第2章 新生の森

第1話 ドリアテッサ

 1


「ジュルチャガ。

 お前しょっちゅうそうやって木の枝を折ったり曲げたりして遊んどるのう。

 子どもみたいじゃな」


「あ、これ?

 これは、気にしないで、ゴドンの旦那。

 バルドの旦那だって、笹の葉っぱ見つけちゃ、ちぎって懐に入れてるじゃん。

 さっきは川に流してたけど」


 バルドは二人のやり取りを聞きながら、手の中のポチュアの葉を見つめていた。

 つい先ほど、ユエイタンの背で揺られながらもぎ取ったものだ。

 何の変哲もないポチュアの葉だ。

 今朝、ルジュラ=ティアントの居留地である霧の谷を出発した。

 霧の谷のポチュアの葉は倍ほども大きく、ずっと肉厚で細かな毛がたくさん生え、匂いも強かった。

 フキや笹も、驚くほど大きく育っていた。

 こちらが小人こびとになったかと思ったほどだ。

 見たことのない木もたくさんあった。

 やはりあの場所は、何かが違うのだ。

 ひょっとしたら、霧の谷の草木の生え方は、大障壁の向こうと似ているのではないか。

 ふとそんなことを思った。


 2


 シェサを出て、オーサ少年主従と別れてから一行は東北方向に向かい、一番高い峠を目指した。

 そこにたどり着くのに五日かかった。

 およそ四十刻里ほどあったと思われる。


 その峠から東を見下ろせば、巨人が大地を掻き取ったかのように深く大きくえぐれた谷が広がっていた。

 白い霧に覆われている。

 ルジュラ=ティアントたちの集落が、その霧の中にある。

 その遙か向こう側で地は再び盛り上がり、この峠よりさらに高い位置に峰を築いている。

 その峰の稜線をなぞるように、大障壁が南北に走っている。

 雄大な眺めだ。


 大障壁ジャン・デッサ・ロー


 それは人間の住む世界と魔獣たちの棲む密林を隔てる壁だ。

 高さは千歩を超え、幅は二百歩ほどもある。

 その幅で、人の住む世界をぐるりと取り巻いているのだ。

 とうてい自然の造形とは思えない規則的な形状だが、同時に人の力で作り得ない巨大さだ。

 古代の王が人々を守るために一夜にして築いた、とおとぎ話にはある。

 大障壁から目を離し、ぐるりと首を回して真北を望めば、はるか彼方に見えるものがある。


 霊峰フューザ。


 バルドもゴドンもジュルチャガも、フューザを見たことはない。

 だが、あれがそうだと一目で分かった。

 それ以外のものではあり得ない。

 いくつもの山脈が折り重なって地平の向こうに消えていく、そのさらに奥に。

 ぽっかりと美しい三角形の白い山頂が頭をのぞかせている。

 フューザのいただきは溶けることのない雪で覆われているという。

 これほどの距離を隔ててなお見えるという、その事実がすでに驚異だ。


  フューザが見える場所まで来たんじゃのう。


 バルドはしばしフューザを見つめ、感慨にふけった。

 同行する二人も口をつぐんで、霊山に見入った。


 霧の谷に降りていくと、しばらくして、ルジュラ=ティアントの一団に囲まれた。

 最初は警戒していたが、モウラが何事かをまくしたてると、少し空気は和らいだ。

 バルドはそのまま立ち去ろうとしたが、モウラが父母に会って欲しいと強く言うので、その晩はルジュラ=ティアントの里の近くに泊まった。

 翌日の昼前、モウラが父母を連れて来た。

 父親はバルドの胸ほどの身長だったが、それでもルジュラ=ティアントとしては非常に大柄で、しかも威厳と叡智を感じさせた。

 幸いモウラの父は人間の言葉が話せた。

 ルジュラ=ティアントには十二の氏族があり、氏族の序列があるらしい。

 モウラの父は第四氏族の族長だった。

 そういった地位にある者は、人間の言葉や他の亜人の言葉を学ぶべきだとされているということだった。

 族長の座は子が継ぐものであるため、モウラも幼いころから人間の言葉を学んでいたのだ。

 彼らは、珍しい木の実などを用意して、三人をもてなしてくれた。

 エンザイア卿の城にとらわれていたモウラとスィを助けて連れてきたことで、好意をもって迎えられたようだ。

 三日目の朝、バルドたちは谷を離れたが、そのときモウラの父は不思議なことを言った。


「慈愛の心を持つ人間バルド・ローエン。

 お前はもうここに来てはいけない。

 だがもしもここに来なくてはいけないときがきて、われわれがそれを迎えられるなら、人間とルジュラ=ティアントは、再び友情を結べるかもしれない」


 意味も分からぬままその言葉を胸に刻み、バルドは霧の谷をあとにしたのである。


 3


 北西に進んだ。

 三日目になり、ジュルチャガが、


「あと三、四日で人の住んでるとこに着きそうだね」


 と言った。

 バルドも注意していたが、町並みや煙などは見えなかったので、不思議に思い、なぜ分かるのじゃ、と聞いた。


「匂いだよ。

 匂い」


 という答えだったが、あらためて鼻に空気を吸い込んでも、人の住むしるしを嗅ぎ当てることはできなかった。

 それからさらに三日後、山中を進んでいると、ジュルチャガが、


「何かいる。

 ちょっと見てくる。

 ゆっくり進んでて」


 と言って、沢のほうに降りていった。

 ほどなく、


「こっち来て〜〜。

 人が倒れてた〜〜」


 というジュルチャガの叫び声が聞こえてきた。

 何とか降りられる場所を探して沢に降りて、ジュルチャガが待つ場所に行った。

 木の根元に騎士が倒れている。

 全身に金属鎧をまとった騎士だ。

 非常に立派な装備であり、相応の身分の貴族だと思われた。

 そばに馬がいる。

 よい馬だ。

 ジュルチャガは鎧の顔の部分に鼻を寄せて、何かをくんくん嗅いでいる。


「しびれ薬かなんかにやられてるね。

 かなりきつい匂いだ。

 すぐ鎧を脱がせてあげたほーがいーよ」


 着せるのならともかく、鎧を脱がせるのは、そう難しくもない。

 自分でやればよいのに妙なやつだなと思いながら、まずは兜を脱がせることにした。

 ゴドン・ザルコスに後ろから抱き起こさせた。

 ひどく軽い。

 鎧も、そしてその中の人間も。

 体型もほっそりしているようだ。

 まだ若いのかもしれない。

 手早く止め紐をほどき、フックを外して、兜を脱がせた。

 栗色の艶やかな髪がばさりと垂れた。


  おなごか!


 びっくりしたが、ほうけているわけにもいかない。

 ゴドンと二人で鎧を脱がせた。

 ひどく汗をかいている。

 熱がある。


 ジュルチャガが水にぬらした汗ふき布を差し出した。

 バルドにやれということらしい。

 肌着は脱がせず、ふける部分を拭いていった。


「熱があるようじゃのう。

 熱冷ましを飲ませようか」


「いや、ゴドンの旦那。

 体の温もりは取らないほうがいいと思うよ。

 むしろ、たき火を焚いて、しっかり汗を出させたほーがいいんじゃないかな。

 できれば少し水を飲ませたいとこだけど」


 そういいながら、ジュルチャガはたき火の用意を始めた。

 ここで野営するつもりらしい。

 女の荷物に頃合いの皮敷きがあったので、その上に寝かせ、マントを掛けてやった。

 ジュルチャガのマントだ。

 クラースクでもらったマントを、ジュルチャガは寝るときにしか使わないので、ユエイタンに乗せていた。

 バルドは、荷物の中から毒消しの薬草を出し、湯を沸かして煎じた。

 そして、水でそれを薄めて冷まし、椀に注いでから女騎士を抱き起こし、


  分かるか。

  しっかりせよ。

  これを飲め。


 と言いながら、椀を口に当てたが、女騎士は飲もうとしない。

 しかたがないので再び寝かせた。

 しばらくすると、ううう、うううとうめき声を上げ始めた。

 少し意識が戻ってきたかと、同じようにしてみたら、今度は少し飲んだ。

 そんなことを何度か繰り返した。


 ジュルチャガはスープを作り、ゴドン・ザルコスは薪を用意した。

 三人は交代で寝ながら火の番をした。

 夜明けごろには、うなされかたがひどくなり、激しく汗をかいた。

 朝日が昇りきったころには、安らかな寝息を立てていた。


「もうだいじょーぶそうだね」


 三人が簡単な朝食を済ませたころ、女が目を覚ました。


 4


 まだ体は自由が利きにくいようだが、言葉は話せた。

 初めは警戒していたが、敵ではないと得心したのか、三人に礼を述べた。

 女は、ゴリオラ皇国の騎士ドリアテッサ・イル・パージエ・コヴリエンと名乗った。

 ゴリオラ皇国は、パルザム王国のずっと北のほうにある大国だ。

 そんな遠くから来たのかと思ったが、よく考えるとバルドたちも相当に北に進んできたから、もしかするとここからならゴリオラ皇国のほうが近いのかもしれない。

 とはいえいずれにしても、大オーヴァのはるか西にある国だ。

 そんな国の貴族がこんな辺境の奥地にいるのは妙なことではある。


 イル・パージエ・コヴリエンというのは、コヴリエンという領地を治める子爵という意味だ。

 つまり、この女性は領地持ちの子爵家当主なのだ。

 そのことにも驚いたが、騎士と名乗ったのにはもっと驚いた。

 女が騎士になれるわけはないし、なっても意味がない。

 それとも、このか細い体で戦場に出て戦うとでもいうのだろうか。


 ドリアテッサは、ある目的のために、従騎士二人と従者一人を従えてこの辺りに来た。

 昨日昼食後、ひどく気分が悪くなった。

 馬から下り、従者が急いで用意した薬湯を飲んだところ、体が痺れて動かなくなったという。

 従騎士たちと従者に手籠めにされかけたので、謀られたと気づき、何とか三人を倒した。

 三人の話から追っ手が近づいていると察せられたので、少しでも逃げようとする途中で力尽きて気を失った、ということだった。


 バルドは、ゴドンとジュルチャガとも相談して、とにかく人里に向かうことにした。

 追っ手があるという話が気になったが、バルドとゴドンがいる以上、そうそう遅れはとらないだろうし、それよりも今はゆっくりドリアテッサを休ませたかったからだ。


 ドリアテッサは自分で馬に乗ると言い張ったが、とても手綱を取れる状態ではない。

 ドリアテッサの鎧は、蔦で結わえてドリアテッサの馬に乗せ、ジュルチャガが引いていくことにした。

 ドリアテッサ本人は、マント二枚で包んだまま、バルドが抱えてユエイタンで運んだ。

 本人は嫌がったが無視した。

 そのうち抵抗をやめ、体を預けてきて、さらに進むうちにうつらうつらと眠りだした。


「旦那。

 右肩だいじょーぶ?」


 とジュルチャガが聞いてきたので、うむ、このところ肩も肘も痛まんのじゃ、と返事をした。

 日が落ちる前に村についた。

 何やらざわついている。

 村長を訪ねて宿を頼んだところ、ドリアテッサの様子に驚きつつ、村の外れの空き家を貸してくれた。

 あわただしそうにしているのでわけを聞いたところ、野獣が出て村人に被害が出たということだった。

 行方不明になった子どもがあり、探しているのだが見つからないのだという。


 もうすぐ日が落ちる。

 夜に森を捜索するのは危険だ。

 だが、どうしてもやるなら、大勢で固まって移動し、戦える人間が同行しなくてはならない。

 村人にも弓を使える者や、槍を持っている者はいるという。

 ゴドン・ザルコスとジュルチャガが捜索に協力することになった。

 バルドは、村に残ることになった。

 追っ手のことも気に掛かるし、野獣が村を襲わないとも限らないからだ。


 5


 ドリアテッサはベッドで静かに寝ている。

 夜にはスープも飲んだし、村長の娘が体を拭いて着替えさせてくれた。

 それはいいのだが、考えたら妙齢の女性と二人きりである。

 捜索隊は村からだいぶ離れたのか、声も聞こえない。

 妙に気詰まりなものがある。


 ううう、ううう、とドリアテッサがうめいた。

 目を覚ましたのかと思い、バルドは薬湯を椀についでベッドに近づいた。

 悪い夢でも見ているのか、苦しげな表情で体をひねっている。

 しばらく見ていたが、ずっとうなされたままだ。

 薬湯を置いて、さらに近寄ったが、どうしていいか分からない。

 額の汗を拭いてやった。

 苦しそうにもだえ続けている。

 かわいそうに、と思いながら左手を差し入れ、背中をさすった。

 突然、ドリアテッサが上半身を起こして抱きついてきた。

 女としてはやや大柄だが、バルドと比べれば小さな体である。

 すっぽりと胸に入り込んでしまった。

 震えている。

 バルドは右手でドリアテッサの左肩をつかんで体を支えながら、左手を背中に当てた。

 大きな手のひらが、ドリアテッサの背中にじんわりとぬくもりを与える。

 その手をゆっくりと上下に動かして背中をさすりながら、だいじょうぶじゃ、だいじょうぶじゃ、とバルドは声を掛けた。

 しばらくしてドリアテッサの体から力が抜けた。

 再び熟睡したのだろう。

 その額はこてんとバルドの胸に当てられている。

 ほほえましい心持ちになった。

 寝かせようとしたとき、ドリアテッサが身をよじり、バルドの鼻孔がドリアテッサのうなじをかすめた。

 汗ばんだ体から、ひどく強い女の香りが立ちのぼった。

 それを胸に吸い込んだとき、全身が甘く痺れ、おすの本能がうずくのを感じた。

 そんな自分に驚いて、苦笑した。


 ドリアテッサをそっと寝かせ、夜具を調え直す。

 無防備なその寝顔は、とても美しい。

 額の汗を拭いてやり、乱れた髪を顔の両側に落ち着かせてやる。

 唇が乾いていたので、指に薬湯をしたたらせて湿してやった。

 すると、寝たままでちゅうちゅうと湿り気を吸った。

 もっと欲しがっている気がしたので、もう一度水滴を指にしたたらせて唇に当てた。

 またも、ちゅうちゅうと吸ってきた。

 十回ほどもそれを繰り返したところ、満足そうに唇をなめ、すうすうと寝息を立て始めた。


 バルドは音を立てないように気を付け、剣を持って小屋の外に出た。

 バルドの真正面上方には、妹の月サーリエ煌々こうこうと輝いている。

 夜の涼しい空気を胸一杯に吸い込み、古代剣を抜いて天空のサーリエを斬った。

 切れないものを切ることで、心のよどみを払ったのだ。

 ふとドリアテッサがこちらを見ているような気がして振り返ったが、もちろんそんなことはなかった。


 6


 夜が明けてしばらくして、捜索隊が帰って来た。

 行方不明の子どもは無事発見され、それと別に一人の大人が救出されたという。

 捜索隊は二人を助けただけでなく、川熊一匹ともぐら猿三匹を倒して、その体を持って帰ったというのだから、大手柄だ。

 無論、戦ったのはゴドン・ザルコスである。


 事の起こりは、村の近くに現れた川熊を村人が追い払ったことだったらしい。

 けがをした村人もいたが、そこまでならよくある話だ。

 ところが森で木の実を採っていた少年のうち一人が、あわてて川熊の進行方向に逃げてしまった。

 それに気付いた大人が一人少年を追いかけ、一緒に川熊から逃げたが、村から遠ざかる方向に行くことになってしまったのだ。

 二人は木の上に追い詰められて困っていたが、やがて松明がたくさん近づくのを見て大声で呼んだ。

 声を頼りに二人の居場所を突き止めた捜索隊の人々は、木の下に川熊がいるのを見た。

 興奮状態にあり、追い払うのはむずかしそうだ。

 するとゴドン・ザルコスが一人で近づき、バトルハンマーを振るい、たった三撃で倒してしまった。

 そこに三匹のもぐら猿が襲い掛かってきた。

 ゴドンは、さほど手こずりもしないで新手の敵も倒した。

 しかもその場で、野獣どもの死骸は村の財産とせよ、と宣言したらしい。

 一同は大喜びで川熊ともぐら猿の体をくくり上げ、帰途についたのだという。

 遅くなったのは死骸の運搬に手こずったためだと聞いて、心配していた村人は拍子抜けした。


 村長の娘が朝食を持って来てくれたので、三人は食事をした。

 村長の娘はそのあと、ドリアテッサの面倒をみてくれた。

 ゴドン・ザルコスは、武具の手入れをすると、小屋の前の木の根を枕にごろんと寝て、いびきを立て始めた。

 ジュルチャガは、その横の日陰にわらをしいて寝た。

 バルドは村長に預けてあった三頭の馬の様子をみたあと、小屋に帰った。

 村長はひどく上機嫌で、馬にもたっぷり飼い葉を与えてくれていた。


 7


「ザルコス卿。

 川熊一匹と、もぐら猿三匹を、あっという間に倒したとお聞きした」


 と話し掛けたのはドリアテッサだ。

 もうすっかり体調も戻ったようで、ぱくぱくと夕食を食べた。


「いやあ。

 バルド殿に稽古をつけていただいたおかげじゃ。

 そうでなければバトルハンマーは使っておらなんだしのう。

 それに、もぐら猿が襲ってくることを、このジュルチャガが素早く気付いて教えてくれましてな。

 そうでなければ痛い目に遭っておった」


 快活に笑うゴドンを見て、ドリアテッサの口元もゆるんでいる。


「助けを求める声をいち早く聞きつけたのもジュルチャガでしてな」


「ほう。

 ジュルチャガは目端がきくのだな」


「いやあ。

 そんなに褒められると照れちゃうなあ。

 へへへ」


 リンツ伯爵サイモン・エピバレスの家人と紹介されたジュルチャガが、同じ席について食事し、ずいぶんなれなれしい口を利くのを、ドリアテッサは不審にも不快にも思っていないようだ。

 大陸中央の貴族には珍しいことだ。

 ひょっとしたらリンツ伯の遠縁か出自の低い庶子ぐらいに思っているかもしれない。

 実のところジュルチャガは、ずっと南のほうではなかなか名の売れた盗賊だった。

 何が気に入ったのか、バルドの旅にくっついている。

 そのバルド・ローエンはといえば、年老いて主家を辞し、霊峰フューザめざして気ままな旅をしている流れ騎士だ。

 ゴドン・ザルコスは、旅にあこがれて押しかけ同行者となったが、実は小なりとはいえ一領の領主だ。

 およそ関係の読みにくい妙な三人組といえる。


「それに武勇をいうなら、拙者などバルド殿の足元にも及ばん。

 何しろ伯父御は、一人で川熊三匹と川熊の魔獣を倒して村人を守ったのですからな」


「えっ!

 魔獣?

 しかも川熊の?

 そ、それはまことかっ」


 急に気色ばんだドリアテッサに面食らいながら、ゴドンは、伯父御の革鎧をよく見てみなされ、と言った。

 バルドの革鎧は手入れを終えてわらくずの上に広げられている。

 ドリアテッサはバルドに許しを求めてから、しげしげと鎧を手にとって眺めた。

 クラースクの革鎧職人ポルポが、恩人たるバルドのために丹精を込めた逸品である。


「これが、魔獣の革鎧。

 仕立ては素朴だが、なんと立派な。

 なるほど。

 普通の革ではない。

 これが」


 ドリアテッサは、姿勢を正してバルドとゴドンに礼を取り、改まった声音で言った。


「ローエン卿。

 ザルコス卿。

 ジュルチャガ殿。

 窮地にあるところをお助けいただき、お礼の申しようもない。

 このうえご好意にすがるのは厚かましすぎるのだが、お教え願えまいか。

 どこに行けば魔獣を狩ることができようか」


 ゴドンとジュルチャガはバルドのほうを見た。

 この問いにはバルドが答えるべきだと思っている様子だ。

 バルドは、いくら辺境でも魔獣にはめったに出遭わないこと、ただしバルドの旧主たるテルシア家が守る領土は、大障壁の切れ目にあり、年に十数匹から二十匹程度の魔獣が現れることを説明した。


「大障壁の切れ目。

 そんなものが本当にあるのか。

 パクラ領、か。

 そこまで、ここからどのくらいの距離があろうか」


 バルドはジュルチャガを見た。

 これはジュルチャガの得意分野だ。


「うーん。

 道筋によるけど、二百五十刻里ぐらいかなあ。

 道をよく知った人が馬を使いつぶすつもりで、しかも餌やら何やらでお金をたっぷり使ったとして、四十日から五十日ぐらいかかると思うよ」


「片道で五十日……」


「ジュルチャガよ。

 この前クラースクからリンツまで三十日で往復してなかったか?」


「あれはおいらだからできたんだよ、ゴドンの旦那。

 旅の荷物を積んだ馬で素人がとぼとぼ行くんじゃ、おんなじようにはいかないって。

 パクラまで五十日ってのも、野獣に襲われたり、悪天候に遭ったり、道に迷ったり一切せずに、食べ物の工面もばっちりで、水のありかもよく分かって、野営の準備に相当手慣れてるとしての話だからね。

 ほんとのところ、お姫さん一人じゃ、その倍くらいかかるかもね。

 速船はやぶねを仕立ててオーヴァ川を下るか、川を渡って草原を走ったほうが速いね、たぶん」


「これは……手厳しいな。

 だが、そうなのだろうな。

 ローエン卿。

 もしわたしがパクラ領に行ったとして、魔獣狩りに加えてもらい、獲物の頭をもらい受けることは可能であろうか」


 バルドは答えた。


  テルシア家では女性によしように武器を持たせることも、敵の前に立たせることもござらん。

  子爵がいかほどの武技をお持ちであろうと、テルシアの騎士が一人でも生きているうちは、あなたを魔獣の爪と牙にさらすことはありませぬ。

  魔獣のかしらをお望みか。

  であれば手紙を書き、ジュルチャガに持たせましょう。

  ふた月で魔獣の頭が届きましょう。


 魔獣の頭部はテルシア家にあって、名誉のしるしとして門外不出のものだ。

 保存に値するほど状態のよい頭部が取れることは珍しい。

 それでも自分が頼めば無理を聞いてくれるだろうとバルドは思った。

 知り合ったばかりの他国の女貴族に対するものとしては考えられないほどの好意といえる。

 とはいえバルドは、おそらくこの答えはこの子爵殿の望むところではあるまい、と踏んだ。

 案にたがわず、ドリアテッサは、こう答えた。


「何というご厚意か。

 痛み入る。

 しかし、それでは駄目なのだ。

 私が自分で倒した魔獣でなければ意味がない。

 せめて一太刀あびせねば、それは私の手柄とはならぬ。

 しかも今年のうちに皇都に帰らねばならぬ。

 ふた月もかけて往復する時間はないのだ」


 それから彼女は、自分の事情を語った。


 8


 ゴリオラ皇国の皇王には、シェルネリアという姫がある。

 十四人の王子、十一人の王女のうちで一番年下で、特に可愛がられている。

 シェルネリア姫はそろそろ伴侶を選ぶべき年頃なのだが、この姫、物語好きのゆえか、できるならば好いた殿方と結ばれたいという願望を密かに抱いている。

 むろん皇国の姫として国益にかなう結婚を求められることはよく承知しており、わがままを口にしたことはない。

 だが皇王のほうでも、皇家にとって有益な相手でさえあれば、できるだけ姫の意に添う相手と結婚させたいと考えている。

 今までに舞踏会を二度、園遊会を一度開いて、貴族たちの品定めをさせた。

 しかし今までは姫の心にふれる相手はいなかった。

 そこで、来年の四月に開かれる辺境競武会に皇王の名代として出席するよう下命があった。

 パルザム王国の騎士から伴侶を選んでもよいとの含みを持たせて。

 姫を他国に嫁がせるということではない。

 皇宮内で姫に新たな家を立てさせ、その騎士を入夫させる算段なのだ。


 ドリアテッサはファファーレン侯爵家の姫だ。

 母親は三番目の席次の側室だが、父はどの子も隔てなく愛しんだ。

 父侯爵の正妃は王家からの降嫁であり、その縁もあって、シェルネリア姫が生まれたときドリアテッサは学友に選ばれた。

 実際に学友として王宮に伺候したのはシェルネリア姫が三歳になったときであり、ドリアテッサは五歳だった。

 二人はお互いによい友人となった。

 と同時に、ドリアテッサの心には、姫を守る、という強い使命感が芽生えた。


 ゴリオラ皇国には女武官という役職がある。

 女同士でなければ随行できないような場所や場面で、貴顕の淑女を守護する役職である。

 二百年ほど前、王が病臥したとき戦陣に立って国を守った王妃がいた。

 王妃は王の死後数年間女帝として国を支えた。

 そうした伝統があるため、女性の武芸を許容する風潮が残っているのだ。

 ドリアテッサは武芸の鍛錬に励み、ついには騎士の叙任を受けた。


 皇家の姫はどこに行くにも必ず騎士一人以上を伴わねばならない。

 お気に入りのドリアテッサが騎士になったおかげで、姫は広い宮殿のどこにでも身軽に行けるようになった。

 現在ゴリオラ皇国には四人の女騎士がおり、あとの三人は皇后たちの護衛をしている。


「ずっとそうしてお仕えしてきた。

 五歳で皇宮に上がるようになり、十二歳でご学友兼女武官となり、十六歳で騎士になった。

 そしてさらに三年間、お側に侍ってお守りしてきた」


  待て。

  ということは、今十九歳か!


 バルドは驚愕した。

 てっきり二十二、三歳か、あるいはもう少し上かと思っていたのだ。

 驚きつつも、それを表に出さない自分を褒めた。

 おなごというものは、老けてみられるのを嫌がるものだ。

 だが、ここに配慮とは無縁の男がいた。


「へー。

 姫さん、十九歳だったんだー。

 てっきり、二十二、三歳か、それとももっと上かなーと思ってた。

 おいら、びっくりしちゃったよ」


 ゴドン・ザルコスがうなずいている。

 この馬鹿どもが、とバルドは思ったが、ジュルチャガは続けて、


「だっておとなの雰囲気ってゆーか、咲き誇ってるってゆーか。

 すげえ美人さんだもんなー」


 と言った。

 にこにこ笑っている。

 なかなかに見事な収拾のつけかただ。

 ドリアテッサは、怒るでも照れるでもなく、話を続けた。


「その間、何もなかった。

 何もなかったことに、私は誇りを持っている。

 それは喜ばしいことだ。

 だが」


 ドリアテッサは、目線を落とし、少し声の調子を低くした。


「心のどこかで思うのだ。

 ただ一度でよい。

 この剣でつかみ取った勝利を、姫に捧げたいと。

 私の、私自身の力で勝ち取った何かで、姫に喜んでいただきたいと。

 これは心得違いだろうか」


 バルドは答えなかった。


「女騎士など、稽古はつけてもらえても、試合はしてもらえぬ。

 戦に出ることもできぬ。

 辺境競武会に出たい、とぽろりと漏らしてしまった。

 それを姫が耳にされ、出場者に推してくださった。

 皇王陛下は、この前例のない推薦を受けてくださったのだが、出場者になるには実績がいる。

 私には、そのため三か月の時間が与えられた。

 魔獣を討伐したとなれば文句なしの実績だ。

 首が要るのだ。

 魔獣の首が。

 姫のご婚儀が決まれば、私は姫の元を離れなければならぬ。

 これが最初で最後の機会なのだ」


 バルドはひどく不愉快だった。

 バルドがテルシア家に仕えた四十八年のあいだに、人が死ななかった年はほとんどない。

 ゴリオラ皇国でも、きっと少なくない数の騎士や兵士が命を捧げ続けているはずだ。

 国のもっとも安全な場所で過ごしながら、手柄を立てる機会がなかったと悔やむとは。

 自分の剣で勝利をつかみたかったなどと言えるのは、その安全の価値を本当には知らない証拠だ。


  第一、王宮勤めをしながら十六歳でなれる騎士とはどういう騎士じゃ。

  しかもおなごの身で。

  こんなふざけた話は聞いたこともないわ。


 腹が立ってしかたがなかった。

 だが、ふと、なぜ自分の心はこんなにざわついているのか、と思い、目を閉じてそのわけを自分自身に尋ねてみた。

 すると自分の心がみえてきた。


  わしの心の中には、騎士とはこうあるべきだ、と思い描いてきた姿がある。

  そうなろうと努めてきた理想の姿がある。

  このおなごを騎士と認めたら、それがけがされると感じたのだ。

  また、おなごのくせに守られるありがたさが分かっておらん、という怒りがある。


  じゃが、騎士であるとかないとか、男か女かというようなことを、いったんはずしてみたらどうか。

  敬愛する者の役に立ちたいと願う心。

  おのれの生きざまにおのれで納得できるしるしを求める心。

  この若者はそういう心を持ち、ひたむきに、その心のままに生きようとしている。

  わし自身もかつてはそうじゃった。

  むちゃもしたし、わがままも言った。

  エルゼラ様は、そんなわしをいつも認めてくださった。


  よいではないか。

  この若者の考えが甘かろうと何だろうと。

  この若者が騎士であろうがなかろうが。

  どのみち、この若者は引き返せぬところまできておる。

  それなのに信じていた味方に裏切られ、たった一人になり、それでも諦めず、どこに行けば魔獣が狩れるかといてきておる。

  これに応えぬほうが騎士道に反する。

  こんななりをしておっても、姫は姫じゃしのう。


 目を開くと、一同は沈黙してバルドのほうを見ている。

 バルドは、深く息を吸い、そのなかばをいてから短く告げた。


  子爵殿にご助勢することとする。

  魔獣を探すぞ。


 ゴドン・ザルコスは、おうっ、とえ、ジュルチャガはにこにこしながらうなずいた。

 ドリアテッサは深く頭を下げた。

 見込みの低い挑戦だが、精一杯やるまでのことだ。


  それにしても、こんなふうに心を乱すとは、わしもまだまだ枯れておらんのう。


 バルドは苦笑いをした。

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