第3話 駆け落ち

 1


 バルドは呆然としていた。

 ないのである。

 かつてあった街が、道が、森の中に消えていた。


 バルドの偽物に会ったのはココチの街だった。

 この街はヤドバルギ大領主領の中で、中央やや北寄りに位置しており、まっすぐ東に向かえばボーバードに着くはずだ。

 バルドたち一行は、ココチの街を出たあと、まっすぐ南に向かった。

 今回の旅は、パタラポザと呼ばれる怪物に対面するために、バルド自身の心身を鍛え直すことがおもな目的である。

 一応の目的地はメイジアであり、リンツであり、パルザムの王都だ。

 死ぬ前にもう一度ジュールに会っておきたかった。

 またジュールの息子であるバルドラントにも会っておきたかった。

 いやいや、今ではもうバルドラントに弟か妹ができているかもしれない。

 バルドラントやその弟妹を抱き上げて祝福の言葉を与えるのは、老い先短いバルドにとり、旅をする意欲をじゅうぶんにかき立ててくれる目標となる。


 そんなわけでココチからまっすぐ南に向かったのである。

 もともとバルドはこのヤドバルギ大領主領をまともに通ったことがない。

 今までの旅では、そのずっと東側の、シェサや、霧の谷や、そしてあの滝のほとりなどを経由したのである。


 だが、そういうきつい旅は、今のバルドの体には少し無理だ。

 そこで街から街へと移動することにしたのである。

 ところが、その街がなかった。


 もともと辺境には街道などというものはない。

 隣り合った大領主領であっても、あまり人の行き来などというものはないのである。

 というよりも同じ大領主領の中であってさえ、街同士の行き来などない場合のほうが多い。

 隣り合った街同士や、何か特産物のある街同士が行き来するぐらいのものなのである。


 とはいえ、遠方の街に用事で行くものや、各地を放浪する者もあるから、それなりに他の街の噂というものは伝わるし、その気になれば街から街へと移動することもできる。


 ところが、あると聞かされていた街がない。

 それもいくつもである。

 ヤドバルギ大領主領の南半分の街が、ごっそりと消えてなくなっている。


 いや。

 かすかな痕跡はある。

 そこに街があったという証拠が、よくみれば残されている。

 では街はどうして滅び去ったのか。

 森に食われたのである。


 辺境の自然は厳しい。

 そこで村や街を作り維持するのは、自然との戦いである。

 いざ立派な街ができても、それは自然に勝利したということにはならない。

 いつ何時 木々や獣や虫たちによって、街が食い尽くされてしまわないとも限らないのである。

 油断してその戦いへの備えを怠れば、森は街を浸食する。

 もともと危うい均衡の上に成り立っていた街なのである。

 浸食が始まれば、見る見るうちに街は食い尽くされる。

 そうして滅んだ街や村を、バルドはいくつも見てきた。

 それにしても、この浸食は、かなり広い範囲に及んでいるようだ。

 もしかすると、ヤドバルギ大領主領というもの自体、もはや崩壊しているのかもしれない。

 ずっと西側のオーヴァ川沿いに大領主の領地があるから、そこまで行けば少し詳しい事情も分かるだろうが、バルドはべつにそこまでしようとは思わなかった。


 結局野営続きの旅となった。

 バルドの体はきしみ、悲鳴をあげていた。

 情けないことだが、これが今のバルドの実際のところなのだ。

 夜明けの寒さに震えて目覚めながら、バルドはため息をついた。

 体が弱れば心も弱る。

 こんな状態でパタラポザと向き合うことなどできない。


 2


 それでもバルドは必死で考え続けた。

 パタラポザに会うということ。

 それはおそらく避けられない。

 だが、会ってどうすればよいのか。

 まともに戦える相手ではない。


 物欲将軍が万全の状態で油断なく戦いを挑んできていたら、バルドには勝ちようがなかった。

 今なら分かる。

 物欲将軍は、生きることに倦み、世界を試したのだ。

 わしを滅ぼしてみよ、さもなくばわしが世界を滅ぼすぞと。

 特に二度目の戦いのときはそうだった。

 あれほどむちゃな戦い方をした理由は、ほかに考えられない。

 恐ろしい男だった。

 たいした男だった。

 だがその物欲将軍も、怪物パタラポザにはまったく対抗し得なかった。


 マヌーノの女王もそうだ。

 あのマヌーノの女王でさえパタラポザの力には抵抗できず、しもべとして使役された。

 女王が言っていたではないか。

 悪霊の王は、死なず、衰えず、強大な力を持っていると。


 そしてまた竜人たちもそうだ。

 あれほど〈あるじ〉たるパタラポザを憎みながらも、何百年にわたり仕え続けた。

 そうするほかなかったのだ。

 それほどに、パタラポザは強い。

 神々に匹敵する強さを持っているだろう。

 その意味では、やつも神の一柱と呼んでよい。


 フューザの風穴の奥の迷宮を探索した仲間たち、エングダルやイエミテは、やつとの対決のときには自分たちを呼べ、と言った。

 だがバルドにその気はなかった。

 力で対抗できるような相手ではないのだ。


 対面は避けられない。

 やつがそれを望んでいるからだ。

 その対面に、バルドの心の臓は耐えられるだろうか。

 怪物にひとにらみされただけで、この老いた体は冷たいむくろとなってしまうのではないか。


 落ち着け。

 怖れるな、バルド・ローエン。

 恐怖は目を曇らせ、手足をちぢこまらせる。


 バルドは自分にそう言い聞かせるのだが、怪物の正体がみえてくればくるほど、心の奥底に恐怖が湧いてくる。

 その恐怖を完全に抑えることはできない。

 抑えたと思ったその矢先に、また恐怖は湧いてくる。

 なんという無力感だろう。

 怪物のことを考えていると、手足を大地に投げ出して、そのまま地面に溶けて消えたいような気持ちになる。

 そんな自分を叱咤しながら、バルドは思考を続けた。


 怖れるな、バルド・ローエン。

 大きなものほど弱点も大きいのだ。

 考えろ、考えるのだ、バルド・ローエン。

 かの怪物の弱みとは何か。


 野営続きで疲れ、冷え切った体で、しかも馬に揺られながら正常な思考を保つのは、ひどく困難なことだった。

 だが、それでよい。

 それでこそよい。

 安楽な状態で策を巡らせても、安穏とした思いつきしか浮かばない。

 困難の中で苦しみながら絞り出した考えこそ、本当の策だ。

 考えろ。

 考えるのだ。


 やつは強大な力を持っている。

 その最大のものの一つが、他者の思考を読み取り、心を操って他者を支配するということだ。

 しかしその最大の武器は、わしには使えぬ。

 わしの心を〈よごして〉しまえば、わしが持つこの古代剣もまた〈よごれて〉しまうからだ。

 よごれた古代剣では、ジャン王の〈遺産〉を呼び出すことはできない。

 だからやつは、その強大な呪力をもってわしの心を支配することはしない。

 できないのだ。

 これはおそらく、確かなことだ。

 疑うな、バルド・ローエン。

 そのことは疑ってはならぬ。


 そしてまた、やつはわしを簡単に殺すこともできない。

 やつは古代剣の使い手が、自発的に自分に協力するように求めるしかない。

 わしを殺したとしても次の使い手が現れるのを待てばよいのだから、いよいよのところではやつはわしを殺すかもしれん。

 しかしやつはまずはわしを説得しようとするじゃろう。

 そこに交渉の余地がある。


 しかし交渉といっても、何を交渉すればよいのじゃ。

 やつから何を引き出せばよいのじゃ。

 また、やつに与えてよいものは何で、与えてはならぬものは何か。

 考えろ、バルド・ローエン。

 考えるのじゃ。


 いっそ、〈コーラマの憤怒の矢〉を呼び出してみようか、という衝動にバルドは駆られた。

 今が初めてではない。

 何度も何度もその誘惑はバルドを襲った。

 古代剣は、〈コーラマの憤怒の矢〉に働きかける力がある。

 その呼び声はおそろしく遠くから届くと、竜人エキドルキエも言っていたではないか。

 竜人たちは大陸中を捜索して〈コーラマの憤怒の矢〉を見つけられなかった。

 だから中継装置を使って世界の果てにまで呼びかけるしかないと思った。

 しかしそれは分からないではないか。

 案外近くに隠されているかもしれないではないか。

 この古代剣を持って呼びかければ。

 使い手であるバルドが呼びかければ。

 〈コーラマの憤怒の矢〉は応えるかもしれない。

 大陸中を歩き回りながら〈コーラマの憤怒の矢〉に呼びかけ続ければ反応が返ってくるかもしれないではないか。


 もう少しでバルドはそれを試してみるところだった。

 だがそうしようと思うたびに、竜人の族長の顔が目に浮かぶ。

 試練の洞窟を出て以来、竜人は不気味な沈黙を保っている。

 だが、本当にそうか。

 ひそかにバルドを見張っているのではないか。

 今こうしている瞬間にも。

 もしもバルドが〈コーラマの憤怒の矢〉を呼び出すことができたら、そのときただちに竜人が姿を現し、バルドの心を支配し、〈コーラマの憤怒の矢〉を手に入れるかもしれない。

 そんなことになったら、怪物パタラポザは滅ぼされるかもしれないが、人間たちには地獄が待っている。

 竜人たちの奴隷となり、使役され、引き裂かれ食われる運命が待っている。

 竜人たちにとり、パタラポザは憎むべき敵だが、人間もまた目に刺さったとげのような存在だ。

 彼らが再び大陸のあるじとなったとき、人間には絶望しかない。


 だが、それにしても。

 〈コーラマの憤怒の矢〉を呼び出して怪物パタラポザを倒せるという確証があれば、バルドはそれを試みたかもしれない。

 しかし、〈コーラマの憤怒の矢〉を呼び出したとしても、どうやって囚われの島に行けばよいのか。

 その方法がない。

 つまり、〈コーラマの憤怒の矢〉を呼び出したとしても、パタラポザを倒せないのだ。


 だめだ。

 だめだ。

 力で勝とうとする方法は、だめだ。

 第一、〈コーラマの憤怒の矢〉にしても、本当にそんなものがあるのか、それを手に入れたとして扱いきれるのか、本当のところは分からない。

 竜人の長と、そして竜人エキドルキエから聞いた知識としてしか、バルドは〈コーラマの憤怒の矢〉について知らないのだ。

 そんなあやふやなものに、人間の、大陸の未来を賭けるわけにはいかない。

 ここは浮つく心を抑え、地に足を付けた考えを持つべきだ。


 バルドは必死に考えをまとめながら、とぼとぼとユエイタンの背で揺られている。

 カーズはもちろんのこと、セトも、そんなバルドの邪魔をしないように気を付けていた。

 やがて、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。

 雨脚は次第に強くなり、三人と三頭の馬はびしょぬれになった。


〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉


 3


「あそこに館があります。

 騎士の館でしょう。

 ここらの領主ではないでしょうか。

 あそこに一夜の宿を頼みましょう」


 セトが木々の切れ間に見えた屋敷を指さして言った。

 バルドはあまり貴族の、つまり騎士の館に宿を乞うたことがない。

 ガンツがあればガンツに、なければ農民の家に宿を借りるのが好みだ。

 堅苦しいことが嫌いだからである。

 しかし半日のあいだ雨に打たれ、バルドはすっかり憔悴しようすいしていた。

 セトの言葉にも口を開いて返事はせず、ただうなずいた。


 近づいてみると、非常に古めかしくはあるが、立派な館だった。

 しかも山肌にそって屋敷は広がっており、相当な大きさである。

 セトは馬から降りて戸をたたいた。


「ごめんくだされ!

 ごめんくだされ!

 これなるはフューザリオンの騎士バルド・ローエン卿とその一行。

 雨に降られて難渋いたしております。

 一夜の宿をお貸し願えませぬか。

 ごめんくだされ!

 ごめんくだされ!」


 セトはしばらく戸をたたき続けた。

 やがて細くドアが開けられた。

 隙間から見える相手は手燭を掲げている。

 老人だ。

 しかもきちんとした侍従の服に身を包んでいる。

 この館のあるじは思ったより身分のある人物のようだ。


「フューザリオンの騎士バルド・ローエン様とおっしゃいましたか」


「いかにも」


「パクラの騎士バルド・ローエン様ではいらっしゃいませんか」


「わがあるじは、もとはパクラの騎士にござる。

 今は辺境の北部フューザリオンのオルガザード家の客分でいらっしゃいます」


 老いた侍従は戸の隙間からバルドの顔をのぞき見た。

 年輪を刻んだ顔は、夜の闇の中に確かにバルドの風貌を確かめたようだ。

 戸を大きく開いて侍従は言った。


「お入りくださいませ」


 4


 侍従はバルドたち三人を館に迎え入れた。

 馬のくつわは小姓が受け取った。

 厩に入れてくれるという。

 ありがたいことだ。

 マントや帽子などを預かると、侍従は三人を二階に案内した。


 ありがたいことに、すぐに湯が運ばれてきた。

 辺境の旅では、こういうところがありがたい。

 薪にする木に不自由しないため、湯がふんだんに使えることが多いのだ。

 もちろんそれには人手が必要であるから、こうした不意の客にただちにこうしたもてなしができるというのは、使用人たちのしつけが行き届いていることを示している。

 館のぬしは、クルト・アレンダスという騎士だった。

 そのアレンダス卿が、


「バルド・ローエン殿といえば、パクラのローエン卿か。

 そうであるなら、ただちにお部屋にご案内せよ」


 と侍従に命じたという。

 そのあるじの声に侍従は敬意と好意を感じたのだろう。

 バルドたちへの扱いには丁寧さと暖かみがあった。

 着替えを与えられてさっぱりしたバルドたちは、食堂に通され、ワインと煮込み料理の供応にあずかったのである。


「主人はもう就寝のしたくをしておりますれば、今夜はこのまま失礼し、また明日ごあいさつさせていただきたい、と申しております」


 むろんそれは、疲れているであろうバルドたちに余計な気遣いをさせないためである。

 その証拠に、この屋敷はずいぶん大きく、大勢の人間が住んでいると思われるのに、バルドたちの前に出て来たのは身分の低い者たちばかりであった。


 ベッドでの眠りは実に心地よい。

 バルドはぐっすりと眠った。


 5


 翌朝はずいぶん早く目が覚めた。

 部屋にはバルド一人である。

 三人にはそれぞれ一部屋ずつが与えられたのである。

 セトは軽装であるのに、騎士補任間近の従卒であると見抜いたようだ。

 もっとも三人とも馬に乗っており、セトの乗る馬もなかなかに立派な馬なのであるから、目端の利く者なら、ただの従者ではないと見抜くだろう。


 枕元には水差しが置いてある。

 乾いた喉をうるおすと、バルドはもう一度寝床に戻り、考え事をした。

 頭はすっきりとさえ渡り、思考は明敏さを取り戻している。


 難しく考えることはないのだ。

 勝てない相手だということは、初めからはっきりしているのだから。

 ただし向こうはこちらを直ちには殺そうとしない。

 そこにつけ込む隙がある。


 こちらの願いは何か。

 それは、真実を知る、ということである。

 怪物の正体が知りたい。

 怪物の狙いが知りたい。

 怪物の強みと弱みが知りたい。

 遺産の正体が知りたい。

 それを手に入れて怪物が何をしようとしているのかを知りたい。


 しかし、相手の欲しがっているものは絶対に渡してはならない。

 ということは、こちらは死ぬことになる。

 死んでかまわない。

 生きてやり抜かねばならぬことなどないのだから。

 死を選べる、ということこそが、こちらの最大の強みなのだ。


 問題は、そのあとだ。

 せっかく知った事柄を、どう残すか。

 それが問題だ。

 その知識がのちの時代の者たちの導きの光となる。


 そのためには、パタラポザとの対面の際、誰かを同席させる必要がある。

 問題は、パタラポザとの対面が終わり、バルドが死んだあと、その同席者がどうすれば無事に逃げられるかである。

 秘密を知った者を、パタラポザはみすみす見逃しはしないだろう。

 それでもなお逃げられるような者がいるだろうか。


 その先は、すぐには思いつかなかった。

 けれども、バルドはおのれの心身が充実してきているのを感じていた。

 旅に出て体をいじめたかいがあったというべきだろう。

 あせることはない。

 ゆっくりと考えを煮詰めてゆけばよいのだ。


 6


 朝食は各自の部屋で供された。

 セトは早々と自分の食事を済ませ、バルドの部屋にやってきて世話を焼いた。

 当主から伝言があり、もう一晩泊まられよ、とのことだった。

 夕食の席で主だった者があいさつしたいという。

 バルドは承諾した。


 晩餐の席に着いた屋敷側の人間は、当主のクルト・アレンダス卿のほか三名だった。

 一人はクルトの奥方であるスラーサイエナである。

 夫のクルトは優に七十は過ぎた老齢であるのに、スラーサイエナはまだ二十歳をいくらも越えていない。

 派手な顔立ちの美人である。

 目も口も大きく、顎も筋張ってきりりと引き締まった顔立ちだ。

 そこにいるだけで、その周りが華やかな光彩を放つ女性によしようだ。

 不思議なことに、控えめに目線を送っただけで、その目の動きや瞳がどこをみつめているかが分かる。

 ほんのわずかに口元を持ち上げただけで、ああ笑っているのだなと伝わってくる。

 その目も口も実に印象的で、少しの変化もこちらの目線を引きつける。

 格別に扇情的なしぐさをするわけでもないのに、奥方の放つ色気にくらくらする思いがする。

 そういう派手な美女なのだが、料理の中の主なものは、なんと奥方みずからの手によるものだという。


「妻は料理をするのが好きでしてな。

 いやいや、お口にあいますかどうか」


 その謙遜はまったく不必要だった。

 奥方が手がけたという料理は、どれも素晴らしくうまい。

 しかも。

 何といえばいいのだろう。

 温かくて柔らかいのだ。


 例えばこの山鳥と山芋の煮込み。

 しっかりと煮込まれていて柔らかい。

 きちんと味がついているのだが、押しつけがましさはない。

 とげとげしさもない。

 ひどくふんわりとして、体に優しい感じがする。

 カムラーの作る料理のような際だった手際というのではないが、実によい味だ。

 思いやりのこもった料理なのである。

 家庭的といってよいだろう。

 奥方の派手な顔立ちと、この料理との落差はどうしたことだろう。


 いや、そうではない、とバルドは思った。

 この料理に奥方の心根は表れている。

 一見派手な性格にみえるが、顔の作りというものは致し方ないものだ。

 この料理に感じられる優しさと思いやりこそが、この奥方の本当の性格を表している。

 奥方の外見とこの料理の味とどちらを信じるかといえば、それは料理の味でなくてはならない。

 外見にまどわされてはならない。

 この奥方は、実は非常に家庭的でやさしくつつましやかな気性の持ち主であるにちがいないのだ。


 陪席したあとの二人は、アレンダス家に仕える騎士たちである。

 ダンガ・ウーズという騎士は大柄でいかにも武張った雰囲気がある。

 しかし武威はなかなかのものである。

 シェーマ・イダールという騎士はほっそりしていて所作は上品である。

 この男もなかなかに使うとみたが、ダンガには及ばないように思えた。


 驚いたことに、こんな遠方に住んでいながら、クルトはパクラ時代のバルドについて噂を聞いたことがあるという。

 この夜の食事はなかなかに愉快なものだった。

 クルトの計らいでセトも同席を許されたのだが、旅のことなどをおもしろおかしく話し、食卓をにぎやかした。


 それはよいのだが、バルドはひとつ気になったことがある。

 騎士ダンガが奥方を見る目つきである。

 それは主君の妻を見るような目つきではなかった。

 肉食の獣が獲物を見るような熱がこもっていたように、バルドにはみえたのである。


 7


 翌朝、空はきれいに晴れ上がった。

 バルドは館を辞して旅に戻ろうとしたのだが、そうはいかなかった。

 あるじのクルト・アレンダス卿が体調を崩して寝込んだというのだ。

 これだけ世話になっておいて礼もいわずに館を去るのは気が引けた。

 また、バルドたちの衣服は使用人たちに預けたままなのだが、この状況で返してくれと言うのもはばかられたのである。

 となるとバルドたちは手持ちぶさたなのだが、騎士ダンガが訪ねて来た。


「ローエン卿。

 これから兵士たちの訓練なのですがな。

 よかったらごらんになりませんか」


 不敵な笑いを見せながら騎士ダンガは言った。

 ちょうど退屈していたことでもあり、またせっかくの申し出を断る理由も特にないので、バルドたちは騎士ダンガの案内に従って、訓練場に向かった。

 なかなか立派な訓練場だ。

 二十人近い兵士が訓練を行っている。

 騎士ダンガは厳しく稽古をつけた。

 実践的な剣術である。

 このダンガという男はそれなりの場数を踏んでいるようだ。


「どうですかな、ローエン卿。

 ごらんになるばかりでは、つまらんでしょう。

 ひとつご一緒にどうですか」


 騎士ダンガの申し出を受けてバルドは、セトに合図をした。

 セトにはよい経験になるだろう。

 バルドは、この若者は間もなく騎士叙任を受ける予定です、どうか一手教えてやってくだされ、と騎士ダンガに言った。

 騎士ダンガはカーズのほうを見て、少し残念そうな表情を見せた。

 やはりカーズはただ者でないと感じ取っていたのだろう。

 たぶんカーズの手並み見たさに練習場に誘ったに違いない。

 しかし表情を繕ってセトの相手を指名した。


「コルゲン。

 お前セト殿の胸をお借りしろ。

 まだお若いかただがもうすぐ騎士叙任を受けられるかただ。

 遠慮せず打ち込むのだぞ」


 ふらりと現れたバルドたちに、対抗意識のようなものでも燃やしているのだろうか。

 この地の兵士を侮らせはしないぞ、という気概が見え隠れしている。

 そういった誇りのあり方を、バルドは嫌いではない。

 騎士や兵士というのは、少々鼻っ柱が強いぐらいでちょうどよいのだ。

 コルゲンと呼ばれた兵士は二十代中盤ぐらいだろうか。

 さきほど練習中によい動きをしていたのが印象に残っている。


 コルゲンとセトは礼をし合って剣を構えた。

 練習とはいいながら試合形式だ。

 バルドも、セトの剣がどの程度通じるか興味があった。


 最初は二人とも様子を探るような闘いぶりだったが、セトが一向に攻める気配を見せないので、コルゲンがしびれを切らした。

 そしてコルゲンが深く打ち込んできたとき、セトはその攻撃をいなしてコルゲンの胸に軽い打撃を打ち込んだ。


「一本!

 セト殿」


 審判役の年配の兵士が判定を下した。

 二本目も同じだった。

 セトはまったく自分からは攻撃しようとしない。

 コルゲンはいら立ちを押さえきれず、深く踏みこんでセトの首筋を打ち据えようとした。

 セトは実にうまいタイミングで剣を合わせ、相手の力を横に逃がしながらその懐に飛び込んだ。

 セトの剣はコルゲンの顔面に突き付けられてぴたりと止まった。


「一本!

 勝負あり。

 セト殿!」


 どうやら三本勝負のようで、セトが二本取ったところで勝利が宣言された。


「おおっ。

 お年に似合わず落ち着いた戦い方をされますな。

 これは手ごわい。

 コルゲンではセト殿も物足りなかったでしょう。

 失礼なことをいたしました。

 ラークト!

 お前セト殿のお相手をさせてもらえ。

 セト殿。

 この者ならセト殿にもよい練習をしていただけるでしょう」


 こうしてセトとラークトの試合になった。

 ラークトは三十歳前後の大柄な男で、いかにも歴戦の兵士といった風貌の男だ。

 この男に対してもセトは待機戦法に出たが、相手は容易に釣り出されるような兵士ではない。

 じりじりと間合いを詰め、探るような剣を放ってきた。

 セトは沈着な足運びで相手の動きに合わせ、剣に剣を合わせて斜めにはじき飛ばした。

 そうした攻防が何度か続いたあと、突如ラークトは正面から素早い振り下ろしの斬撃を放ってきた。

 身長や体重や膂力ではラークトが勝っている。

 かさにかかった攻撃で倒せる相手だと、セトの実力を見極めたのだ。

 だからセトが正面からの打ち下ろしでまともに剣を合わせて斬撃を防いだとき、ラークトの表情に驚きが浮かんだ。

 そしてそのままセトの剣はラークトの剣を斜めにはじき飛ばし、ラークトの頭を打ち据えた。

 革の兜をかぶってはいたが、この一撃はかなりこたえたようで、ラークトは膝を突いた。


「一本!

 勝負あり。

 セト殿」


 審判は、この一撃でセトの勝ちだと判定した。

 ラークトはしばらく首を振っていたが、やがて立ち上がると、セトに一礼して下がった。


「これは驚いた。

 剛剣も使われるのですな。

 では次は、ドライゼンがお相手しましょう。

 ドライゼン!」


 壁際から一人の兵士がやって来た。

 中肉中背でほとんどセトと体の大きさは変わらない。

 だが兵士たちの中では際だった武威の持ち主である。

 先ほどの練習のときには、指導する側に回っていた。

 もしかするとこの兵士団の中で、騎士ダンガの腹心といってよい立場の男かもしれない。


 剣を向け合って試合が始まったとき、これは物が違うわい、とバルドは思った。

 剣の技も場数も、そして心の置き方も、まるでセトとは比較にならない。

 むしろこれだけ実力の差があれば、セトにけがはさせずに済ませてくれそうなので安心した。


 ところが驚いたことに、セトはなかなか善戦した。

 これまでの二戦とは打って変わって、めまぐるしい足運びで左右に位置を変えながら、ドライゼンの隙をうかがった。

 ドライゼンの攻撃が飛んでくると、それを完全にはかわせないのだが、セトもドライゼンに一撃を浴びせる。

 審判も何度か判定をしかけてはやめて、試合を続行させている。

 ダメージはセトのほうが大きいのが明らかなのだが、セトは諦めようとせずドライゼンに食らいついていった。

 しかし脇腹に痛烈な一撃を受けたところで、


「参りました!」


 とセトが声を発した。

 それを受けて審判もドライゼンの勝利を宣言した。

 騎士ダンガはと見ると、驚きの目でセトを見ていた。


「いやいや。

 これは驚いた。

 セト殿。

 貴殿はたいしたものだ。

 ううむ。

 許されよ。

 実のところ体格がそれほどではないし、表情もおとなしそうなので侮りがあった。

 しかし貴殿は豹の子だったのだな。

 いや、よいものを見せていただいた。

 その闘志たるや、実によし!」


 騎士ダンガはセトを大いにたたえた。

 その表情は心からセトの奮闘に感心しているようだ。

 武張った騎士だが、根はよい男のようだ。

 後に尾を引くようなことにならず、バルドもほっとした。


 それにしても。

 セトがこれほどやるとは。

 実のところ、普段クインタやタランカの稽古ぶりを見ていると、セトの弱さが目につく。

 しかし考えてみれば、クインタやタランカは別格なのだ。

 外に出せばセトも手練れといえる腕前なのだ。

 バルドはうれしくなった。

 カーズをふと見ると、相変わらず無表情だ。

 うれしいくせに、とバルドはカーズに皮肉げな笑いを向けた。


 騎士ダンガは兵士たちの訓練をもう少し続けるというので、バルドたちは訓練所を出た。


 8


 バルドたちは厩で馬たちの様子をみた。

 そのあと館に帰ろうとして、走り込んで来た二人と行き会った。

 騎士シェーマと奥方のスラーサイエナである。

 騎士シェーマは奥方の手を握っている。

 そして二人とも旅装であり、奥方はフードを深くかぶっている。


 よほど慌てていたのだろう。

 騎士シェーマはバルドたちと出くわし、目を大きく見開いて驚いている。

 しかし言い逃れのできない状況である。

 騎士シェーマは切迫した調子でバルドに言った。


「恋の逃避行にござる。

 お見逃しあられたい!」


 そのとき。

 そのときバルドの心の中で何が起きたかは、言葉では説明できない。

 バルド自身、自分の心がそのように動いたことに驚いた。

 とにかくバルドは、右手を左胸に当て、右膝を折り、禁じられた恋人たちに深く頭を下げて、こう言ったのだ。


 分かりもうした。

 不肖、お二人の恋の守護騎士となりもうす。

 お心のままに旅立たれよ。


 これには騎士シェーマとスラーサイエナもあっけにとられた。

 騎士はあるじに剣を捧げる。

 また貴婦人にも剣を捧げる。

 これらのほか、恋の成就に手を貸すため一時的に剣を捧げることがあり、それを恋の守護騎士という。

 その恋に感動し、命に替えても助けたいと思ったとき、誓いを行う。

 いったん恋の守護騎士たる誓いを立てたら、事の理非や敵対するものの多寡に関わらず、誓いの相手を守り抜かねばならない。


 しかしこの場合、バルドは奥方と騎士シェーマとの間柄については何も知らないのだ。

 しかも明らかにこれは領主たるクルト・アレンダス卿の奥方をさらってにげようとしているのであり、どう考えてもまともに応援してよい場面ではない。

 だというのに、バルドは恋の守護騎士たる誓いを立てたのである。


 やさ男の騎士シェーマは、意外に早い決断をみせ、


「ありがたくお受けもうす。

 かたじけない!」


 と言い置いて、厩の馬に奥方を乗せ、その後ろにまたがって飛び出して行った。


 9


 バルドは練習場に戻った。

 幸いなことに、この館の兵士たちはここにほとんど集まっている。

 バルドたちが入り口から入るなり、騎士ダンガが気付いた。


「おや?

 お戻りか。

 もう少し汗を流す気になられたか」


 そう話し掛けたあとで、探るような目つきになった。

 この練習場には出入り口は一つしかない。

 その出入り口をふさぐように、バルドとカーズとセトは立っている。

 そのことに不審を覚えたのだろう。

 と、練習場に向かって走り込んできた者がいる。

 小姓だ。


「たっ、大変です!

 お、奥方様が。

 奥方様が。

 騎士シェーマ・イダール様と共に逐電なされました!」


 なに! と騎士ダンガは目をむいた。

 すさまじい形相だ。

 そして練習場を飛び出そうとした。

 がその道をバルドが阻んだ。


「ローエン卿。

 そこをどけていただきたい。

 ふらち者をこらしめて、奥方様を連れ戻さねばならん」


 すまんな、ダンガ殿。

 わしは今、奥方様と騎士シェーマに、恋の守護騎士たる誓いを立てた。

 二人が安全な場所に逃げるまで、ここは通すわけにはいかん。


「なにい!

 ふざけるな。

 貴殿らに何が分かる。

 何の関係もないことではないかっ。

 そこをどけ。

 どかねば斬る!」


 カーズ・ローエンが、すっと進み出た。

 セトも、バルドをかばうような位置に進んだ。

 さすがに騎士ダンガにはカーズ・ローエンがただ者でないことが分かるのだろう。

 足を止め、ぎりぎりと歯がみをしながら、カーズをにらみつけている。

 剣に手をかけ、今にも抜きそうな気配を放っている。

 騎士ダンガの闘志が後ろの部下たちにもうつったのか、二十人ほどの兵士たちも、号令があれば突撃せんといったふぜいである。

 騎士ダンガが命令を発するか、率先して飛び出せば、彼らも全員突撃してくるだろう。

 騎士ダンガが息を吸い、今にも命令を発しようとしたとき。

 バルドは、くわっ、と目を見開いて、騎士ダンガと部下たちの足を縫い止めた。

 老いて体力は衰えたといっても、この程度の相手を威圧するのは造作もない。


 爆発しかけたところで気勢をそがれ、騎士ダンガは動くに動けなくなった。

 にらみ合いは、どれほどの時間続いたろう。

 出入り口に意外な人物が顔を出した。


「もう二人は逃げてしまったであろうなあ。

 イダール家の領地は近い。

 あの館に逃げ込まれてはしかたがないわい」


 領主のクルト・アレンダス卿は、ひどくおだやかな声でそう言った。


 9


 アレンダス卿は、騎士ダンガと兵士たちに、別命あるまで普段の通りにせよ、と言い置いて、バルドたちを歓談室にいざなった。

 そこでアレンダス卿はバルドたちに茶を勧め、事の次第を物語り始めたのだった。


 シェーマとスラーサイエナは、もともと好き合っていた。

 両家も二人のことを認めていたから、やがては結婚するはずだった。

 ところがシェーマが騎士修業のため他家に出ているあいだに、アレンダス家に騎士ダンガが来た。

 騎士ダンガの家はアレンダス家と親戚であり、近頃諸事情で騎士がいなくなってしまったアレンダス家に、練達の騎士であるダンガをよこしたのだ。

 その騎士ダンガがスラーサイエナを見初めた。

 見初めたことを周囲に相談してくれればよかったのだが、騎士ダンガはいきなりスラーサイエナの家に行き求婚した。

 家格からいって、これは断りにくい。

 騎士ダンガは今やアレンダス家の筆頭騎士なのだから、なおさらである。

 シェーマとのあいだに正式の婚約でもあれば別だったが、騎士ダンガの求婚を断る理由がない。


 そのとき領主のクルトが非常の手段に出た。

 スラーサイエナを妻に迎えたのである。

 家臣が結婚を申し込んでいる相手を横取りするのだから、これはひどいやり方だ。

 だが領主の権威をもって騎士ダンガを黙らせた。

 騎士となって領地に戻って来たシェーマはひどく驚いたが、今さらどうしようもなかった。

 だが騎士シェーマには、スラーサイエナを思いきることなどできなかった。

 スラーサイエナもそれは同じだった。

 そして今日ついに二人は手に手を取って逃げたのだ。


「実のところ、妻には迎えましたがねやに呼んだことはないのです。

 そのことが騎士シェーマに決断をさせたのかもしれませんな」


 バルドにはいささか理解できない点があった。

 騎士ダンガが求婚をしたといっても、事情を話して求婚を取り下げさせることはできたのではないか。

 同じ領主の権威に物を言わせるのなら、そのほうが妻を横取りするより、あとに残る傷が少ないのは明らかだ。

 また、このままでは騎士シェーマは主君の妻を奪った男として罪を背負って生きねばならない。

 そんな立場に騎士シェーマを追い込むというのが、この穏やかな領主の態度とそぐわない。

 騎士シェーマとスラーサイエナのことを語る目つきは至極優しいのだからなおさらだ。

 いったいこれはどういうことなのか。

 考えをまとめきれないバルドに、アレンダス卿は一枚の書類を見せた。

 それは神官がアレンダス卿の離婚を認めた書類であった。

 ただし日付けが記入されていない。


「今日の日付を書けばよいのです。

 そうすれば、騎士シェーマは主君の妻をさらったのではなくなりますな」


 バルドはいよいよわけが分からなくなった。

 こんな面倒なことをするぐらいなら、さっさと離婚書類を奥方に与え、騎士シェーマにも知らせてやればよかったのではないか。


 そう思ったが、次の瞬間、いや、それはだめじゃ、と心の中に思いが湧いた。

 それでは騎士シェーマはただ与えられるだけではないか。

 おのれの恋を成就させるために、ただ受け身であってよいのか。

 それで恋の成就といえるのか。

 だめだ。

 それではだめなのだ。

 命懸けで愛しているのだと、スラーサイエナに告げなくて、どうするのか。

 家をも主家をも捨てる覚悟をみせなくて、どうするのか。

 それだけの思いを持って告白されてこそ、スラーサイエナもその恋に身を委ねることができる。

 それでこそ恋は成就するのだ。

 そもそもこの一件は、騎士シェーマがしゃんとしていれば起きなかったはずのことなのだ。

 この程度の試練も与えずに妻を持って行かれては、クルト・アレンダス卿も納得できないではないか。


 バルドはひどく愉快な気分になった。

 そしてこの老貴族が好きになった。


 そして、はっ、とした。

 わしも。

 わしも。

 もしかしたら、そうだったのか。

 そうすべきだったのか。


 バルドが留守のあいだに、アイドラはコエンデラ家に嫁ぐことを決めた。

 その知らせを聞いて、バルドは絶望した。

 だがバルドがパクラに帰還してからアイドラが輿入れのため旅立つまでには、しばらく時間があった。


 奪うべきだったのではないだろうか。

 もしやアイドラ様も、ハイドラ様も、あるいはヴォーラ様も。

 心の底では、それを望んでいたのではないか。

 いや。

 いや。

 まさか。

 そんなことが。

 アイドラ様を盗むことなど思いもよらぬ。

 また大恩あるテルシア家に泥を塗りたくって出奔したとして、その先にわしはどうやって騎士であればよい。

 それは騎士を捨てることではないか。


 いや。

 いや。

 もしや。

 捨てればよかったのか。

 騎士であることも何もかも。

 それこそが、本当に恋に殉ずるということではなかったのか。


 それはかつてのバルドには、思い浮かべることもできない可能性であった。

 だが年老いて自分のたどってきた道を突き放して眺めることができるようなってみると、そういう道もあり得たのだと気付いた。


 そうだ。

 そういう道はあり得たのだ。

 生き道を狭めたのは、わし自身だ。

 世界の広さは、おのれの心によって決まるのだ。


 バルドは心に浮かんだ想念に衝撃を受け、ずいぶん長いあいだ黙り込んでいた。



〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉



 それにしても、とバルドは思った。

 若いころには物事に迷ってばかりじゃった。

 年を経て知識が身につき視野も広くなれば、物事がすっきりと見えるようになり、迷いは消えるのだろうと思っておった。

 ところが、どうじゃ。

 実際に年を取ってみると、なるほど知識も考え深さも身につきはした。

 しかし迷いはなくならん。

 なくならんばかりか、迷いは多くなり、深くなった。

 過去を振り返ってみても、そのときは単純だと思えた出来事が、別の見方もできることに気付く。

 ああするしかなかった、と思っていた身の処し方とは別の道もあったのだと気付く。

 年を取れば取るほど、物事が分からなくなる。

 なかなか心安らかにはなれないものなのじゃなあ。


 生きていくということの理不尽さに、バルドはため息をついた。

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