第4話 ミドル・ザルコス

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 六月の初旬に、バルドたち一行はメイジア領に着いた。

 フューザリオンからメイジアまで二か月少々というのは、いささかバルドの予定より遅かった。

 もちろんフューザのふもとからメイジアまでを二か月少々で移動するというのは、一般的な常識からみれば、むしろ早い。

 しかし今回の旅は、山岳地帯を避けて平野ばかりを通り、しかも知った道を来たのである。

 実際のところ、道中の足かせとなっていたのはバルドで、馬の速度も抑え気味だったし、休憩も多かった。

 やはり体力の衰えは隠しようもない。


 途中クラースクに立ち寄り、ハドル・ゾルアルス伯が死んでいたことを知った。

 ハドルが死んだのは四千二百七十九年の十月二十三日のことだ。

 ピネン老人が死んだ翌日である。

 ハドルは、カーズとの再会を果たし騎士キズメルトルと騎士ノアを送り出したあと、一年のあいだ生きていたことになる。


 クラースクで、驚くべきことを知った。

 マジュエスツ領が消滅したというのである。

 マジュエスツは、エンザイア卿が統治していた領地である。

 クラースクよりも北にあったのだが、バルドたちはそこを通らずに来たのだ。

 山に囲まれた小さな平野地帯に、領主の住む街を取り巻いて六つの村があった。

 それが、領主館のあった街も、その周りの六つの村も、離散してなくなってしまったというのである。

 エンザイア卿の城ではかつて弟がエンザイア卿になりすまして過酷な政治を行っていた。

 通りかかったバルドたちの働きにより、領主は解放され、反乱人である弟は燃えさかる炎の中に墜落して死んだ。

 ユエイタンと出会ったのもマジュエスツである。

 ルジュラ=ティアントのモウラや精霊のスィと出会ったのもマジュエスツだった。

 あれほど栄えた領地が、十年少々のあいだに消滅してしまうということがあるのか。

 何やら領主の奥方の一族が、病気で様子のおかしくなった領主を引退させ、領主の息子を領主に就けようとしたらしい。

 それに領主とその側近たちが反発し、戦争になったという。

 多大な犠牲を払って奥方の一族を押し返したが、奥方の一族は諦めなかった。

 たびたび軍を発して領主の隙をうかがったらしい。

 領主はこれに対抗するため兵士を増員した。

 そのためには金が要る。

 毎年、税は上がり続けた。

 ついに耐えられなくなった領民たちが出奔し始め、気が付いたときにはもう街や村が維持できないようになっていたという。

 そうなってしまうと、残った者もわれ先に逃げ出し、ついにマジュエスツ領は領民のいない領地になってしまったのだ。

 肌に粟が立った。


 森の神ウバヌ=ドドは森に入ろうとする者に試練を与え、三つの恩寵を授けるという。

 ウバヌ=ドドを喜ばせるほどの力を示した者には、森の恵みを採っていくことを許す。

 ウバヌ=ドドを驚かせるほどの力を示した者には、森に住むことを許す。

 ウバヌ=ドドを恐れさせるほどの力を示した者には、ウバヌ=ドドは従者として仕え、森を切り開いてその恵みのすべてを自由にさせる。

 だがこの伝説には、もう一つ裏の話がある。

 いったん従者として仕えたウバヌ=ドドは、そのあるじがあるじにふさわしい力を持ち続けているかを、ふとしたときに試す。

 その試練に耐えるだけの力をあるじが持っていれば、何事も起きない。

 しかしもし、あるじが力を失い、その試練に耐えられなければ。

 ウバヌ=ドドは憤怒の顔を見せ、巨大な牙をむきだして、あるじを喰らい尽くしてしまう。


 マジュエスツはウバヌ=ドドの試練に耐えられなかったのだ。

 だからウバヌ=ドドは憤怒の顔を見せ、マジュエスツを喰らい尽くしてしまったのだ。


 バルドの脳裏にエンザイア卿の城が浮かんだ。

 あの古風で壮大な城は、今も山のふもとにたたずんでいるのだろうか。

 その床や壁面いっぱいにツタや木の根を生い茂らせて、亡霊の城のように霧にかすんでたたずんでいるのだろうか。


 それにしても、パタラポザである。

 悪霊の王である。

 バルドはその存在のことを考えるとき、近頃、ひどく好戦的な気分になることがある。

 いっそ戦って倒すことはできないか。

 パルザムは兵を出してくれるだろうか。

 ゴリオラは兵を出してくれるだろうか。

 ジョグはたぶん参戦してくれるだろう。

 ゾイ氏族はどうか。

 ジャミーンはどうか。

 マヌーノはどうか。

 フューザリオンからも、幾分かの兵力は出せるだろう。

 テルシア家も、騎士を貸してくれるだろう。

 シンカイの協力を得られないものか。

 これらすべての協力が得られれば、一大軍団を編成することができる。


 兵力が得られたとして、囚われの島まで飛んで行くわけにはいかない。

 そんなことができるとしたら竜人たちの協力を得るしかないが、彼らは囚われの島には行けないように呪いを掛けられているという。

 それにまた、竜人たちなど信用できるものではない。

 となると、軍団はパクラに集結し、大障壁の切れ目から進軍するほかない。

 大障壁の外側は、無数の魔獣が跋扈する密林である。

 しかも密林は大陸中央部に匹敵する広さだ。

 そこを抜けるには長い時間と多大な犠牲を必要とするだろう。

 密林を抜けたとしてたどり着くのは大いなるユーグだ。

 どうやってユーグを渡るか。

 木を切り出して船を造るのだ。

 となると船大工たちも同道させなければならない。

 船を漕ぎ出したとして、どの方角に進めばよいのか。

 囚われの島に着けるとしても、船団のうちの何割かは失うことになるだろう。

 そして囚われの島に上陸したとして、どうやって悪霊の王を発見するか。

 竜人たちでさえ発見できなかったのである。

 このように考えていくと、討伐軍団を編成して遠征するという考えは、まったく実現の可能性が低いものだといわざるを得ない。



 だめだ。

 だめだ。

 多数の力に頼って怪物と戦うという選択肢は、やはりあり得ない。

 では、少数ならどうか。

 バルド、ゴドン、カーズを始め、少数の精鋭が、何とか竜人たちと連絡を取り、竜人の島まで連れて行ってもらうのだ。

 そこからは小船を造って囚われの島に行けばよい。

 イエミテの鋭い感覚なら、悪霊の王を発見することもできるのではないか。

 しかし発見したとして、どうなる。

 攻撃を受ければ、いかに眠っていても目覚めるだろう。

 悪霊の王が目覚めたら、どうなる。

 バルドはともかく、同行者はすべて悪霊の王に心を乗っ取られてしまう。

 バルドは同行者たちすべてを敵に回すことになる。


 待てよ。

 ゲルカストなら、どうか。

 ゲルカストは、竜人の不思議な眼力に対抗できる力を持っているという。

 ゲルカストの軍団なら、悪霊の王にも対抗できるのではないか。

 いや。

 かつて竜人たちが悪霊の王に反抗を企てたとき、悪霊の王は突如目覚め、すべての竜人の心をいとも簡単に支配し殺し合わせたという。

 あの竜人たちでさえ、悪霊の王の強力な呪力の前には無力だったのだ。

 だめだ。

 だめだ。

 これはだめなのだ。

 力をもって悪霊の王を倒すということは不可能なのだと考えざるを得ない。


 悪霊の王とは、バルド一人で対面するしかない。

 あるいは、仲間を連れていくとしても、悪霊の王と戦おうとしてはならない。

 求めるものは対話だ。

 この世界の真実を聞き出すのだ。


 エグゼラ大領主領を抜け、ゴザとトゥオリム領を経由して南下した。

 トゥオリム領では三兄妹の碑に詣でた。

 栄えた街や村が滅んでいく一方で、この碑は変わらない。

 何人もの人が碑に祈りを捧げていたが、バルドの正体に気付いた者はなかった。

 バルドたちは、ポドモス大領主領に入り、メイジアに到着した。


 メイジア領は平和で豊かだった。

 以前より村々が大きくなり、家の数も多くなっているように思われた。

 あちこちでコルコルドゥルを飼っている。

 その様子を見て、バルドは口元がゆるむのを感じた。

 メイジア領ではクラースクからコルコルドゥルを仕入れて育て特産品としている、とはかねてからゴドンに聞かされていたところである。


 きっと今夜ゴドンは、自慢のコルコルドゥル料理でバルドをもてなしてくれるだろう。

 酒はプランの澄まし酒を出してくれるに違いない。

 プランの栽培は何度か失敗して諦めたというが、プラン酒は毎年クラースクから輸入しているはずなのだ。

 楽しい夜になるだろう。

 領主の城に近づくにつれ、バルドの期待は高まっていった。


 だが、城についたバルドを待っていたのは、ゴドンはすでに去年死んだという知らせだった。


 2


 昨年、大きな地揺れがあり、山崩れが起きた。

 領民の中で生き埋めになった者たちがいて、ゴドンはただちに救助に向かった。

 何人かを助け出したあと、ふたたび地揺れが起きた。

 ゴドンは村人をかばって自らは岩につぶされてしまった。

 いかにもゴドンらしいといえばゴドンらしい死にざまである。

 このことをバルドに教えてくれたのは、新領主となったミドル・ザルコスである。

 カイネン殿とユーリカ殿はどうしているか、とバルドは訊いた。

 ユーリカはゴドンの妹で、カイネンはその夫である。

 ミドルはカイネンとユーリカの子どもなのだ。


「二人とも亡くなりました。

 母上は五年前に、父上は今年一月に。

 二人とも病死で、苦しまずに静かに息を引き取りました」


 バルドは三人の墓に詣でた。

 辺境では人が死ねば、平民であっても貴族であっても、その遺骸は山野に埋める。

 そしてごく粗末な木の墓標を建てる。

 人の体は大地に戻すべきものだからである。

 墓標も早く倒れて腐ってしまうのがよいとされる。

 立派な墓などを建ててしまえば、魂魄がそこに引き留められ、神々の庭に行けなくなってしまう。

 ただし貴族の、つまり騎士家の場合は屋敷内などに拝礼用の墓を石などで作る。

 ここには遺体は埋めない。

 遺品の一部などを埋める。

 墓を目当てに祖先がやって来て、家の繁栄を見守ってくれるようにという、一種のまじないのようなものだ。


 ゴドンもカイネンもユーリカも死んでしまい、ザルコス家が衰退の道をたどっているかといえば、そうではない。

 ミドルの妹レイリアは、四千二百七十六年十月に亡きザイフェルトの実子ティグエルトと結婚した。

 ティグエルトは辺境競武会の期間中ロードヴァン城に滞在したときに、バルドに従者としてつけられていたが、気格のしっかりした青年であり、優しさと強さを持っている。

 ティグエルトは血のつながらない兄のあとを継いで伯爵となり、カッセの執政官に任じられた。

 レイリアはその正妃として家を治め、子を育てている。

 ミドルも結婚した。

 四千二百七十七年のことである。

 相手はバドオール子爵イスト・ハリンの末娘スーシアである。

 イスト・ハリンは妙な縁でレイリアの行儀見習いを引き受けることになり、誤解からゴドンはオストーサ領に乗り込んで、レイリアを取り返して来たのだが、その後ゴドンとイストは肝胆相照らす仲となり、イストの娘をゴドンの甥に嫁がせる、という話になったのだ。

 スーシアが連れてきた田舎に似つかわしくない垢抜けた侍女たちがメイジア城を華やかにしている。

 四千二百七十九年には長男が生まれた。

 ここまでのことは、ゴドン自身から聞いていた。

 その後、四千二百八十年には長女が、八十一年には次男が、八十二年には次女が生まれたというのだから、夫婦仲もよいのだろう。

 ゴドンもカイネンもユーリカも、その子たちの誕生を見届け、さんざん可愛がってから死んだというのが救いだ。


 カッセはパルザムの西の要衝であるし、執政官という制度は有力都市を王の直轄地にして代理の騎士に治めさせるという試みである。

 よほど王の信頼の厚い騎士でなければ任されるものではない。

 またイスト・ハリンは、前王ウェンデルラントが不遇の時代に庇護し続けた騎士であり、ウェンデルラントの即位後は重く用いられ、現王ジュールラントも厚く信頼する諸侯である。

 これほどの有力な家々と縁戚になり厚い交誼を持った家など、オーヴァの東にはこれまでなかっただろう。


 そんなわけで、今のメイジア城にははつらつとした空気があり、ザルコス家の隆盛を感じさせる勢いがある。 


 その夜はザルコス家の城に泊まった。

 ミドルにとりバルドは騎士の誓いの導き手である。

 また、共にクラースクまで旅をした仲でもある。

 ミドルは旅の途中、バルドからさまざまな教えを受けた。

 また、トゥオリム領では、親の仇を討った三兄妹の話を聞き、その塚に詣でて涙を流した。

 ミドルはバルドから薫陶を受け、騎士としての確かな出発点をつかんだのである。

 そうした経緯があるせいか、ミドルのバルドに対する扱いには深い敬意がこもっている。

 しかし、カーズとセトへの扱いには、少し引っかかるものがあった。

 自分は領主で偉いのだから敬意をもって接せよ。

 そんな気持ちが態度の端に表れている。

 食事の途中ではカーズに対し、


「カーズ殿。

 わが家のワインの味はいかがですか」


 と尋ねてきた。

 カーズは無言でワインの杯を目の前で揺らして満足を表した。

 だがミドルは続けて、


「言葉でおっしゃっていただかねば分かりません」


 と言った。

 そこでバルドが、ミドル殿、カーズはある冒険で舌を切ってしまい、言葉がしゃべれないのだ、と口添えをした。

 ミドルは、


「そ、そうでしたか。

 それは失礼を。

 しかし、そうならそうと言っていただかないと」


 と、言葉を濁していた。

 だがそんなことはわざわざに断ることではない。

 様子を見て察するべきことだ。


 夕食にはコルコルドゥルもプランの澄まし酒も出なかった。

 代わりに出たのはやたら甘いワインと、硬い牛肉だった。

 どうもミドルは、コルコルドゥルは庶民の食べ物あるいは単なる売り物であると思っているようだ。

 また、プラン酒は野蛮人の飲み物であり、ワインこそが貴族の飲み物であると思っているようだ。


 夕食の場にはザルコス家の騎士八人が同席していた。

 そのうち四人は、バルドがミドルについてクラースクでコルコルドゥルを買い付けたとき同行した者たちだ。

 ほかの四人にも見覚えがある。

 いずれも若く有望な青年をゴドンが引き立てて、ミドルの側近として育て上げた者たちである。

 今はすっかり壮年の立派な騎士になった。

 ミドル・ザルコスはたしかもう三十二歳で、側近たちもそれに近い年齢である。

 この八人のほかにも四人も騎士がいて、今は任務で出ているという。


「はっはっは。

 十二人も騎士がいては、給料だけでもなかなか大変ですよ」


 と、ミドルは笑った。

 メイジア領の村の数は前と変わっていないが、人の数は前の倍ほどにもなっているという。

 また、近接する二つの街が、それぞれメイジア領に組み入れてほしいと願い出てきた。

 メイジア領は今繁栄の時を迎えているのだ。


 だが、ミドルはどこまで感じているのだろうか。

 その十二人の騎士は、ゴドンが見いだし、カイネンとユーリカがやり繰りして騎士に育て上げた。

 その二つの街は、ゴドンの威徳を慕ってメイジア領に入った。

 つまり今自分が享受しているザルコス家の繁栄は、ゴドン、カイネン、ユーリカによってもたらされたものだということを。


 カーズに対する態度は非常に気になった。

 カーズの感情をおもんばかったのではない。

 カーズはそんなことは、あまり気にしないたちだ。

 だが、かつてこの城がゴドンの叔父クリトプの欲しいままにされていたとき、ミドルを救出したのはカーズだった。

 あのときのミドルはカーズにすがりついて頼っていたのに、その恩というものは忘れてしまったのだろうか。

 覚えているなら、カーズ様、と呼んでもいいぐらいのものだし、もっと丁寧な態度で接してもらいたい。

 それがミドルのためなのだ。

 恩人に冷たい仕打ちをすれば、徳を失う。

 徳を失えば、人が離れる。

 人が離れれば領地は立ち行かないのだ。


 また、家臣の騎士たちに対する態度も気になった。

 十二人も騎士を抱えて給料も大変だなどとは、本人たちを目の前にして言うべき言葉ではない。

 その言葉には思い上がりがある。

 給料を払ってやっているのは自分だという思い上がりがある。

 だがその金は税として集められたものであり、領民たちの働きがなければ得られないものである。

 その領民たちの働きができていくために骨身を削って働いてくれているのが家臣の騎士たちではないか。

 良臣は拝んで使え、という。

 だが、それは違う。

 拝んで使ううちに良臣となるのだ。

 十の情けを臣下にかけたとして、返ってくるのは一に過ぎない。

 とすれば危難のときに領主と領民のためにわが身を顧みず働くような臣下を得るためには、百の情けをかけなくてはならない。

 まして今メイジアは繁栄している。

 領地が繁栄していればいるほど、家臣は、おのれへの報酬がじゅうぶんではない、と思いやすいものなのだ。


 だがしかし、辺境で独立領の領主であるというのは、こういうことなのか。

 誰からもとがめられることなく、ただ命令を発する者であり続けるとは、こういうことなのか。

 ミドルも、知らず知らず、独善と高慢のわなに陥っているのかもしれない。


 バルドは、ふと、消滅してしまった街や村のことを思い出した。

 ここまで旅してくるあいだにおのれの目で見てきたことである。

 辺境の自然の厳しさに負けたとき、人の集落は滅びる。

 だが、人々が力を合わせ、心を強く持って生きていけば、小さな集落でも、そう簡単には滅びない。

 むしろ滅びは人の心の中にある。

 領主が統治を誤り、怠惰に陥り、権力闘争に明け暮れるとき、街や村は依って立つべき支柱を失う。

 そのとき、いかに栄えていた街も、見る見る間に寂れ、滅んでいくのだ。

 メイジア領は、今栄えている。

 大いに栄えている。

 しかしその豊かさの背後で、衰退と消滅の芽も、芽吹いていないとはいえない。


 3


 その夜、バルドはミドルとゆっくり話をした。

 ミドルのほうでも話したいことがあるようで、あちらから声をかけてきたのだ。


「バルド様。

 ベンチ・ザルコスを覚えておいでですか」


 もちろんバルドは覚えていた。

 ゴドンの叔父クリトプの息子で騎士である。

 ゴドンからいえば従兄弟になる。

 クリトプの謀反に加担していたが、バルドとゴドンがゲルカストたちとともに城を攻め取ったとき、素早くどこかに逐電してしまった。


「あの謀反鎮圧のあと、ベンチがメイジア領に戻ってきたのはご存じですか」


 それは知らなかった。

 ゴドンはそんなことは言わなかった。


「私はてっきり、伯父上はベンチを処刑なさるものと思っていたのです。

 ところが驚いたことに、伯父上はベンチを許し、屋敷を与えさえしたのです。

 ベンチは領の政を何一つ手伝いませんでしたが、邪魔もしませんでした。

 伯父上のご存命中は、実におとなしくしていたのです。

 ところが伯父上が亡くなられると、とたんに牙をむきました。

 家臣たちをうまくそそのかして味方につけ、どこからかごろつきどもを雇って反乱を起こしたのです。

 ベンチの主張は、自分こそが正統なメイジア領主というものでした。

 大領主様にも掛け合ったのですが、ザルコス家内部の紛争には手を出さないということでした。

 結局側近たちを率いてなんとか反乱軍を破り、ベンチを捕らえて処刑することができました。

 しかしこんなことは、伯父上の代でけりをつけてくださるべきことでした。

 本当に伯父上はお人よしで困ったものです。

 あとあとの者にまで迷惑をかけるのですから」


 なるほど。

 ミドルはゴドンに不満があるようだ。

 当然排除しておくべきベンチをゴドンが迎え入れ放置したために、自分が苦労しなくてはならなかったと。

 ミドルはゴドンに対してほかのいろいろな面では百も千もの恩義があるだろうに、ただその不満に思う一点からしかゴドンをみようとしない。

 だからミドルは、ゴドン・ザルコスはお人よしの困りものだと評価するのだ。

 だが、そうだろうか。

 その出来事は、ゴドンがお人よしだったことを示しているのか。

 むしろ度量の広さを示しているのではないか。

 バルドは言葉を選びながらミドルに語りかけた。


 ミドル殿。

 ゴドンはベンチを許し、迎え入れた。

 それはお人よしだったからじゃと、おぬしは言うのじゃな。


「ええ。

 そうとしか言いようがないでしょう」


 しかしのう。

 ベンチ・ザルコスは反逆者の息子とはいえ、同じ一族。

 その同族の命を、将来反乱するかもしれないということだけで摘み取ってしまうのは、どうかのう。


「現に反乱したではないですか。

 やつはそういうやつなのです。

 しかも私よりは年上だから、私には扱いにくい。

 ゴドン伯父上が処分しておいてくれたら、あんな内乱になどならずにすんだのです」


 ふむ。

 おぬしの言うことも分からんではない。

 じゃがゴドンはベンチを生かすことで可能性を残したのじゃ。


「可能性とは何の可能性ですか」


 数少ないザルコスの一族が手を取り合って領地を支えていく、という可能性じゃ。

 その可能性を残したのはゴドンの度量じゃ。

 それをごらんになって、ザルコス家のご先祖様がたは喜ばれたのではないかな。


「ご先祖様がたのお考えは分かりませんが。

 やつが反乱を起こさない可能性などなかったと思います」


 では、こう考えてはどうじゃ。

 ゴドンの存命中は、ベンチは牙をむかなかった。

 じゃがおぬしの代になると、牙をむいた。

 それは領主としてのおぬしがゴドンに劣るところがあるからではないのか。


「そ、それは。

 伯父上はけたはずれの豪傑でしたから。

 伯父上が生きておられるあいだはさすがにベンチも反乱を起こす気にならなかったのです」


 反乱を起こさせなかった、というのは一つの徳なのじゃ。

 ベンチに悪心を起こさせないことで、ゴドンは天に徳を積んだのじゃ。

 そしてまたベンチに生きることを許し、人の役に立てる仕事をなす機会を与えることで、やはりゴドンは天に徳を積んだ。

 そうは思わんか。


「天のことはよく分かりません。

 しかしそれをおっしゃるなら、伯父上は自分の死後ベンチに反乱を起こさせるという可能性を生み出すことで、天の徳を失ったのではありませんか」


 ふふ。

 それは少し屁理屈じゃな。

 しかしそう言うならあえて訊こう。

 ベンチの反乱は、悪い出来事じゃったのか。


「なっ。

 悪いことに決まっているではありませんか。

 人の命が失われ、畑が荒れ、たくさんの財貨が失われました」


 じゃが、おぬしと側近たちは経験を積み、より強くなった。

 君臣のきずなも深まったであろう。

 おぬしたちの姿を見て、領民も信頼を深めた。

 違うか。


「それは結果的にそうなっただけですっ。

 反乱などという出来事は、起きなければそれに越したことはありません」


 それはそうじゃ。

 反乱など起きぬにこしたことはない。

 人の命も失われてよいものでは決してない。

 しかしのう。

 人は苦難からは逃げられぬ。

 ゴドンが苦難の種を残したことを憎むなら、それはお門違いなのじゃ。

 考えてもみよ。

 わが子がかわいいからといって、わが子の歩いて行く道に落ちている石をいちいち拾って歩く親がおるか。

 拾ってやりたくても、人生でつまずきそうな石を全部あらかじめ取り除くことなどできぬ。

 また、取り除いてよいともいえぬ。

 人は石につまずきながら成長していくのじゃ。

 一度も転んだことのないような人間に領主など務まるものか。

 ゴドンが残したものが、おぬしにとってつまずきの石じゃったとしても、それはおぬしの成長のためと知れ。


「……伯父上が。

 ゴドン伯父上がそこまで考えてベンチを生かしたとお考えですか」


 そう受け止めてみよ、と申しておるのじゃ。

 受け止め方ひとつで、物事の意味は変わる。

 もうゴドンは死んだのじゃ。

 この世にはおらんのじゃぞ。

 この世におらん人間に、あれをしてくれていればとか、これをしてくれなかったと繰り言を重ねて何になる。

 おぬしはおぬしとして、一個の強き領主として立たねばならぬ。

 その成長の材料が与えられたというのに、伯父への不満でその出来事を語ってはなるまい。


「ベンチのことも、よき修行であったと感謝せよ、と言われるのですか」


 これが修行と分かる形で目の前に現れるものなど、たいした修行ではない。

 本当の修行というものは、困難そのもの、悲しみそのもの、苦しみそのものの形をしてやってくるのじゃ。

 起きずに済めばそのほうがよかった出来事そのものなのじゃ。

 それを受け止めきってしのぎきり、あとになって、あああれはよい修行になったと振り返るものなのじゃ。

 もう起きてしまった不幸な出来事に、誰のせいで起きた何のせいで起きたなどと、ぐちぐち不足を言うて何になる。

 よくぞ伯父上ベンチを残してくださいました、と感謝してみよ。

 反乱のために死んだ家臣や領民には、私の不徳のゆえに反乱を起こさせました申しわけございませぬ、と頭を下げよ。

 起きてしもうた不幸な出来事を自らのうちに引き取ってじっくりとながめ、二度と同じようなことを起こさないために何をすればよいのかを考えてみよ。

 おぬしの世界はそこから開ける。


「……よく、分かりません。

 でも、考えてみます」


 長いあいだ、ミドルは黙り込んだ。

 そのあとに、ふとほほ笑みを浮かべ、ぽつりとつぶやいた。


「トゥオリム領の三兄妹のことを、ゴドン伯父が話していました」


 うむ。皆の前で何度も語っておったのう。


「あ、いえ。旅語りの夜宴のことではありません。

 そのずっとあとに、二人きりのとき話してくれたことがあるのです」


 それからミドルは、思い出を語った。


 4


 ゴドン伯父は、最初三人を見たとき、盗賊を追い払った手並みに感心していました。

 しかしバルド様が食事に招待なさるのを聞いて、驚いたのだそうです。

 そこまですることはあるまいと。


 そして夕食の場になると、バルド様は次々にごちそうを出された。

 私の父と母が心を込めて贈った品の数々を、惜しげもなく。

 それを見てゴドン伯父は腹を立てたのです。

 その食料は、バルド様にこそお食べいただきたかったからです。

 カイネンとユーリカの心遣いを無駄になさる気かと。

 そう思い始めると、三兄妹に対する憎しみの心が湧いてきたそうです。


 薄汚い年寄りだ。

 ひどい匂いだ。

 遠慮もなく、ごちそうをぱくぱくと食いおって。

 そもそもこやつらが貧しい暮らしをしているのは、働かないからだ。

 どんな理由があるのか知らないが、野人のように山に住んで、まともな職業について世のため働くこともせず、税を納めることもない。

 こんなやつらばかりになったのでは、その領地は立ち行かない。

 領主が領地を治める苦労も知らないやつらめ。

 こんなやつらにうまい物などふるまう必要はないのだ。


 そんなことを考えていたのだそうです。

 そして、そんなやつらに夕食をごちそうするバルド様が分からなくなった、と申しておりました。

 特にご自分の器で老人たちに飲み食いさせていたのが、ゴドン伯父には気持ち悪かったようです。

 やはりバルド様も身分の低いご出身ゆえ、身分の低い者たちと気が合うのかもしれん、というようなことまで思ったといいます。


 それだけに、彼らの正体と行いを知ったときは衝撃でした。

 彼らは実は老人などではなかった。

 十八歳をかしらにした若者たちだったのです。

 そして彼らが山野に隠れ住んで貧しい生活をしていたことにも、ちゃんとした理由があったのです。

 それは窮民を助けていた両親が、ほかならぬ領主の手により惨殺され、彼らの命まで危うくなったからのことだったのです。

 しかも心細く苦しい生活の中でも彼らは高い志を失わなかった。

 親の願いを継いで、無道の領主を討つことを誓った。

 そして年寄りに見えるほどの苦労を重ねて、ついに志を果たしたのです。


 そのときゴドン伯父が最初に思ったのは、昨夜の食事のことでした。

 うまいうまいと彼らが言っていたのは無理もなかったのです。

 その彼らが実は若者たちだったと知ったとき、ゴドン伯父の心に浮かんだのは、もっともっとうまい物を食べさせてやりたかったという思いでした。


 でもそれからしばらくして、ゴドン伯父は気が付いたのです。

 わしは、彼らにうまい物など、やろうとしなかったではないか。

 バルド様は、実際に彼らにうまい物を食べさせておあげになったではないか。


 ゴドン伯父は、自分が彼らを軽蔑の目で見ていたことを知りました。

 この旅は民衆救済の旅だと思っていた伯父ですが、彼らはその民衆の中に入っていなかったのです。

 それは彼らの見かけから彼らを判断してしまったからです。

 救われ守られる価値のない者たちだと思ってしまったのです。

 それが領主の過酷な圧政により、心ならずもそうせしめられたのだなどとは思いもせず。

 本当は、彼らこそが自分が救わなければならない民衆だったというのに。


 ところが、バルド様はなさった。

 彼らを暖かく見つめ、食事に招待なさり、そのとき持っておられたすべてを、惜しげもなくお与えになった。

 バルド様には、できた。

 自分には、できなかった。

 バルド様にも彼らが実は若者だとは分からなかったはずだ。

 彼らがどんな人生を生きてきたか分からなかったばずだ。

 彼らの志も、これからなそうとしていることも、分からなかったはずだ。

 なのになぜバルド様にはそれができたのだろう。

 どうしたらバルド様のようになれるのだろう。

 伯父は旅を続けながら、ずっとそのことを自分の心の中で問い続けたのだそうです。


 その答えが出たのは、滝のほとりでバルド様がカーズ様の誓いの儀式を行ったときだそうです。

 カーズ様は、もとは別の御名だったそうですね。

 その古い御名をバルド様は取り上げ、新しい名をお与えになった。

 新しい騎士の誓いをお誓わせなさった。

 そうすることで、カーズ様を捉えていた心のくびきを断ち切られた。


 それを見て、ゴドン伯父は悟ったのです。

 自分には、こんなことはできない。

 自分には、こんなこと思いつくこともできない。

 思いついたとしても、決して実行できない。

 自分はバルド・ローエンにはなれないのだ、と。

 だからバルド・ローエンになろうとすることはやめて、精いっぱいのゴドン・ザルコスとなることを目指そうと、決心したのだそうです。


 そうゴドン伯父は話してくれました。

 ゴドン伯父は、旅語りの夜宴で、バルド様との旅が自分を成長させてくれた、と話していました。

 本当にそうだったのです。

 バルド様との旅が伯父の目を開かせてくれたのです。


 私もそうでした。

 短いあいだでしたが、バルド様とともに赴いたクラースクへの旅は、私をどれほど成長させてくれたか分かりません。

 いえ。

 成長したなどというのはおこがましいことですね。

 成長したいという願いをかき立ててもらった旅でした。

 民を守れる領主になりたい。

 民や臣下の苦しみを知る領主になりたい。

 そうでした。

 私は三兄妹の碑の前で、そう願ったのでした。

 そんなことは、すっかり忘れていたような気がします。


 5


 知らなかった。

 ゴドンがそんなことを考えていたとは。

 そんなことを悩んでいたとは。

 だが聞いてみればいかにもゴドンらしい悩みだ。


 ああ、ゴドン! ゴドン! ゴドン!

 わしのほうこそ、おぬしがうらやましかった。

 その明るい物言いが。

 そのまっすぐな気性が。

 うらやましくて、うらやましくて、ならなかった。

 おぬしがいてくれたことが、どれほど助けになったことか。

 どれほど救いになったことか。

 おぬしは見事な騎士であった。

 おぬしがほかの誰でもない、ゴドン・ザルコスであったことは、わしにとって、皆にとって祝福であった。


 バルドはミドルに言った。

 その、領民を守りたいという気持ち。

 その気持ちを忘れてはならぬ。

 その気持ちこそが、おぬしを導く灯火となる。

 星のない夜に森で迷ったとせよ。

 森で夜を過ごせば獣どもの餌食となる。

 さりとてどこに進めばよいかは分からぬ。

 そんなとき、城の楼閣に松明がともされていたとしたら、どうじゃ。

 その灯火を目印に進んでゆけば、いずれは城にたどり着くことができる。

 右に左に迷いながらも、その道こそが正しき道と信じて歩み続けることができる。

 その心の灯火を、決して消してはならぬ。


 ミドル・ザルコスは、泣いた。

 バルドはそばに寄り、幼子にするように、その背を優しくなでた。


「わ、私は。私は。

 不安だったのです。

 私には、ゴドン伯父上のような武芸はありません。

 父上や母上のような有能さもありません。

 そんな私が、栄えていくメイジア領を、いったいどうやって切り盛りしていけばよいのか。

 不安で、不安で、しかたがなかったのです。

 しかし領主は誰にも弱みをみせることはできません。

 相談する相手もなく、私は、私は」


 うむ、うむ、とバルドはうなずいた。

 おぬしはよくやっておる。

 ゴドンもカイネンもユーリカも、見守っておるぞ。


「なれるでしょうか。

 私は、よき領主となれるでしょうか」


 なれるとも。

 すでにおぬしは、その道を歩き始めておる。


「ああ、そうであればよいのですが。

 バルド様。

 どうか私に道をお示しください」


 されば感謝を土台とせよ。

 恨みや不満や疑いを土台にして、その上におぬしの心の城を建てたとすれば、それくもろく、崩れやすい城となる。

 人と物と事柄への感謝を土台として、その上におぬしの心の城を建てるのじゃ。

 さすれば、その城は限りなく堅固となり、大いに栄えていくことになる。


「感謝を……土台に」


 泣きはらした目を、ミドルは上に向けた。

 その目からは、すでに濁りは消え、静かな光がきらめいていた。


 夜は寝苦しかった。

 またあの声が聞こえたような気がした。


〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉


 翌日バルドたちが出発するとき、ミドルは妻と子を連れて門の外まで見送った。

 そして、


「カーズ様。

 お許しくださいませ。

 どうかこれに懲りず、またわが家のワインを味わいにお越しくださいませ」


 と、深く頭を下げた。

 バルドたちは気持ちよくメイジア領をあとにすることができた。


 ゴドンよ、ここにわしたちが来たのも、おぬしに引き寄せられたのかもしれんのう。

 あれでよかったか。


 空にゴドン・ザルコスの笑顔が見えた。

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