3枚目:北野の坂道を駆けて-3
「朝食、できてますよ」
ちょうど一分後、汐緯さんはタオルを肩にかけたまま姿を見せた。
僕はといえば、調理中放置状態だったキッチンをアディショナルタイム的な六十秒でなんとか隠しきったところで。
「いただきます」
最初は珈琲だった。
一口飲んで、質問が飛んできた。
「グァテマラ・アンティグア?」
「え、あ、はい」
「見よう見まねにしては上出来」
「ありがとう、ございます」
「このサラダは?」
「あ、ドレッシングがなさそうだったので、ホットサラダにしました。基本的にベーコンとチーズの塩気で食べていただく感じの」
「なるほど」
姉が野菜好きなので、こういうサラダはよく出る。
即席ドレッシングのレパートリーもあるにはあるけど、ごまやら酢やら探すものが多くて避けた。
サラダを数口食べた後はオムレツだ。
それは一応得意料理なので、自信がある。
卵の濃度を下げないようにあえてなにも入れず、塩だけ馴染ませて一気に焼く。
妹が大好きなメニュー。
最後にバゲットに手を伸ばし。そこで再度質問。
「バターとかオイルは?」
内心しまったと思った。が、立て直す。
これはいける。
「美味しいバゲットはなにもつけないのがセオリーです」
「……よう分かってるやん」
このバゲットは、ハード系のパンを得意とする店の袋に入っていた。
ならば、その店の味を信用してやらなければ失礼にあたる。
……そういう方向で合っていたらしい。よかった。
それきり特に何も聞かれなくなったので、僕は片付けを続行した。
洗い物が終わった頃には汐緯さんは完食し、正面の椅子に僕を座らせた。
「旭、言葉は正しく使いなさい」
「……へ?」
「このレベルは、並よりできるという程度ではない。かなりできる、という」
「はあ」
「明日は和食が食べたい。米は私が炊いておくから、おいしい献立を期待している」
どうやら明日もここに来ていいらしい。
場所はKIITOのオフィスに移り、汐緯さんは先ほど撮影した写真をパソコンに転送する。
その様子を横目に、僕は指示された作業に苦戦していた。
山積みの紙焼写真を一枚ずつ確認し、その裏に書かれた情報を頼りに撮影地点を地図上へプロットしていく。
9区分の住宅地図に囲まれて、しかも写真は何百枚とあるし、裏の情報なんて手書きでほとんど何書いてるか分かんないし、読めても知らない言葉だし。
なんだこの苦行は。
少し考えても分からないものは潔く脇に避けて、どんどん次へ進んでいく。
そもそもオフィスに移動するまでの間にも色々とよく分からない指示が飛んできた。
大きな日傘を持たされ、汐緯さんに陽が当たらないように気を遣いながらの移動。
ただし横断歩道を渡るときはそれをひったくられて先に渡って待っていろと言われたので、不思議に思いながらも言われたとおりにした。
最短に見えるルートをなぜか避けてわざわざ遠回りになる道を選ぶから何かと思えば、途中のコンビニ前で急に立ち止まり、自分は外で待っているから一人でなにか買ってこいと言うし。
悩んだ末に買ってきた新製品のスナック菓子は、汐緯さんのデスクに置かれたままだ。
正直なところ、僕が汐緯さんから具体的に求められている内容はさっぱり分からない。
そのせいで、次から次に言われることをただひたすらぶっつけでこなしていくゲームのような感覚が湧いてきていた。
「旭」
「はいっ」
「何枚できた?」
「5枚です……」
その10倍くらいを横に置いているので、効率は非常に悪い。
「10枚できたらこっちにおいで。次のこと頼むから」
そう言いながらも、汐緯さんはヘッドセットを装着し始めた。
どうやら誰かと通話でも始める気らしい。
こういうのは聞いててもいいのか?
あんまりよくない気がする。まだお試し期間だし。
でも聞く気はなくともこの距離じゃ聞こえちゃうんだけどどうしようか、なんてことを咄嗟に考えたものの間に合わず、汐緯さんの声が画面の向こうの誰かとの会話を始める。
その言葉は日本語ではなく、扱い慣れた様子の英語だった。
日本語じゃなければ内容は分からないとでも思っているのかもしれないけれど、僕は外大生なのであって、日本人が喋る英語なんて一番聞き取りやすいやつだ。
そのへんのこと、汐緯さんだって当然察しがつくだろうに。
とはいえ、汐緯さんがヘッドギアをしているおかげで相手の声は聞こえないから、話の流れは詳細までは分からない。それならいいかと、無理に聞かないようにする努力は諦めて作業に戻ったところで、急に自分の名前が出た。
「うん? ああ……My new assistant,Asahi」
「はいっ」
反射で返事をしてしまったけど、どう考えても呼ばれたわけではない。
多分、相手がこちらに汐緯さん以外の気配を感じて指摘したのだろう。
無駄に大きな声で返事をしてしまったので向こうにも聞こえたかもしれない。
やってしまったと思いつつ顔を上げると、汐緯さんが僕を見て笑った。
ものすごく恥ずかしいけど、向こうさんの機嫌を損ねてはいないと思われることだけが救いだった。セーフ。
ただ、汐緯さんはなにやらスマートフォンで文字を打っているようだ。
尻のポケットで震えたスマホを見れば、目の前のボスからの厳しいお言葉。
『手が止まってる』
いや、あの
それは仕方なくないですか?
僕の愛する神戸を見てくれ 姫神 雛稀 @Hmgm
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