第3話 ヤナの腕輪
1
生きているということは、素晴らしい。
バルドは心からそう思っていた。
ゴリオラ皇国は、パルザムやガイネリアなどと比べると、はるかに緑が多い。
いや。
緑というより青だ。
まっすぐに天に伸びる木々の葉も、その間に生い茂る草も、柔らかな青みがかった緑色をしている。
水も豊かだ。
こうして原生林の中に足を踏み入れると、日の光も適度に弱められ遠景はかすんで、見渡す風景は絵のようだ。
コブシ城近くの泉の前で花嫁行列の一行と別れてから、バルドたちは、樹海に向かっていた。
あまり街には立ち寄らず、村に泊まり野山で野営をして進んだ。
街を通らねばならないこともあるが、ファファーレン侯爵からもらった通行証代わりのメダイヨンが、恐るべき効果を上げた。
どこに行ってもすぐに門を通してもらえるのだ。
そう急いではいないが、この三人ならばしぜん速度は速い。
鳥や獣や木の実を手に入れてくる素早さは、どれほど野営慣れした騎士も及ばない。
それをさばいて食べられるようにする手際は手練のわざといってよい。
それを打ち合わせもなく完璧な連携でこなしてしまう三人なのだ。
うまい。
焼いた魚に塩を振っただけなのに、どうしてこんなにうまいのか。
油が焼ける煙にあおられるのが、何とも心地よい。
焼き酒も言うことなしのうまさだ。
吹く風のかぐわしさよ。
小川のせせらぎの楽しさよ。
ああ。
これが旅というものだ。
立派な馬車に乗って、夜は騎士の館に泊まるのは、あれは旅ではなくただの移動だ。
これこそが旅なのだ。
それにしても。
バルドは思った。
それにしても、食物、というのは不思議だ。
例えば、このバンツ魚だ。
何ということのない、どこの川にもいるような魚ではある。
それを焼いて人間が食べる。
そうすることで人間はおのれの体を養うことができる。
なんという不思議なことだろう。
これが豚や羊ならまだ分かるのだ。
あれらの肉は人間のそれに近い。
だがバンツを切り開いて中を見ても、焼けた肉を見ても、人間のそれとは似ても似つかない。
これがどうして人間の肉になるのか。
また、バンツばかりを食べたからといって、バンツのような顔になるということもない。
いやいや。
バンツ魚など、まだよいほうだ。
例えば、このシルシュの葉だ。
どこの山野にも自生している野菜だが、このゴリオラの森のシルシュは薄くて柔らかく、実に美味だ。
このシルシュの葉を食べて人間の体が養えるというのが、どうも分からない。
人間の体には、こんな緑の部分はない。
こんなにさわさわの部分もない。
強いて近い所を上げれば髪とひげだろうか。
だが野菜ばかりを食べたからといって、髪やひげばかりが伸びたなどという話は聞いたこともない。
現に辺境の貧しい家では、ポド芋や丸ネギばかりを食べて暮らしているではないか。
それでやせ細って死ぬということもない。
不思議だ。
だが一つはっきりしていることがある。
人間は、物を食べなければだんだんやせ細っていって死ぬ、ということだ。
つまり人間は食べ物で出来ているといってよい。
この世には人間が食べられるものが種類も数も無限といってよいほどある。
人間に発見されるのを待っている未知の食べ物もあるかもしれない。
好きな物を選んで手に入れ、料理し、食べることができる。
なんと幸せなことではないか!
バルドは思わず目を閉じ、両の手のひらを固く合わせて、神々に、目の前の食事に、感謝の祈りをささげた。
以来バルドは食事の前に目を閉じ手を合わせて祈るようになった。
カーズとジュルチャガも同じことをするようになった。
2
そして今、バルドはマヌーノの女王の前にいる。
カーズはともかく、ジュルチャガが平然としているのが不思議だ。
どうしてこやつはこれほど肝が据わっているのだろう。
いったいどんな経験をしてきた男なのか。
〈人間ばるどろえん〉
〈不思議だ〉
〈お前からはわらわに対する親愛の情が伝わってくる〉
それはそうだ。
あんな窮地から救ってくれて楽しい旅をさせてくれたマヌーノの女王を嫌うことなどできない。
このどろどろした湖も、生い茂る枝葉やツタも、巨大なヤンバガルパの樹も、何もかもいとおしい。
ましてマヌーノの女王は、上半身だけ見れば神々しい美女以外のものではない。
近寄って抱きしめてやりたいほどなのだ。
〈お前と共に来た人間たちも〉
〈わらわを恐れても憎んでもいない〉
〈珍しい人間たちだ〉
〈なるほど〉
〈偉大な精霊の宿る剣がお前を認めたわけが分かった〉
マヌーノの姿を見て恐れを感じない人間はあまりいないだろう。
ましてこの樹海の奥深くでヤンバカルパの懐に抱かれた女王を見て、平然としていられる人間など、めったにいるものではない。
ふと気が付けば、一人のマヌーノが近寄ってきていた。
口から長い舌を伸ばしている。
その舌の先に何かがある。
それはバルドの目の前に突き出された。
腕輪だ。
ひどく古風な腕輪で、複雑な文様が彫り込まれている。
だがどことなく見覚えのあるような文様である気もする。
あとになって、古代剣の柄に刻まれた文様に似ているのだと気付いた。
〈それをお前にゆだねる〉
女王の言葉に従い、バルドは腕輪を取った。
マヌーノの舌は、腕輪を放すとき、バルドの指をちらりとなめた。
背筋がぞくっとしたが、嫌悪感が半分で、不思議な快感が半分だった。
〈ヤナの腕輪という宝物だ〉
〈もとは偉大な人間の王が作った〉
〈人間たちがこれをめぐって争いをしたので〉
〈われらが預かることになったのだ〉
争い、とは何のことだろう。
この腕輪に何かの力が込められているのだろうか。
〈その腕輪を身に着けていれば、心が強く確かになる〉
〈心を操ろうとするあらゆる働きを防ぐことができる〉
〈ただしこの腕輪を身に着けて効果を得られるのは人間だけだ〉
驚くべきことを、女王は言った。
続けて女王がしゃべったのは、思いもよらないことだった。
〈お前は悪霊の王に目を付けられた〉
〈やつと戦う方法などないが〉
〈ヤナの腕輪があれば支配はされずにすむ〉
悪霊の王とは誰か。
もしかすると、それは「見つけたぞ」という声の主か。
バルドはそう訊いた。
〈そうだ〉
それはどういう存在で、どこにいるのか。
何を狙っているのか。
〈
〈だが死なず、衰えず、強大な力を持っている〉
〈この大地ではない別の所にいて〉
〈偉大な精霊の宿る剣を欲しがっている〉
〈その理由は知らぬ〉
ルグルゴア・ゲスカスという人間を知っているか。
〈会ったことはないが、知っている〉
〈悪霊の王の手先だ〉
〈悪霊の王は自分ではこの世界に来られないから〉
〈手先を作る〉
〈いまいましいトカゲどもがそうであり〉
〈人間るーるごげすかがそうだ〉
トカゲ、とは何か。
〈
そんなものが本当にいたのか。
おとぎ話の生き物かと思っていたが、どうやら実在するようだ。
人の似姿をした巨大なトカゲの怪物。
岩のように頑強な体を持ち、凶悪で残忍で、長生きをする。
いかなる亜人も人間も、竜人には太刀打ちできなかったという。
竜人は大地の支配者であっただけではない。
だが彼らはある日滅んでしまった。
彼らの所業が天神コーラマの怒りを呼び、彼らの国は一夜にして消滅してしまったというのだ。
メルカノ神殿自治領の西方にある〈ワザカのくぼみ〉こそは、竜人の都マジュヌベクの跡であるともいう。
それはただのおとぎ話だと思っていたが、そうではなかったようだ。
竜人は実在した。
しかも今も生き延びて暗躍しているようだ。
そうだ。
そういえば、トカゲどもが石を持ち去ったからもう魔獣は作れない、と女王は言った。
魔獣を作ることができるのか。
石とは何か。
〈石は石だ〉
〈やつらはそれを大量に持ち込んで〉
〈魔獣を作らせた〉
〈わらわの心を操って〉
マヌーノの女王の心を操るじゃと!
そんなことができるものなのか。
〈ここに来た一匹は〉
〈特別に力の強い一匹であったのじゃ〉
〈あれは普通のトカゲではなかった〉
〈あやつなら大勢の人間の心を操ることもできるかもしれぬ〉
〈人間ばるどろえん〉
〈ヤナの腕輪を肌身離してはならぬ〉
〈剣が目覚めてしまったので〉
〈わらわにはお前がどこにいるか分かる〉
〈ということには悪霊の王にも分かるということじゃ〉
〈ヤナの腕輪を離してはならぬぞ〉
3
唐突に会談は終わった。
女王が湖に沈んでしまったのだ。
バルドはまだ話したいことがあったので呼び掛けたが、返事はなかった。
〈人間たち〉
〈すぐにこの場を離れよ〉
〈女王が浮かんでくる〉
〈そうしたらお前たちは死ぬ〉
頭の中に声が響いた。
どのマヌーノがというのでなく、たくさんのマヌーノたちが同時に話し掛けてきているような感じがする。
バルドは、訊きたいことがあると言った。
〈女王の
〈人間を狂わせ死なせる〉
〈無理に毒を抑えて話をしていたので〉
〈女王の体に毒が回ってしまった〉
〈すぐにここを去れ〉
では、
ここは樹海の最も深い所だから、すぐ向こうに霊峰フューザがあるのではないか。
〈ここはもうフューザだ〉
〈だがこの奥に進んでも〉
〈風穴にしか進めぬ〉
〈上にも横にも行けないのだ〉
〈お前たちにはまだ風穴に入る準備はできておらぬ〉
〈だから引き返せ〉
〈早く〉
4
やむを得ず、バルドたちは急いでそこを離れた。
離れてから、パタラポザの暦とは何かを訊くことを忘れていたことに気付いた。
ほかにも、いくつも訊きたいことがあったのだが、今さら戻っても歓迎はされないだろう。
バルドは、東から回り込んでフューザを目指そうとした。
もともとバルドは霊峰フューザを目的地として旅をしていたのだ。
これほど近くに来たのだから、黙って引き返す手はない。
そもそも今となっては、ほかに行くべき所もない。
もうパルザムに戻ろうとも思わなかった。
ウェンデルラント王の顔は見てみたかったし、言ってやりたいこともあったが、死んでしまったのではどうしようもない。
パルザムの国の様子も、王都の様子もじゅうぶんに見た。
ジュールラントの見事な王様ぶりも、その成長ぶりも、この目に焼き付けた。
豊かな国であり、多くの人材がいる。
ジュールラントの統治下、ますます豊かになっていくだろう。
いつかジュールラントの子が生まれたら、見てみたい気はする。
が、今すぐ戻ったりしたら、またぞろゴリオラ皇国に連れて行かれかねない。
そのように考え、東を目指したのだ。
なぜか今はむしょうにフューザに登りたかった。
しばらくすると、大木が少なくなった。
その代わり、妙な草とも木ともつかないものが、何種類も生えている。
緑色の巨大な蛇が地面から体を突き出し、うねりながら天に向かって立っているような形をしている。
葉はなく、先端部分が大きく膨らんでいて、全体に毒々しい緑色をしている。
その高さは優に人の五倍はある。
ほかにも奇妙な形の草がにょろにょろと突き出ている。
地面は水気が多い。
草に覆われて進みにくい中を無理に進んで行った。
すると先行したジュルチャガが引き返して来て、ここは進めない、と言った。
地面がだんだん沼のようになってゆき、しかも進むほど深く体が沈んでゆくのだという。
あと五百歩も進めば、人も馬も飲み込まれてしまい生きては戻れないような場所に出てしまう。
そうジュルチャガが言うのだ。
仕方がないので南に
三日ほど南に下ったとき、西に大きな川があるのに気付いた。
そちらに馬を進めてみた。
オーヴァだ。
大いなるオーヴァ川だ。
フューザより流れ出し、大地を潤し、冥界へと流れ込むといわれる命の川。
大河オーヴァが、今目の前にある。
それも西側に。
ということは、いつの間にかオーヴァを渡ってしまったのだ。
パルザムからゴリオラに向けての旅では、オーヴァの遙か西側にバルドたちはいた。
マヌーノの女王のすみかに行くまでのあいだ、オーヴァを渡ってはいない。
ところが今はオーヴァの東側にバルドたちはいる。
これはどういうことか。
おそらく。
オーヴァの源流は、今まで思っていたように、フューザの山肌をそれと分かるような形で下る川ではないのだ。
その地下に蓄えられた水が山麓から染みだして、それが寄り集まって川となっているのではないのか。
あのマヌーノの女王の湖ともつながっているかもしれない。
それにしても。
あれほどの莫大な水が大地から生まれているとは信じがたい。
信じがたいけれどもそれが事実だ。
そして、中原も辺境も、水の豊かさのみなもとはオーヴァにあるといってよい。
そのオーヴァは初めから川なのではない。
樹海や、マヌーノたちの縄張りや、人を飲み込む底なしの沼や、いろいろのものの営みの中からオーヴァは生まれるのだ。
何の関係もないと思っているいろいろなものとつながりながら、人間は生かされているのかもしれない。
5
それからさらに三日、沼地に沿って南にくだった。
フューザに登ろうとしながら、実のところ段々と遠ざかっているわけである。
バルドは、ふと、まるでフューザが来るなと言っておるようじゃのう、と思った。
いつしか樹海も抜けた。
そして、やっと沼地が終わる地点が見つかった。
そうすると、全体が見えてきた。
沼地、というより大湿原と呼ぶほうが当たっている。
大湿原は樹海の西にあるといわれているが、東側にもあったのだ。
そして。
そこには霊峰フューザの威容があった。
視界のすべてを覆う威容が。
その存在感は、あまりに圧倒的である。
あれほど広大な樹海も、フューザにとってはすそ野のごく一部に抱えているちっぽけな緑でしかない。
これほど雄大なフューザを目にした者は、どれほどいるのだろう。
見ているだけで魂を奪われてしまいそうだ。
その日は早めに野営の準備をし、フューザを心ゆくまで眺めた。
明日は念のためもう半日分だけ南東に進み、それから北上してフューザを目指すことにした。
今夜は月のない夜だ。
それでも、日が沈んでも熱を持ったフューザの山肌は、闇の中にぼうっと姿を浮かび上がらせている。
その景色を眺めながら、バルドは大事なことを思い出した。
思い合っている恋人たちを引き離してしまった。
皇都に行かずに済んだうれしさのあまり、カーズとドリアテッサのことを、すっかり忘れていたのだ。
何とかしなければいけない。
こうして引き離してしまったのでは、二人が思いを告げ合う機会はない。
どうすればよいか。
どこかでいったん落ち着いたら、理由を付けてカーズを皇都に使いに出せばよい。
前にも行ったのだから、今度も大丈夫だろう。
銅像を見たら斬ってしまうかもしれないが、それはべつに構わない。
気に入らないものがあったら、何でも斬ってくればよい。
とにかく、カーズにはドリアテッサと幸せになってほしかった。
バルドが手に入れられなかったものを、カーズにはつかんでほしかった。
6
三人とも朝の目覚めは早かった。
早々に食事を済ませて出発した。
そろそろ進路を北に転じようかとしたころ、バルドの目があるものをとらえた。
一瞬、それが何か理解できなかった。
徐々に脳髄がそのものの正体を受け入れるにしたがい、ぞわぞわとした悪寒が背筋をふるわせた。
久しく感じたことのない心の底からの恐怖がバルドを襲った。
これは。
これは。
この一面に生い茂る植物は。
一つの小山を埋め尽くして生えている草は。
なんという。
なんということだ。
そのとき、ジュルチャガがつぶやいた。
ひょうひょうとしたこの男には珍しく、憎しみを抑えきれない声で。
「ゴリオサだ。
こんなにたくさん。
近くにゲリアドラが山ほど生えてる、ってことだ」
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