第6章 フューザリオン
第1話 姫騎士と求婚者たち
1
バルドは今、嵐のただなかにいた。
ドリアテッサへの求婚の嵐の中に。
どうしてこんなことになってしまったのか。
2
バルドが目を覚ましたのは十月二十七日である。
ヒルプリマルチェの戦いが八月十七日であるから、二か月と十日、つまり九十四日間眠っていたことになる。
倒れたあと一度カッセの街に運ばれ、特別な馬車が仕立てられて王都まで送られた。
王宮に運び込まれるところだったのだが、ジュルチャガがトード家に運ぶよう言い張り、カーズもこれに同調したので、トード家で眠っていたのだ。
王宮で誰彼なしにこの状態を見られたのではたまらない。
ジュルチャガはよくわしの気持ちを分かっておるわい、とバルドは感謝した。
前と同じように、カーズとジュルチャガがバルドの面倒をみてくれたようだ。
カーズも相当の痛手を受けていたはずなのに、あの戦いのあと起き上がって、あとは平然としていたらしい。
アーフラバーン、キリー、ジョグもバルドと一緒に王都に帰還した。
ジョグのけがが一番ひどかったはずなのだが、自分の馬でここまで来たというから驚きだ。
彼らは王から大いにねぎらわれ、それぞれの国に帰って行った。
バルドはアーフラバーンにトード家の料理人カムラーの身の振り方について相談しようと思っていたので、その点ではあてがはずれた。
カムラーが栄養たっぷりのジュースを作り、眠っているバルドに飲ませてくれたとかで、体調は最初のときほど悪くない。
ただし体重はうんと減ってしまったし、ひどく体が力を失っていて、最初はまっすぐ立つだけで一苦労だった。
しかし九十四日間も寝ていたというのは異常である。
これはいったい、どうしたことなのだろう。
むろん、古代剣の力を解放した反動であるということは分かっている。
渾身の力を込めて、古代剣の不思議な力を物欲将軍に放ったあと、とてつもない虚脱感に襲われた。
大きな力を放った代償に眠りに落ちてしまうのだということは、そのときに分かった。
だがこれほどの長期間眠ったままになるとは思いもしなかった。
あのとき。
そうだ、初めて古代剣の力を大きく解き放ったとき。
ロードヴァン城で魔獣の大軍に襲われていたとき。
あのときも、古代剣の力を使ったあと、長い眠りに落ちた。
たしか二か月近い眠りだった。
だが、あのときは、魔獣の大軍と戦い抜いて、それこそ体力の限界を絞り尽くしたあとだった。
だから心身の疲労が長い眠りを要求したのだろうと思っていたのである。
だが、どうもそうではない。
うつらうつらと寝ながらバルドはこのことを考えたが、やはり古代剣の力を大きく解放したからだということしか思いつかなかった。
今までにも使い手はいただろうに、使うたびに何十日も寝込んだのだとすれば、恐ろしく使い勝手の悪い秘宝といわねばならない。
けれど、バルドは晩年になってこの武器と出合い、その真の力を発揮させることができるようになったのだから、年の若い使い手とは同じにならないかもしれない。
体が古代剣の放つ不思議な力に慣れていないのだ。
慣れるほどの柔軟さを、もはやバルドの老いた体は持たない。
だからこれからも、この剣の本当の力を使うときは、二か月も三か月も昏睡状態に陥ることを覚悟しなくてはならない。
強力ではあるが、めったに使えない武器だと思っておこう。
やたらに使えばこちらの体が耐えられない。
王から秘書官が派遣され、ヒルプリマルチェの戦いの様子について聞き取りを行った。
これはすぐに許されたので、バルドは肩の荷が下りた気分になった。
王宮からは多額の報奨金が出ていたが、これは一部を支給してもらい、大部分はそのまま王宮に預けておいた。
いずれまた有効に使えるときもあるだろう。
寝ながら振り返ってみると、ひどく危うい戦であったと、しみじみ思われた。
そもそも、王都近くまで押し寄せたシンカイ軍を山岳戦に引きずり込んだのは、際どい賭けだった。
相手がパルザム王軍の能力や装備や戦術について一定の思い込みがあるからこそ、有効な戦法ではあった。
しかし身代わりにせよ、シーデルモントが死に、あるいは大けがをしていたなら、諸侯軍も王直轄軍もひどく混乱して、目も当てられない敗戦になっていたろう。
山野での小規模の遭遇戦はバルドの得意とするところであるが、シンカイの将兵の突破力がもう少しまさっていたら、逆にこちらが各個撃破されたかもしれない。
秘密兵器の
とはいえ、戦は冷静な計算だけで勝てるものではなく、時には業火のごとく相手を焼き尽くす勢いで攻め掛かることも必要である。
調子に乗って戦線を拡大したシンカイ軍の鼻面をたたけば彼我の勢いが逆転するのは物の道理というものではあった。
それにしても、とバルドは思う。
物欲将軍とのあいだに特別な因縁がなければ、あのような作戦は採らなかったかもしれない、と。
結果としては、やはり物欲将軍を倒したことが連合軍の勝利につながった。
そのことは間違いない。
だがもう一度同じような場面になったら同じ作戦を採るかと訊かれたら、とてもうなずくことはできない。
うまくいえないが、今回の戦は、ただ国と国が戦ったというだけでなく、その背後にもう一つ別の、何かと何かのぶつかり合いがあったような気がする。
その激突の流れの中で、バルドも荒れ狂ったのだ。
今やその興奮はすっかり冷め、今回の会戦の総指揮を執ったのは自分ではない別の誰かだったような気がしている。
いずれにしても冷や汗ものだ。
バルドには中原の大軍を指揮するような能力はない。
今回の戦でも、戦略を立て、局地戦の指揮は執ったが、じつのところ全軍の指揮を執ったとはいいがたい。
ひとつ間違えばパルザムの王都といくつもの有力都市が
一週間もすると、歩くことも馬に乗ることもできるようになった。
十日目にバリ・トードがトバクニ山の温泉に連れて行ってくれた。
カーズとジュルチャガも同行した。
ドリアテッサも一緒に行きたいと言ったが断った。
行くとすれば混浴なのであるが、この国では未婚の女性が男性と共に温泉に行くのはふしだらな行為とみられると聞いたからだ。
ドリアテッサは毎日やって来た。
バルドが寝ているあいだも毎日来ていたという。
といっても一日中入りびたりなのではなく、仕事の合間を縫うように顔をみせていたのだ。
ドリアテッサは十人の教え子を持っている。
そのほかに五人の関係官吏がドリアテッサの授業を受けている。
ドリアテッサの役目は女性武官候補の教育である。
実際の武技の指導も行うが、それが中心というわけではない。
十人の候補たちは、女性が表立っては武道を学びにくいこの国で、一定以上の剣の腕を磨いてきた者たちである。
今後とも専門の師について剣の修行は続けてもらわねばならない。
ドリアテッサが教える実技は、場面に応じたその用い方である。
そもそもゴリオラ皇国においても女性武官は敵を倒す役目を持つわけではない。
男性武官が駆けつけるまでの時間を稼ぐのが主な役目なのだ。
また女性武官の主な役目は貴婦人の警護ではあるが、女性容疑者の取り調べや見張りも当然職分のうちである。
ゴリオラ皇国は暗殺大国である。
過去十人の皇王のうち暗殺で死んだ者が六人。
そのうちの半分で女性暗殺者が決定的な役割を果たした。
ドリアテッサは、そういう国で貴人の護衛の知識と方法をたたき込まれた武官なのである。
彼女が語る女性暗殺者の手の内を聞き、ゴリオラの皇宮の武器庫から借り出した暗殺用武器を見、その使い方の説明を受けて、武官候補や官吏は青ざめた。
官吏が同席しているのは、制度、装備、態勢について学び検討するためである。
女性用の鎧の素材や構造について。
鎧を装備できない場所での服装について。
各種装備について。
部屋の調度や馬車のカーテンその他について。
男性武官や侍女たちとの連携のあり方について。
身分の高い相手への対処の仕方について。
毒と薬や応急処置、茶などの飲み物についての知識といった、女性武官が学ぶべき事項について。
こうした点につき、ゴリオラでのあり方を学んだ上で、パルザムにふさわしいやり方を検討しなくてはならない。
パルザム側は非常に熱意ある態度で学習を進めているので、ドリアテッサがこの国にいるのは六、七か月程度になりそうだという。
シャンティリオンもよくやって来る。
バルドが目覚めてからは毎日といってよい。
激務のあいだを縫ってやって来る。
それがいつもドリアテッサの来る時間と一緒なのだ。
近衛隊長をしていたときの人脈を生かし、ドリアテッサのトード邸訪問を電撃のごとき
やや公私混同の匂いもするが、これも成長の一種であろう。
3
もともとドリアテッサは、あまり付き合いのなかった北の大国から来る高位の姫として騎士たちの注目を集めていた。
そんな彼女が
その日から大反撃が始まり、王都近くまで侵攻したシンカイ軍をまたたく間に追い返し、西方二都市を完全なパルザム統治下に置くことさえできたのであるから、ドリアテッサはまさに勝利の女神である。
その〈巫女騎士〉にして〈戦女神〉たるドリアテッサは、王宮での用務が順調であるため、一年もたたずに帰国する見通しであるという。
この素晴らしい女性を、みすみす国に帰してよいのか。
彼女を射止める
それは中原の華と呼ばれたこの〈天母神の乳を搾り固めし都 テーペータバール・エ・ライヒ〉の騎士が、北の
そんなことがあってよいのか。
いや、よくない。
天が与えてくれたこの機会を逃すようなことは、絶対にあってはならない。
ゴリオラとの交流がますます盛んになるであろうこのとき、かの国の名家の娘を
これは恋の戦いであり、単なる婚姻の話ではない。
だが裏技に出た者もいた。
何度目かにパルザム王国を訪問したドリアテッサの叔父、マノウスト伯爵ファルケンバーン・ファファーレン外務卿に婚姻の申し込みを行ったのである。
だがマノウスト伯は、ドリアテッサの父も兄も、ドリアテッサが他国に嫁すのは許さないでしょうが、いずれにしても本人次第ですな、と答えたという。
本人だ。
結局のところ、本人の心を射止めるかどうかに、すべてはかかっている。
ところがドリアテッサにはつけいる隙がない。
毎日女性武官候補たちへの指導を行い、シェルネリア姫の元に伺候し、激しい訓練を欠かさない。
時間の余裕というものがない暮らしぶりなのだ。
夜会への招待もことごとく断っている。
そんな彼女は毎日のようにトード邸を訪ね、バルド・ローエン卿を見舞っているという。
このころには、バルドがドリアテッサにとってどんな存在かが知られるようになっていた。
救い主であり、庇護者であり、剣の指導をして辺境競武会での総合優勝を成し遂げさせてくれた人物。
姫たちを通じて噂は広がっていたし、一部には〈バルド・ローエン卿偉績伝〉と題された写本がひそかに出回っていた。
原本の出所はさる公爵家であるともいわれている。
したがって、ドリアテッサが足しげく見舞いに通うのも無理はないのだ、と皆思った。
ということは。
バルド・ローエン卿に口添えをしてもらえれば、ドリアテッサ姫と親しくなる道が開ける。
たまたまドリアテッサ姫と会えるかもしれない。
ローエン卿の見舞いに行った者を彼女は憎まないだろう。
青年貴族たちはそう考えた。
だがバルドが眠っているあいだは訪ねようとしなかったし、目覚めたあとも体調の悪さが伝えられたので、その年のうちは平穏だった。
様子が変わったのは年が明けてからのことである。
ジュールラントにぜひにと乞われて、バルドは年賀夜会に出席した。
三国軍事同盟の総指揮官を務め、諸国戦争の勝利をもたらした立役者を、この
その姿を見て、ローエン卿は健康を取り戻した、と人々は思った。
かくして青年貴族たちの襲撃が始まった。
バルドがすでに連合元帥の職位を返上し、王臣でもなく無位無冠であることが、彼らを大胆にさせた。
シャンティリオンが早くからバルドの見舞いに訪れていることを知ると、彼らはいっそう奮い立った。
さすが神速の男。
急所を見抜く目と行動の素早さは並外れている。
しかし恋の戦に身分は関係ない。
勝利者になるのは自分だ。
と、彼らは思ったのである。
押し寄せたのは青年貴族たちだけではない。
多くの有力者たちがバルドの知遇を得たいと考えた。
何しろバルドは、ジュールラント王に顔が利く。
ゴリオラの皇王はバルドを英雄と呼んだ。
決戦にあってはガイネリアのジョグ・ウォード将軍が駆けつけた。
つまりバルドは三大国に大きな影響力を持つ騎士なのだ。
また、今は無位無冠であるとはいえ、その功績は
戦時中は邪魔をするわけにいかなかったが、今ならいくらでも会いに行ってよい。
そう考える者は、驚くほどの多数にのぼった。
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毎日津波のように訪れる自称見舞客たちに、バルドはすっかり嫌気がさしていた。
この館のあるじは依然として収監されているし、奥方は娘たちを連れて実家に帰った。
息子たちは縮小された領地にいる。
母屋は閉鎖され、使用人たちはごく少人数が残されていた。
ところがこの騒ぎで母屋も開放せざるを得ず、臨時の使用人を急きょ雇わざるを得なくなった。
馬車置き場の広さがまったく足りず、馬場にも馬車を止められるよう柵を一部壊し、さらに庭の木も切って通路を広げた。
バルド自身に用事がある者は用事が済めば帰るが、ドリアテッサにも会いたい者は帰ろうとしない。
彼らが過ごせる部屋とソファーが必要であるし、茶と菓子も出さねばならない。
ところがこの菓子が失敗で、この館の菓子のうまさを知った者は、ぐずぐずと居座って菓子のおかわりを求めるのである。
待っているうちに出会った相手と長話する者もいる。
相手がここにいるだろうと見当をつけて来る者もいる。
ひょっとしたら、わざわざここで待ち合わせをして、うまい菓子と茶を楽しみながら必要な協議をして帰って行く者たちもいるかもしれない。
もはやこの屋敷をローエン邸と呼ぶ者さえいる。
本当のところは、王の客としてこの屋敷に滞在しているだけなのであるが、使用人への指示はバルドが出すよりない。
バルドはゆっくり考え事がしたいのだ。
魔獣のこと。
マヌーノの女王のこと。
マヌーノの女王が〈腐れトカゲ〉と呼んだもののこと。
魔獣を〈作る〉ということ。
そのために必要らしい〈石〉のこと。
女王にそれを強制したらしい存在のこと。
〈パタラポザの暦〉のこと。
物欲将軍とその言葉についても考えたかった。
結局物欲将軍とは何者だったのか。
あの体と力はいったいどういうことだったのか。
なぜ何百年も生きることができたのか。
神獣というのは神霊獣のことなのだろうが、〈最後の神獣の剣の使い手〉とは何のことなのか。
〈五匹の神獣を取り込んでいる〉というのは何のことなのか。
たしか剣を食う、という言い方もしていた。
〈よごれていない剣〉というのはどういうことなのか。
〈いっそ貴様を殺しておくか。それもおもしろい〉、とやつは言った。
ということはバルドは殺してはならない相手だったのか。
〈やつはずいぶん喜んでいたな〉とも言っていた。
〈やつ〉とは誰のことであり、〈喜んでいた〉というのは何のことなのか。
考えたいことは山ほどあるのに、この国の馬鹿どもはその邪魔をする。
今も目の前で一人の青年騎士が、自分の家柄の良さと領地の素晴らしさを
聞けば聞くほどこちらの頭痛と怒りが増しているということに、こいつは気付いていないのか。
やっとその男が出ていったあと、バルドは思わず、あやつら、何とかならんものか、とつぶやいた。
するとジュルチャガが言った。
「手がないでもないよ」
5
「そこで、ゴドンの旦那はこう言ったわけ。
伯はご存じか。
卵を混ぜた炊きプランは、食べ物にはあらず、飲み物にござる。
それを聞いてクラースクの初代領主様も、バルドの旦那も大笑いしたってさ」
「はは、ジュルチャガ。
その話は何度も聞いたぞ」
「ドリアテッサ殿。
私は初めて聞きます」
「そのあとのハドル・ゾルアルス様の言葉が傑作なんだ」
ジュルチャガと、ドリアテッサと、シャンティリオンが、茶を飲みながら談笑している。
バルドもソファーに深く腰を下ろしてくつろぎながら、三人の話を聞くともなしに聞いている。
ハドル・ゾルアルス伯がバルドたちを訪ねて来たとき、ジュルチャガはリンツに向かっていて、その場にはいなかった。
だからジュルチャガがこのやり取りを知っているというのは、たぶんゴドンから聞いたのだろう。
カーズは立ったまま壁にもたれて話を聞いているが、その表情は穏やかだ。
話の内容によるのかもしれないし、今日は挑戦者がいないからかもしれない。
押し寄せる自称見舞客たちに対処するためジュルチャガが出した案は二つだ。
一つはドリアテッサ目当ての青年騎士たちに対してである。
バルドの息子であるカーズ・ローエンに細剣の勝負を挑んで勝った者には、ドリアテッサへの求婚をバルドが取り持つ。
そういう噂を流したのだ。
ただし挑戦できるのは一回だけで、代理人は認めない。
最初の一人は恐る恐る申し込んで来たが、バルドとカーズがあっさりとこれを受諾したため、申し込みが殺到した。
とうてい青年とはいえない年齢の騎士も混じっていた。
昨年の戦役で〈七勇士〉の一人としてカーズ・ローエンの武名は鳴り響いていたが、辺境競武会でシャンティリオンに負けたということも知られていた。
勝てるかもしれない。
そう思う挑戦者たちを、カーズは容赦なくたたきのめした。
二度と不心得を起こす気にならないほどに。
ここまで厳しくしなくても、もう少し軽くあしらってもよかろうに、とバルドに思わせるほど、そのやり方は手厳しかった。
なぜか挑戦者の名簿にはシャンティリオンの名もあったが、今度こそカーズは遠慮なくこの天才剣士を地にはわせた。
シャンティリオンの惨敗ぶりが噂になったのか、申し込みを取り消す者が続出し、やがて彼らは顔をみせなくなった。
もう一つはバルドの名声と影響力を利用しようと考えるやからに対してである。
なんとジュルチャガは、バリ・トードを通じて王命を発してもらった。
諸国戦争の大功労者バルド・ローエン卿は体調が思わしくないため、見舞いに制限をかけるというものだ。
一日の見舞いは五組までとされた。
一組は最大三人までである。
十日前までに予約をしなくてはならない。
予約名簿に名のない者は同席できない。
これをトード家の侍従頭が厳しく取り仕切った。
しかも面会時間は午後の入りの刻から一刻に限定され、五組と同時に対応した。
遅れた者は入館さえ許さなかった。
侍従頭はここが閉鎖されたあとはためた給金で悠々自適の生活をすることになっており、自分の評判など気にしなくてよかったのである。
大貴族たちは見舞いに来るのでなくバルドを自宅に招こうとしたが、すべて断っている。
そして、バルドがこの国に根を下ろすつもりはなく近々放浪の旅に戻る予定であることが知れ渡るにつれ、訪問の申し込みも少なくなっていった。
平穏を取り戻すことができたバルドは、ひどく落ち着いて満ち足りた気分になった。
実のところ体調は見る見る回復している。
毎日の食事がおいしくてたまらない。
昨晩のシュレイニという山鳥の蒸し焼きも素晴らしかった。
ソースが
子牛から取った肉のエキスに野菜などの汁と赤ワインと薬味酒を加えて煮込んだソースであるという。
カムラーは、その子牛を見ただけで、どの料理に合うソースが取れるかを見抜けるのだという。
たいしたやつだとは思うが、その言い方がいちいち腹の立つ言い方なのだ。
「軍にあって将は兵の資質を正しく見抜き、それぞれの特性が生きるような役割を与えるものと聞き及んでおります。
見ただけでその子牛の肉の質やだし汁の質まで見抜けなくて、どうして厨人頭が名乗れましょうか」
もう少し謙虚な言葉というものをはけないものなのだろうか。
だが料理は素晴らしい。
シュレイニは、非常に味が濃く、かみしめた風味は複雑で際立っているのだが、食べ続けて舌がなれると、ややばさりとした空虚さを感じる。
おそらくこれにおとなの牛から取ったソースをかければ、うまくはあるが、微妙な鳥の味はかき消されてしまっただろう。
おとなの牛から出るだし汁は、味付けをしなければあっさりしているように感じられるが、実は非常に強くてくせのあるだし汁であって、いわば頑強な金属全身鎧のようなものだ。
子牛からとるソースというのは、まったりとしていて口に含んだ瞬間の味は強いのに、あとを引かない。
料理を優しく包み込むような風趣をもっている。
いわば要所だけを軽く守る革鎧のようなものである。
子牛のソースを使うことによって、シュレイニのとがった味や、かすかな野趣が生きるのである。
昨夜はシーデルモントも同席し、カムラーの料理に舌鼓を打った。
シーデルモントは近頃王宮の書庫に入り浸っている。
上軍正将となったシーデルモントは、軍事記録についてはいっさい制限なしに閲覧ができる。
古今の戦いの記録をつぶさに研究しているのだ。
もともとシーデルモントは、パクラのような田舎にあって可能な限り各国の戦いの記録を収集していた。
陣形や戦法を研究するためである。
シーデルモントは、武芸においては攻勢というより守勢の人である。
つまり守りは堅いが攻めて勝つ力は強くない。
その代わり、戦術戦略に通暁し、多数の兵を縦横に率いる技術や駆け引き、戦いの流れを読む呼吸は、バルドよりよほど優れている。
この男に幾百人の騎士を与えて存分にその力をふるわせてみたいものだと、常々バルドは思っていた。
それが今回のパルザムからの招聘により図らずも実現した。
そして今は、王直轄軍の再編と訓練にいそしみつつ、パルザム王国に蓄えられた豊富な軍事記録を存分に読みふけっている。
要するにシーデルモントは、今や水を得た魚といってよい。
新たに発見した用兵術をうれしそうに語るシーデルモントをみて、バルドは目を細めた。
6
今日はシャンティリオンは来ていない。
部屋にいるのは、バルドのほかドリアテッサとジュルチャガだ。
カーズは革防具職人のニテイの工房に行っている。
いったんリンツ伯の元に納品されていた革鎧をあらためて王都に取り寄せた。
その微調整を頼んでいたのだ。
仲良く話すドリアテッサとジュルチャガを見ていると、あの滝のほとりの日々が思い出されて懐かしい。
ふとバルドは、あることを思い出した。
辺境競武会が終わって、ロードヴァン城を去る前のことである。
国元に帰ることになるドリアテッサに、バルドは大丈夫かと訊いた。
実の兄であるアーフラバーンがドリアテッサを一人の女性として愛している、そのことについての懸念である。
あのときドリアテッサは何と答えたか。
パルザムに行けば、一年か二年の時を得る。
それでも問題が起きるようなら、ジュルチャガが教えてくれた方法を採る。
本当によい方法を教えてくれた。
バルド殿たちには余計にご迷惑を掛けることになる。
まことにかたじけない。
パルザムでの女性武官候補たちの教育は非常に順調で、今年の六月か七月には終了しそうだとドリアテッサは言っていた。
そうすれば帰国することになるのだが、そのときジュルチャガが教えたというよい手段を採るのだろうか。
そもそもそのよい方法とは何なのか。
バルドたちに迷惑を掛けるという、その方法とは。
バルドはそれを二人に訊いた。
とたんにドリアテッサは赤くなってうつむいた。
ジュルチャガが説明した。
「ああ、あれね。
あれはね。
もうやっちゃったんだ。
え?
いやいや、大丈夫。
何の問題も起きなかったよ。
つまりね。
おいら、ドーラにこう言ったんだ。
アーフラ兄ちゃんには、私には好きな人がいます、その人と一緒になることが私の幸せです、って宣言しちゃったらどうかって。
そうしたら兄ちゃんは、案外認めて応援してくれるんじゃないかって。
ただし誰かってはっきり言ったら、それはそれで問題が起きるから、一行の中の誰かだとだけ言えばいいって」
一行、とはバルドたち一行のことだろう。
あのとき一緒だったのは、ドリアテッサのほかには、バルド、ゴドン、カーズ、ジュルチャガの四人である。
その四人のうちの誰かということになる。
なるほど。
方便とはいえ、そんなことを言えば、四人に迷惑を掛けることになる。
「で、あのあとね。
カーズと一緒にドーラは国に帰ったでしょ。
そのとき、そう言っちゃったんだって。
ところがみんなはあんまりびっくりしなかった。
みんな、っていうのはドーラの父ちゃんや兄ちゃんたちね。
どうもね。
辺境から帰って来たときに、好きな人が出来たって、ばれてたらしいんだ」
ふむ。
辺境競武会が終わったあと、ドリアテッサは国に帰った。
カーズはバルドの代理としてファファーレン家を訪問した。
そのとき、四人の中に好きな人がいる、とアーフラバーンに宣言したわけか。
ところがアーフラバーンは驚かなかった。
アーフラバーンだけでなく、父や兄弟たちも驚かなかった。
それは、それ以前に辺境で大赤熊の魔獣を討って皇都に帰還したとき、好きな人ができたということに、家族が気付いていたからだと。
なるほど。
む?
……な、に?
何だと。
すると、つまり、一行の中に好きな人がいるというのは方便ではなく、本当のことだというのか。
誰だ。
誰なのだ。
ドリアテッサの思い人というのは、いったい誰なのか。
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はっきり訊けばよかったのかもしれないが、それもためらわれた。
無神経な老人だと思われるのは構わないが、ドリアテッサを傷つけるのが嫌だったのだ。
どうもこういう事項には気が回らない。
バルドにとって恋愛の機微というのは苦手事項なのだ。
ドリアテッサはテラスに出て、庭と池を見下ろしている。
よい風が吹いているようで、だいぶ伸びてきた栗色の髪をそよがせている。
と、ドリアテッサが花を手折り、花びらをちぎって風に遊ばせた。
バルドは、はっ、とした。
風の神ソーシエラへの供物だ。
貴婦人が騎士に恋をしたとき、その騎士の守護神に供物を供え、機嫌を取る。
そうすれば守護神が騎士との恋を取り持ってくれるからだ。
今ドリアテッサが行ったのは、風の神への恋の
四人の中で風の神ソーシエラを守護神に持つ者は、誰か。
カーズだ。
カーズ・ローエンしかいない。
バルドの守護神は暗黒神パタラポザであり、ゴドンの守護神は大地神ケッチャ=リだ。
そもそもソーシエラは放浪の神、あるじにとらわれぬ神でもあるから、主持ちの騎士が守護神にすることはほとんどない。
ジュルチャガは騎士の誓いをしていないから特定の守護神はないが、頻繁に祈っているのは交易神エン・ヌーだ。
ソーシエラに祈っているところなど見たことはない。
ドリアテッサの思い人は、カーズだったのだ。
にこにこしながらドリアテッサの様子を見ているジュルチャガも、そのことを知っているに違いない。
シャンティリオン。
気の毒に。
いつの間にか、バルドはシャンティリオンが大好きになっていた。
挙措や、学問、武術、戦闘指揮などは洗練されて鋭いのに、いざ生きるということになると、妙に不器用で純な青年。
その不器用なひたむきさが、大好きになっていた。
バルド自身はついに歌うことのできなかった心からの恋歌を何のてらいもなく歌ったみせたその姿は、はた迷惑でもあり、的外れで不格好でもあった。
だがその堂々たる不格好さの、なんとまぶしく愛おしいことか。
その恋が実ってドリアテッサと結ばれることを、ひそかに祈っていたのだ。
身分や生き方の上で、二人は相性がよいように思える。
考えてみれば、いつぞやファファーレン家が名家であると知ってシャンティリオンが喜んでいたのは、そのためだ。
大家であるアーゴライド家にじゅうぶん釣り合う家なのだ。
美男美女で二人とも名剣士である。
本当にお似合いの二人だと思えたのだ。
しかもその場合パルザム国に嫁いでくることになるから、シェルネリア姫とも一緒にいられる。
みんなが幸せになれると思っていたのだ。
だが。
ドリアテッサの気持ちがカーズにあるとすれば、無理にシャンティリオンと結婚させることはできない。
もともとバルドが口を出すようなことではないのだが、ドリアテッサの望みがかなうよう、精一杯の応援はさせてもらいたい。
それにしても、ドリアテッサがカーズを。
あの無愛想を絵に描いたような男のどこを気に入ったのか。
うむむ。
だが、よくよく考えてみれば、あり得ないことではない。
カーズは無口ではあるが、心に正義を持ち、いちずな男だ。
そして本当のところはひどく優しい男だ。
ドリアテッサが辺境競武会で優勝できるようできるだけのことをせよ、というバルドの命を受けて、じつに厳しい稽古をつけた。
その厳しさはドリアテッサのことを思えばこそである。
たとえドリアテッサに憎まれようとも、カーズはドリアテッサに勝利を与えるべく、ぎりぎりの修練を強いた。
それこそが真の献身でなくて何だろう。
そしてまた辺境競武会の細剣部門でドリアテッサがシャンティリオンに敗れると、カーズは模範試合でシャンティリオンの技を引き出し切った。
そして惜しげもなく秘技をドリアテッサに教えた。
ドリアテッサにわずかでも総合部門戦での勝機をつかませるために。
自分がシャンティリオンとの試合に勝つか負けるか、人からどう思われるかなど気にもとめていなかった。
おのれの名誉など眼中にないほど、カーズはドリアテッサのことだけを考えていたといってよい。
そうしたカーズの振る舞いの意味に気付くだけの感性を、ドリアテッサは持ち合わせている。
自分を高みに引き揚げ、到底届かないはずの夢をつかませてくれたのが誰かを、ドリアテッサは知っている。
そこに思慕が生まれたとしても、何の不思議もない。
いや。
むしろ生まれないほうが不思議だ。
ここまで考えて、バルドはあることに気付いた。
もし。
もしドリアテッサがカーズと結婚したら、どうなる。
つまりそれは、バルドの義理の娘となる、ということである。
生まれてくる子はバルドの孫となる、ということである。
絶えるはずだったローエン家が続いていく、ということである。
思いもしなかった展開に、バルドは叫び出したいような気分になった。
だがしばらくのあいだ心の中で大騒ぎをしたあと、思い直した。
そして自分に言い聞かせた。
いやいや、落ち着け、バルド・ローエン。
馬鹿なことを考えるな。
自分の喜びのためにカーズとドリアテッサを結び付けるようなことは考えるな。
二人が幸せになることが大切なのであり、それ以外の動機を持てば、言葉は不純となる。
ここは自分の気持ちを抑えなくてはならない。
そうとして。
カーズはドリアテッサのことをどう思っているのだろう。
そういう疑問を持ったとたん、いろいろのことが思い浮かんだ。
なぜカーズはアーフラバーンと闘ったのか。
私を倒すほどの剣客ならわが父に会う資格があると言ったところ、アーフラバーンが挑んできた、とカーズは言った。
だが本当にそれだけだったのか。
むしろアーフラバーンの本音は、ドリアテッサを
それをカーズも感じ取ったからこそ、「念のため徹底的にたたきのめした」のではないか。
パルザムでの求婚者たちをおとなげなくたたき伏せたのも、ドリアテッサに言い寄る者たちに腹を立てたからではないのか。
つじつまが、合う。
考えてみれば、いろいろと符合する。
そうだったのか。
ドリアテッサはカーズのことを思っており、カーズもまたドリアテッサのことを思っているのだ。
だがカーズとドリアテッサは、お互いが思い合っているということは、知っているのだろうか。
知っているようにはみえない。
ふたりの様子を見ていて、そのあいだには距離がある、と思わざるを得ない。
となれば、わしがその橋渡しをするべきではないか。
いや。
バルド・ローエンよ。
要らぬ手出しは考えるでないぞ。
お前が取り持とうとした恋はことごとくつぶれてきたことを思い出せ。
静かに見守るのが一番じゃ。
そして、もしも二人が結ばれたら、自分は何をすればよいのか。
何ができるのか。
バルドはそう考えて、一つの着想を得た。
その場合には、パルザム王国で領地と爵位をもらおう、と。
それはカーズが、そしてその子孫たちが受け継ぐことになる。
となると、しばらくこの国にとどまって、二人の関係がどうなるかを見定めるのがよい。
バルドは、まだ見ぬ未来に思いをはせた。
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