第4章 中原の暗雲
第1話 カムラー
1
美しい景色だ、とバルドは思った。
ここトバクニ山から見下ろす王都の景観は、これまで見たことも想像したこともないものだ。
そもそもこれほどに住居が密集していることが信じられない。
それはこの都に暮らす人の数が多いことを示している。
人の数はすなわち国の力である。
パルザム王国の国力は、辺境育ちの騎士には見当もつかない、すさまじいものなのだ。
テーペータバール・エ・ライヒ。
すなわち、
その名の通り、トバクニ山からちょうど正面に見える
その巨大さ、荘厳さは、
この地の特産品である
その周囲を取り巻く〈
だから、〈
平民は建物に白輝石を使うことが許されないからだ。
その一つ一つの建物が、豪壮で手の込んだ作りになっており、辺境では想像もつかないような豊かさがここにあることを示している。
それに比べ、〈上街〉と〈
同じ〈上街〉でも〈特区〉に近いほど家は立派で、〈下街〉に接する地域の住民はほとんど下層平民と変わらない。
ちゃぷり。
バルドは湯を右手ですくって左肩に掛けた。
目を閉じて天を仰ぎ、心地よさを満喫する。
尻と背中に感じる
「そろそろ、肌が湯になじみ、血のめぐりも落ち着いてきたようですな。
それでは、酒と食べ物を運ばせましょう」
バリ・トード上級司祭は、そう言うと、下僕に目線で指示を与えた。
この人物を接待役に選んだウェンデルラント王には感謝せねばならない、とバルドは思った。
バルド・ローエンは、ここよりはるか東方の辺境で、〈大障壁〉の裂け目から侵入する魔獣を討つことに一生を捧げてきた騎士である。
窮地に落ちた主家の助けになればと、すべての財産を返上して放浪の旅に出た。
死に場所を探すはずの旅は、生きる力をこの老騎士に与えた。
それだけではない。
新たな剣を、馬を、友を、家族を、そしていくたの人々との交わりを与えてくれた。
傷だらけの体は、温泉の熱気に上気し、温かく色づいている。
バルドの目の前に、板きれに乗ったゴブレットが差し出された。
バルドがそれを取ると、左隣で湯につかっているバリ・トード上級司祭が、
「本当はおつぎせねばならんのですがな。
略式でお許しください」
と、人なつっこい笑顔を見せて言った。
上級司祭が差し出したゴブレットに自分のそれを軽く合わせると、にぶい金属音が響いた。
赤ワインを冷水で割ったものである。
軽く一口味わうつもりだったが、あまりの心地よさに、ごくごくと飲み干してしまった。
下僕がすかさず板を差し出したので、それにゴブレットを乗せた。
下僕は、
その手際のよさが、バルドの機嫌をさらによくした。
今は七月だから、バルドがテルシア家に致仕を願い出て旅に出てから、ちょうど二年が過ぎた計算になる。
それから二か月ほどしてバリ・トードと会ったのだから、この聖職者との付き合いは二年に満たない。
しかも顔を合わせていたのは合わせても数日間にすぎない。
それなのに、この人物は年来の旧友のように感じられた。
相手もそう思ってくれていることが感じられ、それがうれしかった。
明日はいよいよウェンデルラント王に謁見する日だ。
相手がバルドにどんな用事があって呼びつけたかはしらないが、バルドのほうでも王にぜひに言いたいこと、訊きたいことがあった。
待っておれよ、王よ。
バルドはぶるると身震いした。
「いやいや。
それにしてもまさか、あのジュルチャガがローエン卿に召し抱えられるとは。
こんなおもしろい話は、とんと聞いたこともありませんな」
バリ・トードがそう言うのも無理はない。
まだ
病を得て死にかけたバリ・トードに薬を与え看病して命を助けたのがバルドであった。
翌日、勅使一行の宿に賊が侵入した。
しびれ薬を盛り、金目の物を盗み去ろうとしたのだが、バルドに捕らえられてしまった。
その賊こそ、当時その地域で名の売れ始めた〈
そのとき村役に突き出されたジュルチャガが、ひと月後にはバルドの指示を受けて走り回っていた。
バリ・トードは不思議に思いながらも、バルドに首根っこを押さえられて言うことを聞いているのだろうとしか思わなかった。
だから、バルドがパルザム王国に入国したとき、ジュルチャガが供をしているのを知って、ひどく驚いた。
ジュルチャガが一時はコエンデラ家に雇われバルドの敵となり、次に味方となったいきさつと、その後ともにした冒険の数々を聞いて、さらに驚いた。
ジュルチャガがドリアテッサに同行してゴリオラ皇国の皇都に行き、なんと皇王その人に面謁し、準貴族の身分を与えられたと聞いて、のけぞらんばかりに驚いた。
ジュルチャガは自分を下人として扱うようバリ・トードに頼み込んだ。
バリ・トードはいたずらっ子そのものの顔でこれを了承した。
以来毎日ジュルチャガは、薄汚い身なりでパルザムの王都をうろついている。
トード家に帰って来ないこともある。
バルドの宿舎に指定されたのはトード家である。
バリ・トード上級司祭の本当の名は、バリアンクィズィガル・トードという。
トード家の長子であったが、弟に家督を譲り神への奉仕に身を捧げた。
格式の高い貴族家の子弟であるから〈特区〉の神殿に役職をもらえたのだが、あえて〈下街〉の神殿に入り、孤児院を営んだ。
このトバクニ山はその全体が温泉である。
そこここに湯が湧き出し、乳白色の岩肌を流れてゆく。
くぼみには湯がたまり、あふれては下のくぼみに流れていく。
なぜかその湯は青色をしている。
貴族なら誰でも無料で使える温泉山なのである。
今バルドとバリ・トードについている八人もの下僕は、みなバリ・トードの孤児院出身者だ。
最有力にして最高待遇の就職先らしい。
二人がつかっているくぼみは、山頂近くの最高の位置にある。
「こんなときでもなければ枢密顧問の特権を使うこともありませんからな」
と、バリ・トードは笑っていた。
馬はふもとに預け、車輪つきの
バルドは自分の足で登ると言ったのだが、バリ・トードは柔らかく首を横に振った。
そうか。
この者たちに仕事をさせねばのう。
働かずに得た金は、ほどこしと変わらん。
ほどこしで生きれば誇りを持てん。
うむ。
バリ・トード殿は、まことに優しい。
二杯目のワインを飲み干したとき、板きれが差し出された。
その上には皿が乗っており、皿には肉と野菜が盛られていた。
トード家から持って来た料理だ。
左をうかがうと、バリ・トード上級司祭は料理を手づかみで食べていた。
それにならって、手で肉をつまんだ。
むむ!
むむ!
カムラーめ。
妙な味付けであったら、必ず文句を言ってやる。
バルドは敵対心いっぱいで、肉片を舌に乗せた。
うおおおおおおお!
何たるうまさか。
これは牛の肉だ。
生に見えるが、生ではない。
カムラーは、そんな物をわざわざ弁当にしたりしない。
部位はおそらく背骨の脇だ。
だが、この味は。
しばらく噛みしめて奥深い味を楽しんでいるうちに、かすかな煙臭を感じた。
それでこの料理の正体に見当がついた。
背骨の脇の肉を丸ごと燻製して、そのまん中の赤い部分だけを切り出したのだ。
悔しいが、うまいと思わずにはいられない。
汚れた指をどうしようかと思ったが、バリ・トードがあふれだす湯で指をすすいでいるのを見て、同じようにした。
2
カムラーは、トード家の料理人である。
貴族たちにとり、
他家とのやり取りで優位に立ち、利益と名誉を確保するには、料理と酒の質こそ重要なのだ。
貴族家の料理人頭は、その外交の戦場における将軍といってよい。
戦場で必ず勝てる将軍が君公にとって至宝であるのと同様、腕のよい料理人頭はまことに得難い存在なのだ。
ただし、名将が人格者であるとは限らない。
カムラーとは初めからそりが合わなかった。
当家の料理人頭は名人であるから、どんな料理でもお申し付けいただければお出しできる、とトード家の当主に言われ、バルドは、ならばコルコルドゥルの生卵を掛けて混ぜた炊きプランが食べたい、と言った。
しばらくすると、料理人頭であるカムラー自らが晩餐室に姿を現した。
その物言いは、ごく上品で丁寧だった。
言い換えれば、もって回った言い回しであり、慇懃無礼そのものだった。
要約すれば、こうなる。
コルコルドゥルの卵はまことに素晴らしい食材だが、生で食べたりすればどんな病気になるか分からない。
そもそも鳥の卵を生で食べるのはけだもののすることであり、人間の、まして騎士のすることではない。
プランを水で炊いて食べるのは野蛮人のやり方なので、そんなものを食べることをおおっぴらに口にしてはいけない。
バルドはむかっとして、食べたい料理を訊かれたから答えたまでのことだが、当家ではわしの好みに合う料理は作れないということか、と言った。
これはトード家の当主には相当に礼を欠いた言葉であったが、料理人頭のこんな無礼を許している当主こそ失礼である、とバルドは思っていた。
カムラーは、薄笑いを浮かべながら、こう答えた。
「まさか、まさか。
当家に用意できぬ食材などございません。
また、人間のわざで作れる料理でわたくしめに作れぬ料理があるとは思えませぬ。
お客様のご要望をお聞きして、その意をじゅうぶんにくみ取らしていただきまして、最高のおもてなしをご用意いたしますのが、あるじより言いつかっております職分にございますれば、その趣意をご説明申し上げたまでにござります」
そう言ってカムラーは
ほどなく料理が出た。
まずは二皿。
ひどく気取った皿に、ちょこんと料理が乗せられている。
一つは卵料理だ。
火を通してかき混ぜてある。
だが、これは。
銀のスプーンですくった。
まちがいない。
刻んだマガリダケが混ぜられている。
匂いのよさに思わず口に運んだ。
うまい!
何といううまさか。
しかも、卵は、ある部分は火が通り、ある部分は生に近く、じつに複雑で楽しい。
火の通った部分も、まったく硬くない。
不思議なほどふわふわして、しかも香ばしい。
ああ、しかも。
何という甘さ。
何とう
コルコルドゥルの卵がこれほどの甘い香気をを放つとは知らなかった。
それはこの卵を焼くとき、極めて上質なブイユ・ウー、つまり牛の乳から取った油を使っているからなのだが、それにして火加減が絶妙だ。
それにしても不思議だ。
ロードヴァン城からここに来るまでの道中で、コルコルドゥルの卵をブイユ・ウーで焼いた料理は何度も食べた。
中原の貴族にはごくなじみの深い料理であるらしい。
コルコルドゥルの卵というのは非常に匂いにデリケートな食材だということをバルドは知った。
他の食材の匂いがすぐに移ってしまうのである。
マガリダケのような
マガリダケをかみしめて、その理由が分かった。
マガリダケを先にさっと炒めて、香りを封じ込めてあるのだ。
マガリダケはしゃきっとして、少しもその風味を失っていない。
それなのに混ぜ込んである卵は、卵そのものである。
悔しいが、見事な手際というほかない。
憎たらしいことに、隣の皿には炊きプランが乗っている。
炊きプランは野蛮人の食い物だとぬかしておったくせに、と腹を立てながら、ひと
何だ、これは?
炊きプランにつきものの水っぽさがない。
ぱりぱりで、ぷりぷりで、しこしこで、一粒一粒がしっかりしている。
何たる歯ごたえ。
染みだしてくる味の、何たる甘美。
これは。
これは。
炊きプランでは、ない。
しかも肉など一片も入っていないのに、
知りたい。
料理法を知りたい。
カムラーに訊くか。
いや。
いや、いや、いや、いや。
やつに頭を下げて教えを請うなど、とんでもない。
わしの舌でこの料理の秘密を解き明かすまでよ。
見ておれ、カムラー。
だが、バルドの舌は、バルドが期待するほどの性能を持たなかった。
結局調理法は分からないままだったのである。
だが、心配は要らなかった。
料理が進んだあと、カムラーのほうから説明に来たのだ。
あちらから説明したいというなら聞いてやるぐらいの度量はあるわい、と思いながら説明に耳を傾けた。
プランは炊いたのでなく、焼いたのであるという。
焼き鍋に
焦がさないように気を付けながらかき回し続ける。
何度かに分けて、熱で泡立てた牛乳油を注いでゆく。
別の焼き鍋にたっぷりのキユプ油を入れて熱する。
そこに牛のあばら肉を燻製してその外側をこそぎ取ったものをさっと入れて香りを移し取る。
肉は引き上げてしまい、先に作り始めた焼きプランの半分を、この鍋に移してしっかり香りを付ける。
最後に二つの鍋のプランを手早くかき混ぜる。
こうしてあの単純にして複雑な焼きプランが完成したのである。
これを卵のマガリダケあえと一緒に食べたうまさは格別だった。
つまりこれは結局のところ卵掛けプランの一種といえなくない。
そのあとの何皿かの料理も、ことごとく絶品だった。
そして知ったのは、カムラーが牛乳油の使い方が実に巧みだということだ。
その牛乳油は特別なものだ。
カムラーが選んだ牛に、ある決まった草だけを食べさせるのだという。
しかも料理により牛乳油の作り加減を変えているらしい。
しかし最も驚くべき品は、最後にやってきた。
料理が終わったので、締めの氷菓をお持ちしました、とカムラーが言った。
氷菓などという言葉は聞いたこともない。
ひどく小さな皿にちょこんと小さな饅頭のようなものが乗っている。
添えられた小さなスプーンでそれをすくって口に入れたときの衝撃を、バルドは一生忘れないだろう。
その料理は文字通り、氷、だったのだ。
この真夏にである。
ただの氷ではない。
いくつかの果物のうまさを持つ雪のような氷を錬り固めた、天上の甘露だったのだ。
そのひんやりとした至上の美味が口の中で溶け、喉の中を滑り落ちていくときの喜びは、これまで知っていた何にも似ていない。
バルドは思わず泣きそうになった。
自分の知らなかったこんなうまさが、ここにある。
この世には、まだまだ自分の知らないうまい物があるに違いない。
世界の広さを知った喜びで胸がいっぱいになった。
呆然としているバルドの顔を見て、いやらしい笑いを浮かべ、カムラーは礼をして下がった。
これがバルドがトード家に滞在した最初の夜の出来事である。
この日から、バルドとカムラーの闘いが始まった。
戦績は、バルドの全戦全敗である。
三日目の夜にはこんなやり取りがあった。
バルドは、料理の説明に出てきたカムラーにこう言ったのである。
この家の料理はどれもうまいが、パンだけはそうでもないと。
ロードヴァン城を出ていくつもの国を通り数々の屋敷に宿を借りたが、どのパンも非常に美味だった。
それに比べれば、トード家のパンは少し落ちる気がしたのである。
カムラーは、子どもに教え諭すような調子で、こう言った。
「バルド・ローエン様。
おいしいパンなど、いくらでも作れます。
しかし、料理の添え物にするパンは、おいしすぎてはいけないのです。
よろしいですかな。
先ほどの肉料理は非常に味の強い肉であり、それに負けない強いソースを掛けて召し上がっていただきました。
あの肉とソースの味に勝つようなパンをお出ししたら、肉の味はぼやけてしまうでしょう。
それはよいパンとはいえないのです。
しからば、よいパンとは、どういうパンか。
いかに癖のある魚や、強い味付けの肉を食べても、そのパンを一切れ食しただけで、口の中がきれいに洗い清められ、舌は敏感さを取り戻し、次の一口が新鮮そのものの味となる。
それこそがよいパンなのでございます。
それだけではありませぬ。
食材から出た汁をそのパンに付けて食べれば、その食材の本当のおいしさを味わうことができる。
食材を邪魔せず殺さず、ひき立て、引き出し、最高の味を発揮させる。
それこそがよいパンなのでございます。
剣と盾では役が違いましょう。
晩餐のパンのうまみが足りないとおっしゃるのは、盾の切れ味が悪いとおっしゃるのも同じにございます。
よそでおっしゃれば子どもに笑われますので、あなたさまの名誉のため
もっとも、まだまだわたくしめも修行の途中でございまして、ガルデガット・ライエンで神々が食されるようなパンには及びもつきませんでしょう。
お気に召しませぬ点は、どうかご寛容をもってお許しくださいませ」
へりくだっているようで、全然へりくだっていない。
天上のパンには及ばないかもしれないということは、地上にはこれ以上のパンはないと言っているのも同然である。
しかし振り返ってみれば確かにカムラーのパンは、そういうパンである。
この場はカムラーの勝ちというしかない。
しかも腹立たしいことに、このカムラーの教えのおかげで、次の日からより深く食事を味わうことができるようになってしまったのである。
3
ワインが体に回ってきたのか、体がほくほくと温もり、顔に汗が浮かんできた。
バルドは両手で青みがかった湯をすくって顔に掛けた。
そして両手で顔をもんだ。
もう一度湯をすくって顔に掛けた。
板きれに汗ふき布が乗せられて突き出された。
顔とひげをよく拭いて、布を板に乗せた。
吹く風が心地よい。
ここトバクニ山は乳練石で出来た山である。
乳練石は神聖な石であるから、平民は足を踏み入れることはできない。
トード家からついてきた召使いたちは、
トバクニ山から流れ落ちた湯は、麓でいくつもの湯だまりを作っている。
待っているあいだ、彼らはそこで湯につかることができるのである。
馬も当然山には入れない。
バルドを乗せて来たユエイタンも、馬車を引いて来た馬たちも、上等の飼い葉を与えられてくつろいでいるはずだ。
バリ・トードとバルドは山頂で夜を明かすから、召使いたちは弁当を食べながらゆったりと温泉を楽しむことができる。
目の前に料理の乗った板が差し出された。
そのうちの一品が、目を引いた。
ポド芋の油ゆでだ。
二日前の晩餐で大いに驚かされた料理である。
ポド芋も、それに混ぜ込んである丸ネギも、辺境でもよく見かけるありふれた野菜だ。
どちらも、暑さにも寒さにも強く、痩せた土地でもよく育つ。
バルドも小さい時からなじんできた。
そのよく知ったポド芋が、油ゆでにするとまるで違った料理になる。
ヒマヤから出た船の上でポド芋の油ゆでを初めて食べたときは、あまりのうまさに思わずうなったものだった。
だが、トード家の料理は。
カムラーが調理したこの油ゆでは。
さらに次元の違う料理だった。
油ゆでには違いないのだが、どうやったらこんなふうに仕上がるのか、見当もつかない。
食べたあとで料理法を聞いたときは、そこまでするかと驚いた。
まず鍋にたっぷりの
じゅうぶんに温度を上げてから、平切りにしたポド芋を入れてゆでる。
芋の表面がきつね色に色づいたら、すばやくすくってざるで油を切る。
別の鍋に新しいブイユ・ウーが入れてあり、これは低い温度に沸かしてある。
芋を入れて、じっくりと火を通す。
しかし通しすぎてはいけない。
平鍋にブイユ・ウーを入れて溶かし、細切りにした丸ネギを入れ、しんなりするまで炒める。
丸ネギは熱を通すと三倍の甘さになる、とはカムラーの言だ。
そこにポド芋を入れてあえる。
芋とネギがなじんだ頃合いをみて、細かく刻んだペリスの葉を混ぜ込んで完成である。
油でゆでるという発想が、すでに辺境の感覚ではぜいたくの極みである。
まして貴重な牛乳油を使ってゆでるとは。
聞いたときには腰を抜かしそうになった。
しかも温度の違うブイユ・ウーで二度ゆでするというのだ。
大国の貴族家でなければ思いつきもしない料理方法だろう。
ああ、だが。
だがその味たるや。
先に説明を聞いていたら、どんなにか油っぽいぎとぎとした料理だろうと思ったにちがいない。
ところが実際には、むしろさっぱりした味なのだ。
表面にはしっかりとした歯ごたえがあり、かみしめれば奥行きのある甘味が口中に広がる。
ポド芋というものは、独特の水っぽさと、かすかな青臭さがある。
水でゆでたときには、なおさらである。
チャリア油でゆでても、中のほくほくの部分は若干の水っぽさを持っている。
この料理には、それがまるでない。
芋の中に入り込んだブイユ・ウーは、芋の中身と混ざり合い、凝縮されたうまみのかたまりとなったのだ。
しかも外側をさきにゆでて締めてあるから、うまみはどこにも逃げない。
かりっとした歯ごたえを、からめてある丸ネギの柔らかさと甘さが包み込み、絶妙の味のハーモニーを奏でている。
そしてポド芋と丸ネギの甘さに対し、しっかりまぶしたペリスのみじん切りがアクセントを与え、全体をきりりと引き締めている。
ペリスなど、それだけで食べたら苦いだけのうまくもなんともない葉っぱである。
ところが、この料理に混ぜ込まれたペリスは、確かにペリスのままなのに、素晴らしい風味そのものとなっている。
料理としては至極単純な手順でございますが、しかし完成された手順であり、組み合わせでございます、とカムラーは言った。
まさしくそうだ。
この組み合わせ、配分、手順。
完全無欠であり、変えようがない。
これを発見したカムラーは、神から特別な恩寵を受けた人間だ。
神々は、どうしてあんな奴にこれほどの才をお与えになったのだろう。
バルドは不思議でならなかった。
とはいえ、料理に罪はない。
この芋にもネギにもペリスにも、罪はないのだ。
そもそも、この料理がうまいのは、芋とネギとペリスとブイユ・ウーの手柄だ。
カムラーはそれを引き出す手伝いをしたにすぎない。
食物は神々からの贈り物である。
しっかりと味わわねばもったいない。
冷めているのだが、温かいときとまた違った味わいがある。
ああ、何たる香ばしさか!
バルドは至福の味にひたった。
ひたりながら、ロードヴァン城を出てからこの王都に着くまでのことを思い出していた。
4
バルドを案内してくれたのは、マッシモサンボ・ハソク伯爵である。
伯爵であるが、領地はない。
騎士でもない。
パルザム王国では、文官の登用に道を開くため、ずいぶん以前から貴族の位階だけを与えることを行っている。
領地も下賜しないし領主となる権利も与えないが、爵位持ち貴族と同等の身分格式を与えるのだ。
王は彼らに屋敷と俸給を与える。
さらに先々代王の時代から、将も俸給によって召し抱えるようにしてきた。
彼らにも形式だけの爵位が与えられることがある。
だが騎士であれば領主となれるのだから、形式上の爵位に見合う領地を切り取れば、領地持ち貴族となる道は開かれている。
こうした制度は次第に変化していくのだろう。
騎士でない伯爵は位階伯爵または位伯とも呼ばれる。
騎士貴族からは一段低くみられそうなものだが、どうもそうではないらしい。
騎士でもない文官が授爵されるには、相当の実力と実績がなければならない。
位階貴族は、いずれも彼らの専門分野においてはすさまじい知識と能力を持っているのである。
しかも、位階貴族の位階は一代限りであって、爵位を子どもに受け継がせることができない。
そのため、彼らは嫡子に徹底的な教育と訓練を行い、自分と同じ役職と位階を受けられるように鍛え上げる。
親の跡を継いだだけの騎士貴族では、とても位階貴族に太刀打ちできないのである。
マッシモサンボ位伯は典儀官である。
それも席次第二席の高官である。
典儀官は宮廷の儀式一切をつかさどる重要ポストである。
先祖代々ハソク家はこのポストを守ってきた。
なかでもマッシモサンボは、古今東西の礼法と祭儀に通じ諸国の歴史に通暁する博覧強記の文官であるという。
ジュールラントが王の子として王都に迎えられるやいなや、マッシモサンボが教育係の一人としてつけられた。
彼はジュールラントに、礼儀作法と国の制度および歴史を教え込んだ。
今回、ジュールラントが辺境競武会に先立ち、中原の諸国や国内有力都市をめぐるのに同行した。
必要に応じて知識を教授するとともに、今までの成果を確かめるためだ。
どうもジュールラントはこの人物を苦手としているようで、自分の作法が合格のレベルに達したことを認めさせ、いわば卒業したということにさせたらしい。
そして、パルザムの王都に入って王に面謁するバルドの面倒をみるよう頼んだのだ。
マッシモサンボ位伯と同行するようになってすぐに、バルドは、
ジュールランめ、押し付けおったな。
と気付いた。
悪い人間ではないのだが、謹厳すぎ容赦がなさすぎる。
マッシモサンボ位伯は、やる気まんまんでバルドを教育した。
食事の作法、歩き方、部屋の出入りなどから始まって、貴族同士のあいさつややり取りの作法などを教えた。
宮中の礼儀作法は場合と身分関係によりそれぞれちがい、実に複雑である。
また、バルドが大陸中央の生活習慣や文物について知識がないことを知るや、そちらも教えた。
さらに各国の歴史なども教えた。
バルドは閉口して、わしは王陛下にお会いするだけじゃから、そのとき必要な作法以外は教えていただかなくてよい、と言った。
するとマッシモサンボ位伯は、ジュールラントが立太子されるのはもう確定しており、王太子の
物言いは丁寧なのだが、有無をいわさぬ断固たる態度である。
あとになってバルドは、位伯の名が王宮で頑固者の代名詞となっていることを知った。
それだけではない。
位伯は司祭の職級持ちだった。
考えてみれば、宮中の儀式の中には、司祭以上の聖職者でなければ執行できないものもあるから、儀式を専門的に扱う役職には司祭位がないと都合が悪いのである。
バルドの守護神がパタラポザであると知ると、位伯は目を輝かせて、その教義を
バルドはあわてた。
もともとこの暗黒神という不人気な神を選んだのは、その教義を説く聖職者がいないからなのだ。
バルドは神の教義を説く聖職者も、説かれる教義も、大嫌いだった。
神は理屈で知るものではなく、心に感じるものだと信じていたからである。
位伯は、時々にメルカノ神殿から派遣される神官から最新の教義を勉強しているという。
パタラポザについては今まで語る機会がなかったので、バルドは格好の餌食だったのである。
5
ゴリオラ皇国の皇女と騎士たちは、四月十日に出立した。
カーズはそれに同行した。
バルドが、自分の代わりにゴリオラ皇国を訪問しファファーレン侯爵家を訪問してくれと頼んだときには断ったのだが、気が変わったらしい。
ドリアテッサとゾラ・ベール子爵は大いに喜んでいた。
別れ際、バルドはカーズに、しっかりのう、と言った。
それはしっかりあいさつをしてこいという意味だったのだが、カーズは、
「うむ。
おくれは取らぬ」
と返事してきた。
その次の日、ジュールラントたちが出立した。
南西にくだり、パルザム王国東部北端の街タリオラードを目指すのだ。
さらにその次の日、バルドたちは出発した。
一行は、バルドのほかに騎士二人、位伯、従者六名、そしてジュルチャガの十一人である。
ジュルチャガは、再会したときの上等の衣装はすぐに着ないようになり、どこから手に入れてきたのか、いかにも平民の従者然とした服を着ていた。
あの服はどうしたと訊くと、売ったよー、という返事だった。
ゴリオラ皇国で準貴族とかいう身分を得たらしいのだが、なぜかバルドの従者として振る舞っている。
準貴族の身分は秘密にしておきたいようで、なぜそんなことをするのか不思議に思ったが、旅を始めてすぐに気が付いた。
もし準貴族だなどと知れたら、バルドと一緒に位伯の厳しい訓練を受けるはめになったろう。
まったく、危険を避ける能力の高い男である。
一行はまっすぐ西に向かった。
ガイネリア国の方向である。
初めそれを聞いたとき、バルドは難色を示した。
ガイネリアには、ジョグ・ウォードがいる。
バルドと闘って勝ち、バルドの息の根を止めることに執念を燃やす騎士だ。
なぜかガイネリアで将軍をしている。
大丈夫だと位伯は保証した。
パルザム王の賓客とその案内役を襲うようなことはしないというのである。
そんな常識の通用する相手ではないのだが、位伯は考えを変えようとはしない。
なるようになれと思い、西に向かった。
実は暴風将軍ジョグ・ウォードはずっと南東のほうを走り回っていた。
遭遇したのはジュールラントたちのほうだったのである。
なぜ位伯が遠回りのルートを選んだかといえば、できるだけ屋根のない場所で寝たくないから、に尽きる。
野営など品のある人間のすることではない、というのだ。
実際、どうしても野営せざるを得ない場合には、位伯は馬車の中で眠った。
一行は、ガイネリア、テューラ、セイオンの各国を回り、その地の騎士の屋敷に宿を借りながら旅を進めた。
どこの家でも宿を断られることはなかった。
パルザム王国典儀長輔マッシモサンボ・ハソク伯爵の名は、なかなかのものであるようだ。
これまで知らなかった料理の数々にバルドは胸を躍らせたのだが、位伯とともにする食事はじつに堅苦しく気疲れし、味を楽しむどころではなかった。
ジュルチャガは、うまく立ち回っている。
同行の従者たちは貴族家の使用人であり、上品で洗練された振る舞いをする。
その感覚や知識も身分の高い者の使用人にふさわしいものだ。
実際彼らは移動するのに馬車に乗る。
平民のしかも従者が貴族用の馬車に乗るなど、バルドにはちょっと考えられないことだが、彼らにとってはそれが当たり前なのだ。
要するにジュルチャガとはまったく違う者たちだ。
ところがジュルチャガは彼らとすぐに仲良くなり、いろいろ教えてもらっているようだ。
ちゃんとした従者であるかのように、バルドの世話を焼いている。
人目のあるところでは、言葉遣いも違う。
馬車に乗らず走って少しも疲れる様子をみせないジュルチャガに、同行の騎士たちは驚いた。
その騎士たちに、
「いざっていうときに戦場で走り回れないようでは、騎士の従者はつとまりません」
と言ったらしい。
騎士たちは非常に感心し、以来ジュルチャガに親しく声を掛けるようになった。
本当に、どこに行っても生きてゆける男である。
運動のせいか、ふっくらしていた顔はすぐに痩せた。
適度に汚れた風体となり、顔立ちも美しさを失った。
どこにでもいそうな平民そのものである。
木や葉の色に応じて肌の色を変えるトカゲがいるが、ジュルチャガが周囲に溶け込む力はそれに劣らない。
順調な旅だったのだが、モルドス山系の近くを通ったとき、大雨に降り込まれた。
樹木のない山肌を水が濁流となって流れていく。
とても通行できないので、セイオン国に引き返してシュルテンヤ家の門をたたいた。
シュルテンヤ家は田舎領主だが、広い屋敷を持っており、快く一行を迎えてくれた。
ちょうどエイナの民の旅団が、やはり雨で足止めをくらい、シュルテンヤ家に滞在していた。
シュルテンヤ家の当主は、バルドたちの無聊を慰めるため、エイナの民に芸をさせた。
その中に、燃えるような赤い髪をした美しい女がいた。
その扇情的で情熱的な踊りは、ひどくバルドの心を揺さぶった。
その女は何度もバルドと目を合わせた。
賓客に自分の芸と美しさをみせつけるのは当然といえば当然だ。
だが、当主に向ける目とも、位伯に向ける目とも違う、からみつくような視線を、女はバルドに向けた。
バルドは、心臓が少し速く打つのを感じた。
エイナの民に会ったこともあるし、その名の由来についてもおよそのことは知っていた。
しかし、位伯の知識は深く正しいもので、バルドはエイナの民について詳しく知ることができた。
5
むかし神々が二つの陣営に分かれて大戦争をした。
エイナ神は、どちらについてよいか分からなかったので、別の顔で両方の陣営に出入りし、仲間として振る舞った。
そのことは戦争が終わったのち神々の知るところとなり、エイナ神は憎まれて神々の国を追われた。
人間の世界にやってきたエイナ神は、人間たちに知恵を授け、敬われた。
エイナ神は神力は弱かったが知恵は豊かだったのだ。
だが他の神々も人間の世界に来て、人々に加護を与えるようになった。
他の神々はエイナ神を「裏切りの神」と呼んだ。
やがてエイナ神は人間たちからもうとんじられるようになった。
そんなエイナ神を慕い続ける人々がいた。
彼らはエイナの民と呼ばれる。
村や町を作らず、仲間たちと移動しながら暮らす放浪の民だ。
エイナの民は賤しき者と呼ばれる。
エイナ神を奉じる民だからそうみられたのか、そうみられたからエイナ神を信奉するようになったのか、今では分からない。
だが、時に人々はエイナの民を求める。
エイナの民は美しく、陽気で、さまざまな技芸に通じているからだ。
占い、歌、踊り、性技、皮なめしの技などはエイナの民の得意とするところだ。
またエイナの民の中には鳥や獣と心を通わせ、木々や大地の声を聞き取る者もあるという。
大きな祭りや祝いがあるとき、町はエイナの民に門を開く。
村々にとってエイナの民の訪れは、苦しき暮らしの中のわずかななぐさめとなる。
豊穣を祈る彼らのわざと、人々に娯楽をもたらす技芸は、常にどこかで必要とされている。
エイナの神は、裏切りの神、運命の神、放浪の神、両面の神、占いの神、手妻の神、交合の神、不実の神、盗みの神である。
半人半蛇のおぞましき亜人マヌーノの始祖たるネーレは、エイナの神が蛇と交わって産み落とした亜神といわれる。
ただしマヌーノたちの神話では、蛇神ネーレが人間の王ジャンと交わって生まれた子がエイナ神だということになっているという。
6
ふと気が付けば、ポド芋の二度ゆでがない。
一つを食べれば次の一つに手が伸びる。
次の一つを食べればさらに次の一つに手が伸びる。
まったく飽きのこない味なのである。
途中でやめることなどできない。
途中でとめることなどできない。
そしていつしか皿の上の芋を食べ尽くしてしまったのだ。
くそっ。
カムラーのやつめ。
バルドは手を湯で洗い、料理人頭にしてやられた悔しさをワインでまぎらした。
今や太陽神は対面の山の稜線に身を隠しつつある。
赤く染まった夕日の色が、乳練石の山肌をオレンジ色に染めていく。
すると、見よ。
不思議なことに、青かった湯水の色が、緑色にと変わってゆくではないか。
なんという景観の妙。
日の光の具合によって、山の色も水の色も、次第次第に変化してゆく。
おのれの体も夕日と水の色に染まるのを見ながら、バルドは感激にひたった。
さらに夕日は沈んでいく。
王都の家々に明かりがともる。
それは人の営みを示す光だ。
ぽつぽつと光の数は増えてゆき、やがて空の星より多くの光が地上にまたたいた。
そのそれぞれの光が、それぞれの人の人生を照らしている。
大自然の美しさに劣らない感動を、バルドはそこに見いだした。
「美しい光ですな。
こんなにも多くの明かりがともるようになったのは、そう昔のことではないのです。
今は貧しい平民でも、家に一つぐらいの明かりともすことはできます。
寒い冬の日に、温かいスープの一つぐらいは作ることができます。
でもそれは、一つの国を滅ぼし、何もかもを奪い去ることによって得られた豊かさなのです」
そう、バリ・トード上級司祭が言った。
そしてある国の滅亡の物語を語り始めた。
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