第3話 魔獣来襲
1
魔獣の大群が北北東の方角から近づいていると物見から報告があった。
バルドは城壁の外にいる者を中に入れ、四つの門を閉じさせた。
ジョグ・ウォードとガイネリアの騎士たちは、遊撃隊として南門の外に待機させた。
そして北門の上で待ち構えた。
各門の前には石を積み上げてある。
といっても門をふさいでしまっているわけではなく、馬がじゅうぶんに出入りできるほどのすき間は残してある。
これはシロヅノの突進をふせぐためである。
石はどうしたかといえば、城の中に設けられた闘技場の内壁を崩した。
敵の陣容がはっきりしてきた。
シロヅノが約百匹。
青豹が約百匹。
耳長狼が約五十匹。
オオハナが約百匹。
そして大岩猿が約百匹。
近づいて来る彼らの目は赤い。
やはりすべて魔獣なのだ。
とてつもない強力な軍団である。
バルドは慌ててガイネリア軍を城の中に戻した。
こんな敵に突っ込んだら、七十人少々のガイネリア軍などあっという間に全滅する。
青豹と耳長狼がいる以上、馬の速度で逃げ切るという戦法も通用しない。
さらに魔獣たちの後方に、五十匹ほどのヒヨルドがいて、それぞれにマヌーノが乗っているのが確認された。
ヒヨルドは巨大な羽なし鳥で、ゲルカストは馬代わりに乗る。
持久力では馬に劣るが瞬発力では勝る。
そのヒヨルドの首に長い胴体を巻き付けて、マヌーノたちは騎乗している。
遠くから見ると、まるでヒヨルドの首が二つになったかのようだ。
バルドは背中がぞわぞわとあわ立つのを感じた。
こんな敵とまともにぶつかったら勝ち目はなかった。
それが城壁に守られた状態で、しかもある程度の準備をして迎え撃てるのだから、これ以上は望めないほどの条件だ。
トライ全滅の情報をすかさず知らせてくれたゴリオラ辺境騎士団長のおかげである。
三国の騎士たちの集合や準備が間に合ったのも幸運だった。
そして皮肉なことに、それはグリスモ伯爵のもたらした情報により可能となった。
グリスモ伯爵は祖国を滅ぼされた復讐のため、ジュールラントに恐怖を与えようとしてこの襲撃とその規模を教えたのだが。
この戦、つきがある、といえばある。
しかし、状況は厳しい。
あまりにも厳しい。
五百の魔獣とは聞いていたが、本当に五百に達するとは思っていなかった。
コルポス砦でも三十匹は殺したし、多少は削っているものと思っていた。
何より、五百匹と聞いてはいたが、それが一気に襲って来るとは思っていなかった。
五百匹も同時にはいくらなんでも操りきれない。
餌の確保も難しい。
だからいくつかの部隊に分かれているものと思い込んでいたのだ。
マイラオ城に三十匹が襲い掛かったという情報もあった。
それを個別に撃破していけばよいと。
いくらなんでも五百匹は多すぎるという思いもあった。
だが現実には五百匹が一斉に襲い掛かってきた。
なるほど、あちらの立場に立ってみれば、これが最も有効な方法なのだ。
コルポス砦のことを思えばよい。
あのとき、初めフクロザル十匹と青豹十匹が襲い掛かってきた。
その二種類の魔獣をほとんど倒したとき、シロヅノ十匹が襲ってきた。
結果、三十匹の魔獣を打ち倒せた。
だがもしも、あのとき青豹とシロヅノが同時に襲ってきていたら、どうだったか。
その場合、砦の外に出て戦うという選択肢は採れなかった。
非常に厳しい戦いを強いられただろう。
それどころか、シロヅノに門を破られたら、全滅していたかもしれない。
またあのとき、シロヅノはこちらが攻撃を仕掛けても無視して城門に突進した。
魔獣の本能からすれば、人間を見れば襲い掛かってくるはずなのに。
つまりマヌーノの命令は本能を抑えさせるほどのものだった。
あれもたぶん一つの実験だったのだ。
人間のほうに襲い掛かってきていたら、こちらも無傷では済まなかった。
だが注目すべきはそこではない。
コルポス砦の戦いで、シロヅノは結局最後の一頭が死ぬまで、城門への突進を繰り返し続けた。
これこそがもっとも恐ろしい。
魔獣の本当の手強さは、その強靱な肉体と攻撃力にはない。
どこにあるかといえば、命を惜しまないということにある。
どんな生き物も、いよいよのところでは死を嫌う。
耐えきれないような傷を負うことを嫌がる。
つまり、ある程度痛めつければ引いてゆくものなのである。
ところが魔獣化した獣は、傷も痛みも死さえも無視して、命の最後まで人間を憎み、ただ攻撃を続ける。
マヌーノたちは遠く後方で停止し、魔獣たちだけが城に近づいて来る。
これほどの数の魔獣が群れをなして迫ってくるなど、おそらく歴史にもないことだろう。
そしてマヌーノたちに率いられたこの五百匹の群れは、魔獣の手強さを備えつつ、指揮に従って戦う軍団なのだ。
どのような戦いになるか、正直バルドにも見当がつかない。
分かるのは、それが恐ろしく
であればこそ、バルドは強い気力を持たねばならない。
指揮官の気力こそが、少しでも多くの兵を生き残らせる鍵となるのだ。
バルドは大きく息を吸って、魔獣の群れの動きを見守った。
魔獣たちはまっすぐ北門めがけて前進して来る。
シロヅノが先頭だ。
シロヅノは鹿の一種であるらしいが、見た目はむしろ筋肉質の馬である。
頭部にあるハンマーのような形をした角は、魔獣でなくても騎士を一撃で昏倒させる威力がある。
魔獣のシロヅノが百匹もいるのだから、まともに突撃させたら、さしもの頑丈な門もたちまち砕き破られてしまうところだった。
魔獣たちが停止した。
今城壁の上には弓手がずらりと並んで攻撃命令を待ち構えている。
中央にはクロスボウ十台を配置した。
射手はパルザム辺境騎士団から選抜した。
結局オーロは三百二十本の矢を用意してくれた。
やじりは
両側に彫られた溝にはたっぷりとズモルバスの毒が塗布されている。
その両脇ではファファーレン家の従卒が三十名ずつ長弓を持って待機している。
これも最初に使うのは毒塗りの矢ばかりである。
毒塗りの矢には印が付けてある。
回収のときの混乱を避けるためだ。
さらにその横には弓が得意な騎士や従騎士を左右に三十名ずつ待機させている。
その位置からは北門前の魔獣は狙えない。
彼らは交代要員なのである。
城壁の高さは二十歩ほどである。
魔獣たちの先頭は、まだ城壁まで二百歩はあるだろう。
よく訓練された射手なら届かなくはない。
だが有効な打撃は与えられないだろう。
最低でも百歩、できれば五十歩の距離で集中射撃を行いたい。
弓は敵が密集している状態で大量に使用してこそ効果がある。
いぜん魔獣たちに動きはない。
じっとこちらを見ている。
これだけの猛獣がいてまったくうなり声も上げないというその異様さが、空気をなおさら重くしている。
バルドは周りの兵士たちを見回した。
皆ひどく緊張している。
「魔獣さんたち、近づいて来ないねー。
ちょっと怖がらせすぎちゃったかな」
と、ひどくのんびりした声を上げたのはジュルチャガである。
間髪を入れずこれに応じたのはアーフラバーンだった。
落ち着き払った声で、こう言ったのである。
「そのようだな。
やむを得ん。
お前たち。
笑え」
魔獣たちが怖がって近づかないから、笑顔を見せて怖くないと思わせてやれ、という指示である。
この妙ちきりんな指示を理解するにしたがい、城壁上の兵士たちに笑いが広がり、やがて皆で大笑いした。
兵たちの硬さが取れたので、バルドはほっとした。
そのとき、魔獣たちに動きがあった。
2
後ろから大岩猿たちが出てきたのである。
身長は人間と同じほどあり、体はずんぐりしている。
首はあるのかないのかはっきりしないほど胴体に食い込み、胸は異様に厚く、腕は巨大だ。
その腕力は人間の頭など軽くつぶすほどだ。
その大岩猿が魔獣化しているのだから、力の強さたるや想像するのも難しい。
猿たちは雄叫びを上げながら手と足を使って襲い掛かってきた。
バルドはクロスボウ部隊の指揮を執る騎士マイタルプに、おぬしの判断でいつでも攻撃を始めよ、矢は使い切ってよいぞ、と命じた。
どのみちクロスボウ一台につき三十本ほどしか矢はない。
シロヅノ用に取っておきたい気持ちもあったが、出し惜しみして使い時を失うのが一番つまらない。
アーフラバーンにも弓隊の攻撃開始判断は任せた。
マイタルプは、我慢強い男だった。
大岩猿たちが積み上げた石の場所に迫るまで、発射の合図を待ったのである。
「クロスボウ部隊っ。
撃て!」
十本の凶器が魔獣に放たれた。
近距離で使うこの改良クロスボウはとてつもない威力だ。
百匹の大岩猿に対してたった十本の矢ではある。
しかし、その効果は目覚ましいものだった。
どすどすと音を立てながら、すべての矢は大岩猿に突き立った。
それは猿たちの動きを止め、わずかながら後ろに吹き飛ばしさえした。
ある猿など頭部に二本の矢を受け、後ろにひっくり返ったほどである。
兵たちから歓声が上がった。
この様子を見届けてから、アーフラバーンは命令を発した。
「長弓隊。
矢を取れ。
構え。
撃てっぇぇ!!」
弓を構えて待機すれば射手の消耗は激しい。
だからぎりぎりまでリラックスさせておいて、よどみなく一連の号令を発したのだ。
号令と号令のあいだにはほとんど時間がないが、さすがに練度の高い射手たちはこともなげに矢を取りつがえて発射した。
六十本の矢が魔獣たちに降り注いだ。
大岩猿たちは、まっすぐ門に突撃してくるかと思いきや、積み上げた石の所で足をとめ、なんと石を拾い上げて投げつけ始めた。
前のほうの猿たちには、一匹に対して何本もの矢が命中したが、さすがに改良クロスボウほどの貫通力はなかった。
矢の多くは突き刺さらずに落ちたのである。
しかしそれでも、確実にいくばくかの毒を、魔獣の体に流し込んだはずである。
「以下、めいめい連続して攻撃せよ!」
と、アーフラバーンの号令が響く。
射手たちは矢立から次々に矢を抜いて射ていく。
その矢継ぎの早さは練り込まれたものである。
一方のクロスボウ部隊も、二の矢を放ち始めた。
クロスボウには、それぞれ後ろに一名の従卒が控えていて、替えの矢を渡して巻き上げを手伝う。
訓練を重ねただけあって、まごつく者はいない。
猿たちの投げた石は、始め重すぎたため門や城壁に当たるばかりだったが、ここで一つの石が長弓の射手一人に命中し、射手を吹き飛ばした。
吹き飛ばされた射手は城の中庭に落ちた。
恐らく命はない。
バルドは、最初の弓隊は鎧を着けた者たちにすればよかったかと、一瞬後悔した。
ファファーレンの従者による弓隊は、ずきんと軽い兜を着けているばかりなのである。
しかし、この射手たちでなければこれほどの正確で密度の高い連続射撃はできない。
矢と石の凄絶な撃ち合いになった。
魔獣たちの投げる石は、すさまじい音を立てて城壁を削る。
いくばくかは城壁の上の人間に命中し、手痛い打撃を与える。
いっぽう射手たちは隣の射手の頭がつぶされようが、体ごと吹き飛ばされようが、ただ矢を射続ける。
赤い目をして狂気を帯びた大岩猿たちは、見る見るハリネズミのように体中に矢が刺さっていく。
それでも魔獣の強靱な生命力は、彼らの心臓になかなか止まることを許さない。
射手が倒れると、アーフラバーンはそこに予備の弓兵を埋めていった。
その命令の様子はいっそひょうひょうとしており、すぐそばを石が飛んでいこうが、部下の頭がはじけ飛ぼうが動じもしない。
バルドもそうだ。
飛んでくる石を見極めかわしながら、じっと魔獣たちをにらみつけている。
ザイフェルトも部下たちに待避の指示や物資補給やけが人の治療の指示を出しながら、少しも焦った表情をみせない。
もちろん、彼らは心の底から平然としているわけではない。
悲しみや怒り、不安や後悔のない人間などいない。
飛び交う巨石に恐怖を感じない人間などいない。
しかし平然とした振りをすることは、指揮官の仕事なのだ。
指揮官の仕事の九割は動じていない振りをすること、といってもよい。
勝利に対する確信をみじんもゆるがせず、常に冷静に判断と命令を下す存在であると、兵たちに信じ込ませるのだ。
それができない指揮官は、どれほど武技に優れ、高度な戦術を覚えていても、けっして兵士を死地に進ませることはできない。
クロスボウのうち三台は投石につぶされ、残りの七台も、三百二十の矢を撃ち尽くした。
城壁の張り出し部分は、門の真上辺りの位置ではがたがたに崩れ、ひどく見晴らしがよくなってしまった。
大岩猿たちは、積み上げられた石を投げ尽くしてしまい、門扉のすぐ前まで進んで来て、一度投げた石を拾って投げ始めた。
この時点で倒れている猿は十匹少々。
やはりズモルバスの毒は効き目が遅い。
ここまで近づけば、次の手が使える。
ザイフェルトに目で合図を送る。
ザイフェルトの指示で、油の入った壺が猿たちに投げ落とされる。
壺は割れ、猿たちは油まみれになってゆく。
用意された火矢が放たれ、猿たちは火だるまになって転げ回った。
そのさなかにも矢の雨は降り続ける。
やがてすべての猿が動きをとめて横たわった。
毒とやけどで動きが鈍くなったところを、弓の名手たちが目や喉を射て倒したのだ。
時間にすれば驚くほど短時間の攻防だったはずだが、密度は高かった。
死者十八名、負傷者三十一名。
矢は備蓄の二割強を消費した。
まさか接近戦が始まる前に犠牲者が出るとは思ってもいなかった。
だが大岩猿約百匹を全滅させることができた。
夕闇が迫ってきた。
もうすぐ日が落ちる。
コルポス砦では、魔獣たちは夜のあいだは襲ってこなかった。
だが今日もそうであるとは限らない。
長い夜が始まる。
3
魔獣たちのうなり声が響いている。
大岩猿の魔獣が突撃してきたあいだに、後ろの獣たちはうなり声を上げ始めていた。
吠えずに、ただうなるのである。
それは夜の闇が辺りを覆っても、ずっと続いている。
バルドは城壁の上の崩れかけていない場所から闇をにらんだ。
そこには魔獣の大群がいる。
バルドも見たことはおろか想像もしたことのないほどの大軍だ。
思わず知らず、バルドは腰の古代剣に手をやった。
そのとき、古代剣のつかを握る手が、ちりちり、とうずいた。
兵士たちの一部はひどく消耗している。
大岩猿たちの突撃は、彼らの精神を相当に痛めつけたようだ。
魔獣は、撃っても撃っても死なずに起き上がり、攻撃を続ける。
恐ろしいほどの怒りと憎しみを、人にぶつけてくる。
知識で魔獣というものを知ってはいても戦ったことのない者にとって、魔獣は地獄の悪鬼そのものだ。
無謀ともいえる大岩猿たちの突撃は、守備兵たちの心に確かなくさびを打ち込んだ。
そして、このうなり声である。
今にも襲い来るかと思わせつつ、矢の届かない距離でうなる魔獣たち。
城壁に灯した松明の明かりでぼうっと闇の中に浮かぶ彼らと、
この城ごと、この世でない別の場所に運ばれてしまったかのような錯覚さえ覚える。
守備兵たちは休むこともできず、いよいよ消耗していくだろう。
城の中の非戦闘員たちの不安も募る。
「旦那、旦那。
あったかいスープ持ってきたよ」
バルドは礼を言ってジュルチャガから器を受け取った。
兵たちも交代で休憩し、食事を取り休むようにさせている。
こういうときは、少々図太いくらいのほうがよい。
いい例がジョグ・ウォードだ。
城壁の中に戻されたジョグは、では当分俺たちの出番はないなと言い、部下たちにさっさと食事を取らせた。
自分自身も食事を済ませると、鎧を着けたままごろりと寝転んでぐうすか寝息を立て始めたらしい。
部下たちも将軍を手本にくつろいで休憩を始めたという。
これを聞いたバルドはあきれもし、感心もした。
そして、非戦闘員たちに食事を作り、自分たちも食べ兵士たちにも配るよう命じた。
何かすることがあったほうが気が紛れるし、温かい食事は気持ちを落ち着け体力を養う。
長丁場の戦いになると思われるから、交代で睡眠も取ったほうがよい。
そのようにザイフェルトとアーフラバーンにも命じた。
今日は一つしか月が出ていない。
〈
サーリエは、〈
そのうえ今夜のサーリエは細い三日月だ。
暗さは人間の不安を高める。
いや、不安だけではない。
実際に物が見えにくいのだから、人間の戦闘能力はぐっと低下する。
そして敵には耳長狼と青豹がいる。
夜は彼らの時間なのだ。
そんなことをバルドが考えていた矢先、赤く光る多数の目がものすごい速度で城に近づいて来た。
ザイフェルトが兵たちに警告の声を掛け、休んでいた者たちも戦闘配置につけた。
4
やって来たのは耳長狼と青豹だった。
シロヅノは夜は活動しない。
オオハナも、夜はあまり活動しない。
それに対して耳長狼と青豹は夜こそ真価を発揮する獣だ。
襲い来るかと思ったが、そうではなかった。
北門近くに広く散開してうろつきながら、吠え声を上げ始めたのだ。
これでは寝ている者も起きるだろう。
非戦闘員たちにはつらい夜となりそうだ。
近づいて来る獣もあるから威嚇のつもりでアーフラバーンが時々射掛けさせるが、有効な攻撃にはならない。
ほとんどの魔獣は弓の有効射程の中には入ろうとしない。
もはやこちらの手の内は見切ったといわんばかりに。
よくもこんなに吠え声が続くものだと妙な感心をしながら、バルドは漠然とした不安に駆られていた。
何かが、何かが、心のどこかに引っかかっている。
大事なことを見落としているような気がする。
「アーフラ
「その呼び方はするな。
何だ」
ジュルチャガとアーフラバーンが、先ほどから気の抜けるようなのどかな会話をしている。
獣たちの吠え声の中ではあるが、なにしろバルドの真横で会話しているのだから、よく聞こえる。
近くの兵たちにも聞こえるだろうに、ジュルチャガの口調はこれでよいのかと思う。
だがジュルチャガは恐ろしいほどに空気を読める男だ。
そのジュルチャガがこうしているのだから、まあいいのだろう。
「アーフラ兄ちゃん、昔フクロザルを飼ってたんだって?」
「うむ。
皇都では猿は珍しくてな。
フクロザルは小さいときは実にかわいらしいから、貴族の女性には欲しがる者が多い。
ドリアテッサの土産にもらってきたのだが、あれは生き物を飼うことに興味がなかったようでな。
結局私が育てた」
「アーフラ兄ちゃん、けっこうまめだね。
フクロザルって頭いいよね」
「だからその呼び方はするな。
うむ。
芸もよく覚えるし主人には忠実だからな。
大きくなってからは庭に放って
「フクロザルって、道具も使うしね。
前にね、森から来たフクロザルがさ。
村の家に入り込んで、かめを木の棍棒でたたき割って、中の芋を持ってっちゃったんだ」
「はは。
それぐらいはするだろうな。
うちのフクロザルはドアの開け閉めができたぞ」
「アーフラ兄ちゃんの育てた猿だったらさあ。
やっぱりすごく偉そうな猿だったんだろうね」
「それ以上無礼な口をきくと、斬るぞ」
「へー。
おいらを斬れるほど上達したんだ。
頑張ったね、アーフラ兄ちゃん」
聞きながら、バルドは自分の顔が青ざめるのが分かった。
猿だ。
フクロザルがいない。
昼やって来た魔獣たちの中に、フクロザルがいなかった。
コルポス砦を襲った魔獣の中にはフクロザルもいたが、それは全滅させた。
ジョグ・ウォードが撃退した魔獣の中にもフクロザルがいたというが、そちらは全滅まではさせられなかったという。
ならば、他の砦を襲った魔獣の中にもフクロザルはいたのではないか。
それなのに、ここには一匹もいない。
では、今どこにいるのか。
西門に変事があったことを告げる太鼓の音が聞こえてきたとき、バルドはおのれの失敗を知った。
5
フクロザルが城の中に侵入してきたのだった。
西門と南門のあいだの手薄な場所で、城壁をよじ登ったようだ。
バルドは、フクロザルが来るかもしれないと警告を発して見張りを密にしておくのだった、と後悔した。
といっても、ロードヴァン城は広すぎて、とても城壁を網羅するだけの人間も松明も手配できなかったのだが。
フクロザルを最初に発見したのは非戦闘員の住人だった。
二十匹ほどのフクロザルは、悲鳴を上げる住人を無視して走った。
西門に。
この城では北門と南門は大きい。
北門など、入り口の扉が三重構造をしていて、さしもの魔獣にもそうそうは破られない安心感を与えてくれる。
西と東の門は小さい。
板の開き戸になっていて、かんぬきで閉ざし、つっかい棒で補強する。
その西の門を、猿たちは開けた。
北門前で威嚇行動をしていた耳長狼たちと青豹たちは、まるで申し合わせたかのように、突然西門のほうに走った。
バルドたちは城壁から降り、馬で移動した。
松明の配置してある城壁沿いにバルドたちは走った。
バルドたちより早く移動を開始した耳長狼と青豹の魔獣たちは、すでに西門から侵入を開始していた。
だが、ジョグ・ウォードがいち早く駆けつけて、西門を閉じることに成功していた。
これは大殊勲である。
バルドが西門に到着したとき最初に目に入ったのは、ジョグの獅子奮迅の戦いぶりだった。
数人の兵士が西門を必死で押さえ込み、丸太のつっかい棒を置き、
コリン・クルザーと何人かの騎士が作業をする兵士たちを守って、魔獣を牽制している。
その前でジョグがたくさんの魔獣をたった一人で相手している。
いや、一人でというのは正しくない。
その周りでは騎士たちが魔獣と戦ってはいるのだ。
だがジョグの周りには誰も近寄れず、そのジョグを驚くべき数の魔獣が取り囲んでいる。
ジョグは全身を黒い鎧で包み、頭には兜をかぶらず、黒い大剣を縦横無尽に振り回している。
魔獣が次々に飛び掛かるのだが、そのことごとくをはね飛ばしている。
まさに、〈
ジョグの体にかみつき、あるいは爪を立てる魔獣もいるが、ジョグは体の回転力でふりほどいてしまい、剣ではじき飛ばす。
はじき飛ばされた魔獣たちは、悲鳴を上げて大地にたたき付けられながらも、すぐに起き上がってまたジョグに襲い掛かる。
炎に引き寄せられる
すさまじい加速をつけて振り回され続ける黒い大剣は、委細構わず魔獣を吹き飛ばす。
頭を砕かれた魔獣もいる。
足を折られた魔獣もいる。
今しもバルドの目の前で黒剣の直撃をくらった青豹は、外壁にたたき付けられ、きゃいんと鳴いた。
魔獣であることを忘れ、一瞬かわいそうに思ってしまった。
おそらくこのとき侵入した魔獣は、耳長狼二十匹ほどと青豹十匹ほどだった。
ジョグのこの後先考えない無茶苦茶な戦いぶりは、無論わずかな時間しか続かない。
だが貴重な時間を稼いでくれた。
バルドは馬を下り、古代剣を抜き、魔獣たちに襲い掛かった。
古代剣を握る手が、ちりちり、とうずいた。
他の騎士たちも次々に到着し、参戦した。
魔獣を一振りで絶命させるバルドは、見る者の度肝を抜いた。
しかしこのとき最も恐るべき活躍をみせたのは、カーズ・ローエンである。
魔剣〈ヴァン・フルール〉を抜いたカーズは、この暗がりの中で迷いもなく素早く動き獣たちを斬った。
ほとんどの場合首をなぐか心臓を一突きにする正確な剣さばきで、あっという間に魔獣たちを葬るそのわざは、のちのちまで辺境騎士団での語りぐさになる。
アーフラバーンも、魔剣〈
北門での指示を終えてからバルドの後を追い、遅れて着いたザイフェルトは、素早く状況を把握すると、部下を率いてフクロザルたちの侵入地点に急行した。
これ以上の猿を城壁の内側に入れないためであり、すでに中に入った猿どもを探し出して殺すためである。
フクロザルそれ自体の攻撃力は、さほど脅威ではないが、非戦闘員たちを襲われてはたまらない。
またザイフェルトは、西門の周りで吠えている魔獣たちに油を掛けて焼き殺せ、と命じた。
状況は落ち着きつつあり、バルドはほっと息をつきかけた。
だがこのとき、北門の方角から異常を知らせる鐘の音が響いた。
シロヅノたちが、北門に突撃を始めたのである。
6
バルドが北門に引き返したとき、騎士マイタルプの指揮のもと、弓兵たちが攻撃を開始していた。
だが暗くもあり、弓兵たちも日中の戦闘で疲労しているため、攻撃の勢いは強くない。
シロヅノの魔獣の硬い表皮には、少々の矢などでたいした痛手は与えられない。
それでもありがたいことに、毒を仕込んだ矢がまだ残っていた。
バルドはマイタルプに、矢でシロヅノを倒そうと思わず、百匹全部に毒を打ち込むつもりで矢を射るよう指示した。
そしてこの暗さの中では無理な注文ではあるけれども、硬い頭部ではなくできるだけ胴体部分を狙うように命じた。
それにしても恐ろしい音と振動である。
北門の近くには大岩猿の死体が折り重なっていた。
その死体は相当邪魔なはずだ。
シロヅノは夜にはよく目が見えないはずであるから、なおさらである。
現に大岩猿の死体につまずいて倒れるシロヅノも多い。
それでも足が折れるのもかまわないとばかりにシロヅノは突撃してくる。
扉といわず石の城壁といわず、百匹のシロヅノが狂気の猛突撃を繰り返している。
その足音は怒濤のようであり、その激突音は絶え間なくたたき付けられる地獄のハンマーだ。
歴戦の勇士でも怖じ気をふるわずにいられない恐ろしい音だ。
ほどなく第一の門扉が破られたという報告がきた。
バルドは一瞬、槍を装備した騎士隊を東門から出してシロヅノたちを攻撃しようか、と考えた。
だめだ。
後ろに控えているはずのオオハナたちが襲い掛かってくるだろう。
オオハナはひどく頑丈な鼻と鋭い牙を持つ大型の猪で、突撃速度が異常に速い。
馬に乗ったままでは戦いにくい相手である。
オオハナに手こずっているうちに西門の外で騒いでいる耳長狼と青豹がやって来たら、外に出した騎士隊は全滅する。
見ればザイフェルトは北門の内側に石を積み、大盾を持った騎士をその内側に配置している。
いい判断だ。
第二の門扉と第三の門扉のあいだにも石が積まれてあるから、シロヅノたちも一度にたくさんは入って来れない。
バルドは覚悟を決め、ザイフェルトに指示を出した。
シロヅノを食い止めようとは思わず、大盾を並べて突入方向を誘導する。
ありったけの槍を用意し、この北門前の広場に
そのように布陣せよと。
毒矢がなくなった時点でいったん弓の攻撃はやめさせた。
北門の上部はいつ崩れるか分からない状態なので、左右に避難させた。
接近戦のできない従卒たちは、とにかく弓を持って城壁に登るように命じた。
非戦闘員のうち若い男たちには矢の運搬を手伝わせた。
それ以外の非戦闘員は城の中にこもり固く扉を閉ざすよう命じた。
そのとき、第二の門も破られたという報告が来た。
バルドは油を城壁の外側に振りまくよう命じた。
もう昼に使った小振りの壺がないため、大きな壺を運ばせた。
壺の一つは魔獣たちの突撃で城壁が揺れたため、城壁の上で割れてしまった。
だが構わず壺の中身を、城門を破ろうと押し寄せるシロヅノたちの上にぶちまけた。
油をかぶってしまった兵たちを遠ざけてから、火矢を射掛けさせた。
夜の闇の中に炎が吹き上がった。
魔獣たちが憤怒の叫びを上げる。
火だるまになりながら絶叫するその姿は、地獄の王の使いというにふさわしい。
バルドは広場に降りた。
この広場にとげ付きの柵を作らせておけばよかったと思いながら。
よい知恵というのは手遅れになってから思いつくものだ。
ジュルチャガが差し出した水を飲んだ。
体に力がよみがえってくる。
ジョグがやってきた。
鎧はぼろぼろだ。
顔にも魔獣の爪痕が幾筋も残っており、乱暴に拭き取った血の残りと新たに流れる血が生々しい。
やはり水を飲んでいる。
いや、水ではない。
なんと蒸留酒を水筒に入れていたようで、ぷうんと酒精の匂いがした。
バルドの視線を勘違いしたのか、
「じじいもやるか」
と水筒を差し出してきた。
受け取って、ごくりと飲んだ。
きつい酒である。
喉が焼ける。
腹がかあっと熱を持つ。
水筒をジョグに返したとき、最後の門が破られたという声が聞こえた。
いよいよ最後の決戦だ。
だが魔獣の数は戦える人間の数より多い。
勝つことは難しい戦いである。
だが敗北して死ぬとしても、削れるだけ魔獣の数を削る。
それが今の自分に与えられた使命だ、とバルドは思った。
それから地獄のような戦いが始まった。
大盾で誘導されながら次々に飛び込んで来るシロヅノ。
ジョグとカーズとアーフラバーンとザイフェルトが待ち構えて前脚に斬りつける。
城門の狭いすき間を押し合いながら侵入してきたシロヅノには、突進速度は欠けている。
しかしその巨大で暴力的な姿を前に、平然と立ちはだかって、しかも一撃で脚にダメージを与えられるのはこの四人だけだ。
脚にけがを負った魔獣は、槍部隊多数が取り囲んで一斉に攻撃する。
魔槍を持ったナッツが活躍していた。
魔槍は全部で六本しかない。
もう何本か魔槍があれば、とバルドは思った。
意外にバトルハンマーが有効打を与えている。
最初の十匹少々はよかったのだが、死にかけたシロヅノがそこここでのたうっている状態になると、足場が悪くなり、転倒したり魔獣の攻撃をかわしそこねる者が出始めた。
カーズも疲労から目に見えて技の切れが落ちてきた。
ジョグは一度シロヅノに吹き飛ばされたが、起き上がると何事もなかったかのように戦線に戻った。
ザイフェルトは足を負傷して後ろに退いた。
次々に味方が魔獣にはね飛ばされ、踏みつけられ、押しつぶされて死んでいくのを見た。
それでも勇士たちはひるまず戦い続け、魔獣を食い止めた。
バルドも広場に降り、後方で陣形の指揮を取りながら、魔獣を迎え撃った。
古代剣は恐るべき攻撃力を与えてくれるが、防御力はただの老人である。
幸い優れた鎧が致命傷は防いでくれるものの、何度も魔獣の突進を受け損ねては転倒した。
鎧も次第にゆがみ、傷ついていった。
古代剣を握る手が、ちりちり、とうずいた。
やがて毒の効果が現れ、魔獣の動きがにぶっていった。
炎で体力を削られてもいたろう。
こうしてシロヅノの攻撃が終盤にさしかかったころ、北門の上部の城壁が崩れ落ちた。
これによって外にいるシロヅノは侵入できなくなった。
物見が何かを叫んでいる。
このころにはそれまでの騒乱でバルドの耳はほとんど聞こえなくなっていた。
城壁に登ると、オオハナの群れが押し寄せてきていた。
両翼の城壁には弓兵と大量の矢を上げているのだが、指揮官がいない。
バルドはありったけの矢を射るよう命じた。
馬場頭を始め知った顔が何人かみえたので、倉庫からどんどん矢を運ぶよう命じた。
オオハナは積み重なったシロヅノの死体とがれきが邪魔で侵入できない。
よい的だ。
だがオオハナの毛皮は硬く、矢はなかなか刺さらない。
そうしていたところ、左の方から回り込んできた耳長狼と青豹ががれきの上を走り越えて突入してきた。
重い。
体が重い。
この鎧は高い防御力を持つが、長期戦を戦うにはバルドにとって重すぎた。
階段を降りようとしたら誰かが盾を差し出したが、断った。
もう盾を構えるような力は残っていなかったからだ。
それでもバルドは、古代剣を抜いて耳長狼や青豹たちを斬っていった。
事態は完全な乱戦であり、事ここに至れば指揮は要らないしできない。
そこここで騎士たちが魔獣を倒し、そして魔獣に殺されている。
ここからあとのことは、よく覚えていない。
地獄の中で、バルドは戦い続けた。
どれほどの時間がたったろうか。
気が付けば、倒すべき敵がいなくなっていた。
広場は血と死体で埋め尽くされていた。
バルドの体中に、屠った魔獣の臓物と血が張り付いていた。
勝った、のか?
わしらは、勝ったのか。
呆然とたたずむバルドの腕を誰かが引いた。
うながされるままに城壁のほうを見ると、何やら物見の兵が大きな身振りをして騒いでいる。
体を両側から支えてもらいながらバルドは城壁に登った。
そして、物見の兵が指す方角を見た。
そこにはすべての希望を打ち砕く光景があった。
夜明けの地平線をこちらに向かってやって来るものがいる。
川熊だ。
川熊の魔獣だ。
数は二百を優に超えるだろう。
移動の遅い川熊は、遅れて到着したのだろうか。
川熊の魔獣ほど手強いものはない。
その皮の硬さと攻撃の通りにくさ。
その手の破壊力と戦慄すべき顎の力。
崩れてしまった北門では、この新手の群れを食い止めることはできない。
何しろ川熊は木登りも得意だ。
この程度のがれきは造作もなく乗り越えるだろう。
もう騎士たちに戦う力は残っていない。
カーズもジョグもアーフラバーンもザイフェルトも、
もうこの城には戦力がないのだ。
しかも眼下には生き残ったオオハナたちが目を爛々と光らせている。
体中に矢を突き立てながらも、その強靱な生命力は尽きず、人間を殺せる時を待ち構えている。
終わりじゃな。
やるだけはやった。
とそう思った、そのとき。
バルドの中で、炎が燃え上がった。
こんなことで終わってたまるか。
わしの命と引き替えにしてでも、こやつらを葬る。
何の根拠もなくそんな思いだけが腹の底から吹き上がってきた。
そのとき、それまでにないほど強く、古代剣を握る手がうずいた。
そういえば、いつからだろう。
古代剣を握る手がちりちりとうずくようになったのは。
まるで何かを知らせるように。
まるで何かを求めるように。
思わず古代剣を持ち上げた。
もう持ち上げる力さえ残っていないと思っていたのに、剣はすうっと持ち上がった。
それ自身の意志であるかのように。
その平たく断ち切られた剣先を、バルドは迫り来る川熊の魔獣たちに向け。
喉も裂けよとばかりに叫んだ。
スタボローーーーーーーース!!!!
城の反対側にいた人にもその声は聞こえたという。
そのバルドの叫び声を受けて、古代の魔剣に光がともった。
見る見るその光は巨大な光玉となり、昇りかけた太陽を圧するほどの輝きを放った。
そして巨大な何かが剣から飛び出して、まっすぐ魔獣たちの元に向かった。
それは竜であったと言う者もいる。
いや馬であったと言う者もいる。
とにかくその場に居あわせた者たちは、それを見た。
バルドから発せられた光の柱が魔獣たちを直撃し、爆発的な閃光を発するのを。
閃光が収まったとき、バルドは薄れゆく意識を必死に保ちながら、魔獣たちがどうなったかを見定めようとした。
魔獣たちは、吹き飛ばされもせず、そのままそこにいた。
バルドの意識は闇に落ちた。
崩れる体を誰かに支えられたような気もするが、そのあとのことは覚えていない。
だがそうして五感の機能を失い倒れてゆきながら、一つの声なき声が頭の中で鳴り響いたことは記憶している。
《見つけたぞ》
その声を聞いたのはバルドだけではない。
大陸中のあらゆる人間が、亜人が、その声を聞いた。
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