの人は久しぶりに家族に会うために夜の高速を走るかもしれない。この車をバトン代わりに、見ず知らずの人たちが人生をリレーするんだよ。それって、何かいいじゃないか」

「ある人はすごく辛いことがあって、絶望しながらその車を運転するかもね」

「物事を前向きに捉えることって、大切だと思う」

「とにかく、変なこだわりなんか捨てて、カーナビ使ってよね」

 修一はどきりとして思わず辺りを見回したが、もちろん香夏子の姿は見当たらない。

「わかってるって。バイトが終わったら、また連絡する」と言って、通話を終えた。


 再び地図と睨み合い、この先の道順を指でなぞりながら、同時に記憶する。四十分もあれば、目的地である高田馬場駅前の営業所にはたどり着けるはずだった。そこから山手線で二駅、約五分で新宿だから、五時半の待ち合わせには十分間に合うだろう、と修一は踏む。地図をたたみ、タイミングを見計らって流れに復帰した。


 次に見えた交差点を左に曲がろうと、ウィンカーをあげた。二本の道路は十字ではなく縦長のX字に交わっているので、鋭角に曲がるために十分にスピードを落としてから、大きくハンドルを回す。我ながら惚れ惚れするハンドル捌き、と修一は胸のうちで叫ぶ。


 そのとき、すぐ左の歩道から人がふらふらと近づいてくるのが見えた。修一は反射的にハンドルを戻してそれを避け、クラクションを鳴らす。目の端に、倒れている自転車が見えた。どうやら自転車同士が接触した弾みで、乗っていた人が弾き飛ばされたらしい。「危ない」という言葉が修一の口を突く。サイドミラーで確認すると、弾き飛ばされた若い男性は何とか車道に落ちる手前で踏みとどまったらしく、後続の車に轢かれることもなかった。修一は胸をなでおろした。


 車内に起きた異変に気がついたのは、その後何度目かの赤信号で停まったときだった。強めにブレーキを踏んだ拍子に、後部座席から何かが落ちたような音がした。後ろには物を置いていなかったので、修一は不思議に思いながら振り返った。シートの下、人が座ったときの足元の部分に、ブルーの袋が落ちている。レンタルショップのバッグに似ているな、と思いながら拾い上げると、果たしてそれはそのとおりのものだった。中身を確認すると、CDのケースが入っている。

「シルバー・レイン」

 読み上げながら、修一は、まさかと思った。修一自身は気づいていないが、実際に「まさか」と口にしていた。修一はまず混乱し、それから、今このタイミングで狭いマーチの車内にこのCDが忽然と現れたことに不気味さを覚えた。前のお客さんの忘れ物だろうか、と修一は考えるが、出発前に一度車内の清掃をしているので、その可能性はほとんどゼロに近かった。前方の車が動いていることに気づいて、慌てて発進する。どういうことだろう、と考える修一の頭に、先程の香夏子の言葉がよみがえる。

「今からでも遅くないから聴きなって」


 修一は前方に気を配りながら、CDプレイヤーにケースから取り出したCDを差し込んだ。ペットが飼い主の手から餌を食べるみたいに、マーチがCDを飲み込む。少しの間があって、歪んだギターの音が聞こえ始める。


 ロックを感じられればいいけど、と修一は思う。

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