Round 1

1. 磯村直樹 2:45 p.m.

 磯村直樹は、電子レンジのボタンを押した。低い唸り声を上げながら、大きな皿が億劫そうに回転を始める。まるで遊園地のメリーゴーラウンドのようにゆっくりと回転する遅めの昼食を前に、直樹のお腹が音を立てた。


 温まったピラフを頬張りながらテレビのチャンネルを回している最中に、直樹はあることに気づき、「あ」と声を上げた。今日が返却期日のレンタルCDがあったことを思い出したのだ。延滞の常習犯である直樹にしてみれば、たとえ最後のタイミングだろうと期日内に思い出したのは大きな進歩だった。人間は進歩する生き物だ、と直樹は満足そうにピラフを噛み締める。


 直樹がそれを思い出したのは、ちょうどそのバンドのフロントマンがテレビに出ていたからだった。女性のレポーターが綺麗な英語で彼にインタヴューをしている。あとで返しに行こう、と直樹はすでに半分以上終わってしまった今日の予定を立てる。


 四時過ぎに家を出た。台風一過となった昨日に比べれば、随分と過ごしやすい気温だ。自転車の上で感じる風も心地良い。自然と鼻歌が漏れた。

 この角を曲がれば目的のレンタルショップというところだった。ハンドルを切った直樹の前に、突然自転車が現れた。こんもりとした広葉樹が目隠しとなったために、直樹はその存在に気づくのが遅れ、避ける間もなく自転車の側面に衝突された。直樹は転びこそしなかったものの、バランスを崩し、自転車から離れてあと一歩で車道というところまでよろめき出た。ガシャーン、と派手な音を立てて自転車が倒れる。直樹のすぐ脇を、マーチがクラクションを鳴らしながら通り過ぎる。

 

 相手方の自転車に乗っていたのは、前髪を若紫色に染めた、おそらくは八十過ぎの老婆だった。真正面から突っ込んだのが幸いしたのか、彼女はバランスを崩すこともなく、平然と自転車に跨っていた。

「あら、危ないねぇ」と老婆はテレビで事故のニュースを見たみたいに、どこか暢気な調子で言った。事故の当事者が自分だという焦りや動揺は微塵も感じられない。

「すみません」

 とりあえず、ここは謝るのが筋だろう、と思い、直樹は頭を下げた。

「本当に、気をつけないといけないねぇ」

 老婆は直樹の顔を見ることもなく、直樹を叱っているのか、それとも自分に言い聞かせているのかもはっきりとしない調子で言うと、何事もなかったかのように自転車を漕ぎ出し、去って行った。直樹は、ぶつかっておいて謝罪もしないことに腹が立つよりも、老婆のあっけらかんとした態度に感心していた。

「只者じゃないな」


 自転車を持ち上げた直樹はあることに気がついた。手に持っていたはずのCDがない。直樹は周囲の地面に目を走らせた。衝突の拍子に手から離れたに違いなかったが、およそそれが落ちていそうな範囲には見当たらなかった。自転車を脇に停め、本腰を入れて捜索する。住宅の塀の中や排水溝の中、そのほか、探している本人ですらまさかと思うような場所まで調べたが、まるで見つからない。

「参ったな」

 せっかく今回は延滞金を払わずに済みそうだったのに、これじゃあ、延滞金どころか弁償だよ、と直樹は肩を落とす。そのとき、ポケットの中で携帯が震えた。直樹は発信者を確認してから、耳に当てる。


「よぉ、今何してる?」

 大学で同じクラスの友人が唐突に尋ねてきた。山瀬勘太郎というその男は、古風な名前に似合わず、いつでも胸を張って「最近の若者」を代表できるような現代的な容姿をしていた。

「シルバー・レインを探してる」

「え、何、お前、九段下にいるの?」

「いないよ」

「じゃあ、どこ探してるんだ?」

「レンタルショップの近くの交差点」

 接触事故現場だ。

「あぁ、CDのことか」

 レンタルショップから連想したのか、勘太郎は直樹の状況を理解していないにもかかわらず、正解を導き出した。「それよりさ、今晩そいつらのライヴに行かないか?」

「そいつらって、シルバー・レインの?」

「いかにも」

 思えば、直樹がシルバー・レインのCDを借りたそもそものきっかけは、勘太郎に薦められたからだった。

「興味なし?」

「ないことはないけど」

 こんな状況じゃなければもう少しあった、と直樹は心の中で思った。

「じゃあ、行くか?」

「チケットがないよ」と直樹はもっともなことを口にする。

「俺が持ってる。二枚」

「二枚? あぁ、なるほど」

「何が、なるほどだよ?」

 直樹が状況を察知したことを察知した勘太郎は、若干声を強張らせた。

「どうせ、ふられたんだろ?」

 直樹の耳に、勘太郎が、ちっ、と舌打ちするのが届いた。

「いかにも」

 勘太郎はその古風な名前に似合わず、そしてその現代的な容姿に違わず、女性に対して現代的な考えを持っていた。つまり、古風に言えば色事を好み、現代的に言えばチャラかった。

「だから、可愛そうな俺を慰めると思ってさ」

「残念ながら、お前を慰めるつもりはないよ」

「じゃあ、惨めな俺を笑いに来いよ」

 うぅん、と直樹は少し悩む素振りを見せてから、「それなら、行く」と言った。

「とんだ友達だ」と勘太郎は嘆いた。

「で、何時にどこに行けばいい?」

「そうだな。六時開場の、六時半開演だから、五時半に新宿駅の南口でどうだ?」

「いいよ」と直樹は、特に意味もなく腕時計を見ながら答える。

「あ、でも五時半ちょうどに着こうなんて思わないで、むしろ今すぐ出発しろよ」

「どうして?」

「お前のことだ。どうせ遅れるだろ?」

「いかにも」

 電話を切ると、直樹はCDのことはとりあえず諦めて帰宅することにした。


 CDがないのに延滞金のことを気にするのはナンセンスだ、というのが、そのとき直樹が至った結論だった。

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