3枚目:北野の坂道を駆けて
3枚目:北野の坂道を駆けて-1
3日間のお試しと言われたあと、僕は履歴書を書かされた。
履歴書というか、住所と連絡先くらいしか書くところのない基本情報程度のもので、写真貼付欄さえ見当たらない。
神戸市中央区山本通から始まる住所を書いたところで声をかけられた。
「そのマンション、昔から住んでんの?」
「いえ、この春からです」
「その前は?」
「花隈です」
「ずっと?」
「そうですね。一回引っ越しましたけど、花隈の中で動いただけで」
「ふぅん……」
花隈は元町駅と神戸駅の間にある。三宮も見えてるような距離。
そんなわけで、ハーバーランドから三宮あたりまでは庭みたいなものだ。
「それがどうかしたんですか」
「いや、別に?」
一通り埋めてペンを置いたところで備考欄に現在の所属を書いておくように言われたので、大学の名前と学科、回生を書き足した。
姉は僕にも自分と同じ大学に入ってほしかったようで、外大の願書を出すときも大揉めした。
六甲山の麓、冬季は路面が凍結してしまうようなあのエリアにあるK大学が姉の母校だ。
僕も別に頭が足りなかったわけではないし、センターリサーチの結果も合格圏内。
担任からも、K大にだって同じような学部はあるんだしとかなり説得されたけど、それでも僕は外大を選んだ。
理由は色々あるものの、ただの保険みたいなことだから特に誰にも言ったことはない。
「英語とか、得意なわけ?」
「まあそれなりに」
「ふぅん」
「他になにか書いておくべきことはありますか」
「いや、それだけでええよ」
書き終えた用紙が回収されると同時に、今度はなにやら細かい文字の書かれた紙が2枚差し出された。
雇用契約書と、保護者の同意書だ。
「明日までに書いてきて。お試し期間三日の条件はそこにあるとおり。合格なら契約書を更新する」
そうして渡された待遇が実働八時間、日給二万円日払い。残業分は更に上乗せ。
連絡先としてLINEを交換し、その日はそれで終わった。
そんなわけで、今僕の背中にあるボディバッグには雇用契約書と保護者の同意書が入っているわけだけど、姉に借りた”書類を折らずに曲げるファイル”、仕事してるかな大丈夫かな。
そして、保護者の同意書はまだ母のサインがもらえていない。
そもそも夜遅く朝早すぎたせいで物理的にもらえなかったのと、さすがにこんな曖昧な段階で説明する気にはなれなかったのと。
一応姉に頼んでコピーの方にサインをもらったけど、姉も僕も承知の通り、新屋茜の名前ではなにも効力がない。
とりあえずは忘れたの一点張りで通すしかないよなあ。
「旭、考え事するとか余裕やね?」
「ええまあ、このくらいは全然問題ないです」
阪急の高架下を越えると、そこからは延々と緩やかな坂道である。
ちなみに、神戸の中では緩やか、という意味であって、平野で暮らしておられる大阪人からはどこが緩やかやねんと怒られたことがある。
しかしそれでもやっぱりここはまだまだ緩やかなのであって。
「じゃあちょっとペース上げるで」
「はい」
タンと軽い足音で、少しラップが上がった。
とはいえキツいと思うほどではない。
僕だってジョグは自主的にやる方だ。慣れている。
軽く体温が上がる程度のスピードで突入しかけた山手幹線は、それを越えるための信号が点滅を始めるタイミングだった。
ちらと目配せがあって、僕らは歩道橋へ進路を取る。
加納町歩道橋。
名物とまではいかないまでも、なかなか複雑な形状で巨大な歩道橋。
あまりにも不便だし大変なものだから、三宮の再整備で改良するとか聞いたけど今どうなってるんだろう?
渡りきれば北野町のエリアだ。
異人館街で、神戸市街地の人気観光地ランキング上位にいくつも食い込むだろうエリア。
このあたりまで来ればもう振り向くだけで神戸港までの美しい景色が見られるのだけど、僕らは相変わらず北へ走る。
一瞬だけ、汐緯さんの目がこちらを窺った気がして、そこからぐんとスピードが増した。
なんだこれ。
いや、まじか、この人、早いぞ。
油断していて出遅れたのを慌てて取り戻す。
ここに来てボディバッグを持ってきたことを猛烈に後悔している。
ペースが上がるとその分身体が揺れて、鞄が身体に当たって鬱陶しい。
対する汐緯さんは身軽で、荷物は貴重品入れなのか薄いポーチを腰に巻いているのと、なにやら左の肘の上あたりに巻いたバンドだけだ。
そういえばあれ、なんだろうな。
一気に新神戸駅が見えるところまで来て、ここからどうするのかと思えばなんとそのまま駅構内を目指すらしい。
ちょうど信号に阻まれることもなく、すいすいと新神戸駅構内へ入り、そして。
出た。
待ってくれ、まさか、まさかとは思うけど。
「あの、布引って、まさか」
「
やっぱりか。
布引というのは、布引の滝に由来する地名である。
で、この布引の滝は雄滝、
滝を落ちる水がまるで布を垂れているように美しく見えるからだという風流な名前に負けず、滝を巡る遊歩道には平安時代から江戸時代に詠まれた布引の滝名歌の碑が立ち並ぶ。
走る場所ではないというか、走れる傾斜ではない。
「何度か登りましたけど、あの、まさか」
「危ないとこは歩くけど、上まで行こか」
布引まで、というのを僕はてっきり麓のあたりまでと思い込んでいた。
具体的には布引中学校のあたり。新神戸駅の東側にあるやつ。
布引の滝、それも一番奥の雄滝まで行くとなると、それはもう割と本格的な山なのだ。
歩いて散策ならどうということもない。
ただ、この人のこのペースで、このテンションで行くのはちょっと。
いやあ、正直、やってしまった。
とはいえもうやるしかないので覚悟を決める。
新神戸駅を南北にくぐり抜けると、そこはそのまま布引の滝への道になる。
雌滝への坂も既にそれなりの傾斜で、早朝のハイキングを楽しむ人を横目に駆け上がり、そしてやっと見えた優雅な水流をスルー。
ぐいと曲がって、鼓滝を目指す。
もうそこからは少しでも走れそうなところを容赦なく駆ける汐緯さんについていくのが精一杯で、夫婦滝を越えた頃には喉が張り付いて大変なことになっていた。
「もうちょいやで、旭」
元気すぎませんか、という嫌味を口にすることさえ億劫で、疲労の溜まった足を動かしながらなんとか食らいつき、やっと。
「はーい、ゴール。今日の雄滝、水量多いなあ。最近雨降ってないし、放流したんやろか?」
「さあ、どうでしょうね……」
「んー五本松まで行ってみよか」
「……はい?」
五本松というのは、五本松堰堤のことだろう。
ここから更に上流にある、布引貯水池の堰堤のことだ。
確かに道は繋がっているが、ちょっと待って欲しい。無理だ。
でもここで弱音は吐けない。
大丈夫だ、まだ行ける。行ける。
言い聞かせるように深呼吸をして、そして。
「旭」
「……はい」
「こっち向いてみ」
「なん、です……?」
近づいてきた汐緯さんの両手が僕の頬を挟み、じいと見られた。
「ん、今日はここまで。ちょっと撮ったら降りるから、しばらくそこで座っとき」
「……は?」
僕が状況を飲み込めていないうちに、汐緯さんは左の腕につけたベルトを外した。
どうやらカメラだったらしく、雄滝をあちこちから撮り始める。
いや、そうじゃなくて。
「え、あの、汐緯さん」
「なんや?」
「ここまでっていうのは、あの」
「ああ、登るのはここまでって意味。仕事は夕方までしてもらうから、よろしくね」
「え、あの」
「なんやさっきからそればっかり。自分、意外に喋るん苦手か?」
「いや、でも」
「ええの。布引なんか近場やし、いつでも撮れる」
放流撮りたいなら水道局に電話してからの方が確実やしなあと言いながら、汐緯さんはそれきりなにも答えてくれなくなった。
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