3枚目:北野の坂道を駆けて-2
ゆるゆると流すようなペースで三宮まで戻ってきた後、僕はちょっと自信をなくしていた。
完全にこの人のリズムに持っていかれたのと、それを隠すこともできなかったことと。あんなに余裕ぶっておいて、このざまだ。
三宮は通勤時間帯で走るのは困難な人口密度になっていて、僕らはクールダウンも兼ねて歩いていた。
結構汗をかいているし、上がってきた気温と日差しがこたえる。
汐緯さんは特に疲れた様子もなく、なんなら途中で仕事の電話を取り始めた。
「明日ですか? えらい急ですねえ。いやいや、多分行けると思いますけど……えっ、あ、そっち? いや、てっきり撮る方と思って聞いてて。あー、すみません。そっちやったら全然ええですよ。ああ、撮る方は機材繰りが大変なんですよ。そうそう」
どうやら依頼の電話らしい。
それにしても明日とは本当に急な話だ。
明日はそれの同行をすることになるんだろうか。
もちろん、僕が明日も来ていいと言われたらの話。
正直、あれだけ体力アピールをしておいてこのざまはないと思うんだ。
大丈夫だと虚勢を張ってみせるチャンスすら与えられず、一方的に判断されて、手加減された。
立て続けに何本か電話をした汐緯さんは、スタート地点だった市役所前を通り過ぎ、東遊園地も過ぎたあたりで右へ曲がった。
てっきりこのままKIITOのオフィスへ向かうものだと思っていたので意外に感じたが、電話中に聞くわけにもいかず黙ってついていく。
ああ、脚がだるい。鍛錬不足だ。
なんとか歩き続けて数分。
「ああごめんね、説明もせんと。とりあえず入って」
高層マンションのエントランスに辿り着いていた。
残念ながら、神戸市は全体的に人口減少傾向にある。
少し前に福岡市に抜かされて以来、いつ川崎に追いつかれるかという状況で、姉も毎年これを打開する施策を捻り出そうと唸っている。
そんな中、中央区だけは人口増加を続けていて、なんなら転入届を扱う中央区役所市民課に来る人が多すぎて捌ききれずに閉庁時間が延びたなんてこともあったほど。
その要因がこうした高層マンションだ。
中央区のそこかしこにこういうのがぼこぼこ建っているので、一気にどかっと人口が増えたりするわけ。
僕の出身中学もクラス数が増えたりしているらしいし、まあ都会に人が集まってしまうのは仕方がないのかなあとも思う。
……なんてことを冷静に考えられるようになったのは、シャワーを浴びて脚の疲労を散らした後になってからだった。
凪汐緯は、三宮の高層マンションのかなり上の方の階に住んでいる。らしい。
わけの分からないまま案内されたそこはうちより数段広く、海がよく見える最高の眺望とセンスに溢れたインテリアの芸術点が高すぎてしんどくなるくらいのいい家だった。
タオルと着替えらしきものを渡されて風呂場へ放り入れられ、動揺しながらもとりあえずシャワーを浴びろということらしいので従い、そしてようやく落ち着いたのが今。
まだぼんやりしたまま湯を止めて、水滴をある程度払ってから風呂場の戸を開ける。
ふわふわなバスタオルで身体を拭きながら、今度はこの状況に動揺がせり上がってくる。
いやだって、いきなり人の家のシャワー借りるって、何。
そんなに繊細な方ではないけど、展開が早くて怖い。
まだこれ朝でよかったよね、夜とかだったらもう居たたまれなくて辛すぎる。
渡された着替えにはさすがに下着まではなかったので、それはさっきのをそのまま着て、改めて借りた……つもりはないけど貸し出されたものを見る。
「2L……」
メンズの2Lは僕には大きい。メンズならS寄りのM、レディスならMかL。
まさかこれが汐緯さん自身のものとは思えない。
……彼氏?
自分で推測しておきながら、その結論に思わず膝からへたり込んだ。
彼氏の服貸し出される方の気持ちも考えてほしい。
むしろ下着まで出てこなくて本当によかったです。
ここで僕は考えた。
貸し出されたものを着ないのは失礼かとか、さっきまでのTシャツはもう汗でびちょびちょだしなとか、そもそも2L着れるのかとか。
結局、着ることにした。2Lのメンズを。
風呂場を出てリビングの方へ向かうと、汐緯さんはパソコンに向かって作業をしていた。服を着替えたらしく、涼しげなワンピースを着ている。
「……服、ありがとうございます」
「いえいえ。ああ、やっぱちょっと大きかったか」
「……少しだけ」
「まあ、許容範囲やね」
「……ですかね」
だぼだぼにも限度があると思うけど、汐緯さんがいいならもうなんでもいい。
ずって仕方がない半パンのズボンをどうにか紐で止めて、最悪の事態だけは防いでいるような状態だ。
「さてと。旭、君の料理スキルはいかほどかね?」
急に芝居がかった口調で問われたそれに、僕は少しだけ悩んで答えた。
「並よりはできると思います。飲食のバイトでもたまにキッチン入ってますし」
「なるほど。じゃあこれ、作っておいてくれたまえ」
渡されたのは、小さく折りたたまれた紙片。
端のところがマスキングテープで留められていて、それを取らないと中が読めない。
「私はこれから十五分でシャワーを浴びる。その後十分かけて髪を乾かす。出てきたらすぐに朝食が食べたい。頼んだよ、旭?」
タイムリミットは二五分。
汐緯さんが風呂場の方へ消えたと同時に、僕は紙片を開いた。
★家にあるものは何を使ってもOK
・おいしいサラダ
・おいしいオムレツ
・おいしい珈琲
・おいしいパン
丸っこい字で書かれているのを見て、あの人こんな字書くんだと思ったが、今はそれどころではない。
初見のキッチン、時間制限。
さっさと取りかからないと駄目だ。
というか。
「パン?」
待て、パンなんて買ってなかったら詰みに等しい。
ひとまず手を洗って、捜索開始だ。
キッチンの見える範囲にはないようなので、手当たり次第に戸棚を開ける。
調味料、乾物、鍋、食器、カトラリー。
着々と詰みが近づいて焦る僕の視界に、リビングテーブルに置かれた紙袋が入ってきた。その隅に押されたスタンプを注視して、それが近所のベーカリーのものだと気づく。
「よかった!」
中身はバゲットで、既にカット済み。残り五分くらいのところで焼けばいいだろう。先にオーブントースターに予熱を入れておくことにする。
さて次、たしかさっき珈琲豆を見た。
調味料と乾物の間、一棚まるごと珈琲というすごい棚。
どうやら汐緯さんは珈琲にこだわりがあるらしく、少量ずつかなりの種類が仕舞われている。ここからどれを選ぶか、どうしたものか。
珈琲の知識がなさすぎて途方に暮れかけたところで、棚の側面にラミネート加工された紙が挟まっているのに気づく。
表が豆の種類ごとのチャート、裏は淹れる手順を示したもの。
「セーフ!」
朝におすすめと書いてあるグァテマラとかいうのを探してきて、裏の手順通りに進めていく。ミルってなんだ、これか? ぎこちないながらも直感に任せて豆を挽く。
湯を沸かす必要があると気づき、電気ケトルもポットも見つからないので、ガスコンロの上にあったやたらお洒落なやかん的なものに水道から水を入れた。
……いや待てよ、もしかして水にこだわる人かも?
やかんを一旦置いて、冷蔵庫、冷凍庫、野菜室と見てそれらしきものはないこと確認する。よし。
湯を沸かす間にサラダだ。
……の前にオムレツの仕込み。
これはもうプレーンなやつでいいだろう。卵を冷蔵庫から取り出し、3つ割る。細かく溶き、塩を入れてひと混ぜ。
次、サラダ。
野菜室からそれらしいものを取り出す。サニーレタス、キュウリ……待てよ、ドレッシングってあったか?
冷蔵庫を開けて、やっぱりないことを確かめ、作戦変更。
追加でほうれんそう。それとトマト。冷蔵庫からベーコン。
ベーコン以外は軽く水洗いして、葉物は手でちぎる。
ペティナイフでキュウリとトマトをダイスカット、ベーコンは短冊。
小さいフライパンを探してきてオリーブオイルを垂らす。
ベーコンを投入、ほうれんそうを投入。炒める。塩こしょうを強めに。バター。
油がはじける寸前にキュウリとトマトを投入、その間にサニーレタスを皿に盛る。
フライパンの中身を高く盛って、冷蔵庫に入っていたチーズをちょっとだけ削って完成。
残り時間十分を確認して、沸騰しているやかんを火から外す。
ダイニングテーブルにフォークを置いて、カトラリーの隅にあったランチョンマットを敷く。
アルミホイルでバゲット二欠けをくるみ、オーブントースターへ放り込む。
サラダをテーブルへ。
次が少し迷って、珈琲の抽出セッティングに手間取りそうだと判断してそちらを先に。フィルターをセットし、さっき挽いた珈琲を入れて、とにかく図示のとおりにやっていく。やかんから湯を注ぎ、無事に珈琲色の液体が出てきて一安心。
そこでカップを温めておくという注意書きを見つけ、慌てて残りの湯をカップに入れる。
残り五分。
フライパンにバターを溶かし、撥ねる寸前で卵を流し入れる。
こんなのは手癖だ。強火で一気に焦げ目をつけながら内側をかき立てたら、よっと一息に返し、皿へ。よし、いい色。そのままテーブルへ。
ちょうど温まった頃合いのバゲットを取り出して皿に乗せてテーブル。
仕上げだ。コーヒーカップの湯を捨てて、抽出された珈琲で満たし、テーブルへ。
全体のバランスを調整して、完成。
残り、一分。
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