第2話 魔獣狩り
1
どこで魔獣を狩るか。
あたりまえに考えればパクラ領だ。
だが行って帰るだけで百日かかる。
しかも、ここに帰ればよいわけではなく、ゴリオラ皇国に行かねばならないのだから、三十日は余分にみなくてはならない。
天候が荒れたときのために、さらに十日は余裕がほしいところだ。
辺境競武会は来年の四月に行われ、その代表者は一月に決定されるという。
魔獣の首を持って帰るぎりぎりの期限は、今年の最後の日、つまり十月四十二日だというのだ。
今日が八月十三日だから、残された日数は百二十九日ということになる。
つまり、パクラに行って帰ったのでは間に合わない。
そのうえ、パクラに着いても、テルシア家の家臣に見つからないよう魔獣を見つけて倒さなくてはならない。
無理だ。
いっそ、大障壁を越えるか。
ここから真東に進めば、十日から十五日ほどで大障壁に着くだろう。
大障壁を乗り越えて向こう側に行けば、そこは魔獣がうろつく秘境だ。
いや。
やはり無理じゃのう。
あの壁は越えられんわい。
大障壁は壁面が垂直に切り立っており、高さが千歩ほどもある。
草や木が生えてはいるが、あまりしっかり根を張ってはおらず、鎧を着け武器を持って上って下りるのは、いかにも無謀だ。
といって、ここら辺りをうろついてもしかたがない。
いったいどこに行けばよいのか。
ここでバルドの頭に恐ろしい着想が浮かんだ。
待てよ。
ジャミーンの勇者イエミテは何と言った。
ここらでは魔獣の出没は珍しくない、と言わなんだか。
テッサラ氏族の居住地なら、パクラに行く三分の一ほどの距離だろう。
ジャミーンの許しが得られるかどうかは分からないが、行ってみる価値はある。
大障壁のこちら側とはいえ、亜人たちが占有する区域に踏み込み、しかも狩りをしようなど正気の沙汰ではない。
魔獣を祖先の霊が宿る獣と考えているようだから、なおさらだ。
が、とにかくあたってみることはできる。
必要ならもう一度霊獣とやらと戦ってもよい。
そう考えていたとき、用事に出ていたジュルチャガが帰って来て、少し焦った調子で言った。
「ごめんよ。
もうちょっと早く帰ってくりゃよかった。
この小屋、囲まれかけてるよ」
2
相手は村のほうからやって来た。
騎士三人と、従騎士六人。
そして従卒が十人。
従騎士は投げ槍を持ち、従卒は弓と矢を持っている。
悪いことに、馬は村長に預けて飼い葉を取らせている。
小屋の後ろ側の壁を破って森に逃げてもいいが、徒歩では逃げきれない。
ドリアテッサはいつものようにプレートアーマーを着けており、走る速度は遅い。
ドリアテッサの言っていた追っ手だろう。
だが、村の中にいれば襲ってこないだろうと、ドリアテッサは考えていた。
ドリアテッサがオーヴァを越えて魔獣を狩りに行くことが決まったとき、シェルネリア姫の姉姫であるエルザ姫が、ぜひ母の実家の騎士にお供をさせてください、と申し出てきた。
エルザの母親の実家はヴォドレス侯爵家であり、勇猛な騎士団を抱えている。
シェルネリア姫は、ドリアテッサの同意を得て、これを受けたのだった。
それにしてもドリアテッサの家からも騎士を出してもらえばよかったのにとバルドは不思議に思ったが、何かわけがあるのだろう。
オーヴァを渡るまでは何の問題もなかった。
だが、ヤドバルギ大領主領を抜け、ボーバード領に入ったあたりから、様子がおかしくなった。
みょうにぐずぐず行動し、ドリアテッサの指示に従おうとしない。
そして実際には東南の村に向かった。
その時点ではヴォドレスの騎士たちを疑っていたわけではなく、突然東南のほうがいいような気がしたのだ。
その周辺を調べていたときに、従騎士と従卒に襲われ、辱めを受けそうになったのだ。
そのとき従騎士が漏らした言葉から、供連れすべてが敵だと分かった。
ここは小さな村だが、それでも五十人は人がいるだろう。
ヴォドレス侯爵家の騎士がドリアテッサを害したなどと知れれば大事になる。
だから村では襲われないと考えたのだ。
ところが襲ってきた。
それが意味するところは、あまりに恐ろしい。
村人を皆殺しにするつもりなのだ。
「まさか」
ドリアテッサの顔は蒼白である。
そして、
「すまぬ」
と、悔しさをにじませた声で言った。
ドリアテッサはあちらの人数も装備も強さも知っている。
馬なしで馬に乗った騎士と戦う不利も知っている。
とうてい勝てない戦力差だ。
自分はもちろん、目撃者となるバルド、ゴドン、ジュルチャガを生かすはずはない。
ドリアテッサとともに三人は死ぬ。
巻き込んでしまったことをわびたのだ。
バルドは、ドリアテッサとゴドンに小屋の外に出るよう合図した。
ジュルチャガには小さな声で、小屋の中で物音を立てて人が何人もいるように見せよ、と指示した。
村人にこちらの人数は聞いているだろうが、多少は集中を妨げられるだろうとの狙いだ。
中央に三人の騎士がおり、馬に乗っている。
その両側に三人ずつ投げ槍を持った従騎士がおり、やはり馬に乗っている。
中央の騎士はプレートアーマーを着け、他の騎士と従騎士は軽鎧を着けている。
従騎士の前には左右に五人ずつ弓を構えた従卒が扇状に展開しており、こちらは徒歩だ。
小屋は村のはずれにあり、入り口の前には細い道らしいものがあって、その周りにはまばらに木が生えている。
陣容も布陣も、理に適っている。
従騎士六人は、投げ槍を投擲したあとは腰の長剣を抜くだろう。
従卒十人は、最初に弓を射たら恐らく邪魔にならないように後ろに下がるだろう。
従卒の腰に短剣が吊ってある。
長剣を持たせないのは、振り回したら味方の邪魔になるからだろう。
もともと戦力外に近い従卒に弓を装備させたのは見事だ。
しかも中央の騎士三人からは、強い武威を感じる。
魔獣を狩るにふさわしい一団だ。
しいていえば、中央の騎士以外がやや軽装であることが、魔獣相手とすれば心細い。
おそらく森の中での追撃に備え、身を軽くしているのだ。
防御力の高い武具は別に持って来ているに違いない。
なるほど、ヴォドレス侯爵家が優れた武人を抱えているというのは本当のようだ。
ドリアテッサは、張りのある声で襲撃者たちに言い放った。
「ヘリダン殿。
オルストバン殿。
メッサラ殿。
いずれ劣らぬヴォドレスの勇者が、女一人の首をお望みか」
答えたのはまん中の初老の騎士だった。
これがヘリダンなのだろうか。
「コヴリエン子爵様。
あなたの首を欲しいとは思いませぬ。
されどこれも武家のならい。
ご覚悟を」
「武家のならいとは、味方のふりをして女騎士にしびれ薬を飲ませ、さかりのついた獣のように襲うことか」
「何っ!?」
ヘリダンは、怒りの形相で横にいた騎士をにらみつけた。
にらまれた騎士は平気な顔をして、ちらとヘリダンを見たきり、何も言わなかった。
しばらく同僚をにらみつけてから、ヘリダンはこちらに視線を戻した。
「そのふらち者どもは、いずこに」
「斬って捨てた」
「それは、よかった」
「一つだけ教えよ。
私は
赤い花か。
白い花か」
分かりにくい言い回しだが、たぶん死んだあとに誰を恨めばよいかを尋ねているのだろう。
不利な状況を利用して情報を聞き出すとは、このおなご、なかなかやるではないか、と感心した。
騎士ヘリダンは右手を上げながら、
「あなたには赤い花が似合いましょうな。
構え」
と、答えつつ攻撃準備を命じた。
従騎士は槍を構え、従卒は矢を弓につがえた。
騎士ヘリダンの手が下ろされるとともに、攻撃の号令が発せられる。
そうすれば、弓と槍が飛んで来る。
絶体絶命といってよい。
ドリアテッサと騎士ヘリダンのやり取りを聞きながら、バルドは思案していた。
小屋の中にとじこもれば多少は弓を防げる。
しかし槍は粗末な壁や屋根をたやすく貫くだろう。
また、こもってしまえば反撃の機をつかめず、なぶり殺されるのを待つだけだ。
このよくできた半包囲陣を乱す手はないものか。
わずかな時間でよいから、敵の気をそらすことができれば、飛び込んで乱戦に持ち込めるのだが。
乱戦に持ち込んだところで勝ち目は高くないが、それ以外に活路はない。
騎士ヘリダンが右手を上げたちょうどそのとき、バルドの目は遠巻きにする村人を割って進んできた男をとらえた。
その男もバルドを見た。
バルドは、何とかなるかもしれんのう、と思った。
音もなく、かげろうのように近づいて来るその男を、バルドは知っている。
〈
3
ゆらり、と姿をゆらめかせ、ヴェン・ウリルは左翼の三人の従騎士たちに襲い掛かった。
一人目の従騎士が、槍を持つ手を肘の下で断ち切られるのが見えた。
切られた従騎士は大声を上げ、襲撃者たちは一斉に振り返った。
騎士ヘリダンは攻撃を命ずるタイミングを逸した。
好機を逃さず、バルドは突進した。
二人目の従騎士が、右脇腹を深々と斬り裂かれるのが見えた。
バルドに少し遅れてゴドン・ザルコスが突進を始めた。
バルドたちの動きに気付き、あわてて弓を撃つ従卒が何人かあった。
二本が胸と腰に当たったが、強靱な革鎧にはじかれた。
委細構わず従卒の横を走り抜け、バルドは左側の騎士の左に走り込んだ。
騎士ヘリダンは剣を振り上げてバルドを迎え撃とうとしたが、左側の騎士が邪魔で攻撃できない。
左側の騎士は剣をなかば振り上げていたが、ヴェン・ウリルの動きに驚愕していたため、バルドへの対応が遅れた。
バルドは、すれちがいざまに騎士の右膝を古代剣で打ち据えた。
その騎士はしっかりした革鎧を着けており、胸部は金属で補強してあったが、膝は装甲が薄そうに見えたからだ。
ねらい通り膝を砕いた手応えがあった。
バルドはちらりと左翼を見た。
左翼の三番目の従騎士が馬から落ちるところだった。
ヴェン・ウリルは左翼の従卒たちをなで切りにしながら、中央に向かっている。
左翼はヴェン・ウリルに任せておけばよいと判断し、バルドは右翼に後ろから回り込むことにした。
金属が金属を撃つ、すさまじい音がした。
ゴドン・ザルコスが、騎士ヘリダンを打ち据えたのだ。
吹き飛ばされるように落馬するヘリダンが見えた。
バルドが仕込んだ通り、ゴドンは騎士ヘリダンの右側に走り込んだようだ。
徒歩で馬上の敵と戦うときは、武器を持つ反対側に回れ、とバルドは教えた。
騎士ヘリダンは、自分の乗る馬の首が邪魔になり、攻撃の威力と速度が落ちたはずだ。
ゴドンの持つバトルハンマーがあまり大きくないので油断したかもしれない。
また、襲撃者たちの中では唯一、騎士ヘリダンはプレートアーマーを着込んでいた。
だが、ゴドンが振るバトルハンマーは、バルドをして盾があっても受け止められないと思わせる威力を持っているのだ。
ヘリダンの右側にいた騎士が、振り下ろしていた剣を振り上げた。
一撃目はゴドン・ザルコスを打ったのかもしれない。
そんな音が聞こえたような気もする。
もう一度ゴドン・ザルコスに攻撃を加えようとしたのだろうが、ゴドンは走り込んだ勢いのまま走り去ってしまった。
そのゴドンと交差するように、バルドは三人目の騎士の後ろを右翼方向に走る。
三人目の騎士は、バルドの動きに合わせて馬を右に回頭させようとして、立木に動きを妨げられた。
その右脇腹に、バルドの古代剣が食い込んだ。
陣羽織の下に軽鎧を着けているかと思ったが、そうではなかったようで、剣は深々と腹を裂いた。
がちゃがちゃという音が聞こえる。
ドリアテッサが走ってきているのだ。
かんかんという音もしていた。
矢が当たっているのだろう。
がいん、がいんという音を聞きながら、バルドは振り向いた。
右の肩口に衝撃があった。
馬に乗った従騎士が、投げ槍を振り下ろして突いてきたのだ。
バルドは左から右に古代剣を振り、従騎士の右脇、腕の付け根に切り付けた。
革鎧は突きには弱いものなのに、バルドにはまったく損傷がない。
革鎧職人ポルポは、この鎧が金属鎧なみの防御力があると言っていたが、まさにその通りだった。
うめく従騎士の右手をつかんで馬から引きずりおろしつつ、首筋に古代剣をたたき込んだ。
その向こうではドリアテッサが従卒たちをたたき伏せていた。
二人の従騎士が抜剣してドリアテッサを狙っているが、逃げ遅れた従卒たちが邪魔になっている。
それでも一番右側の従騎士が馬を横向きにして、うずくまる従卒の頭越しに、ドリアテッサに剣を振り下ろした。
ドリアテッサは体をひねってこれをかわし、相手の右腕に剣を振り下ろした。
細い剣だが相当の業物と見えて、深々と腕を斬り裂いた。
従騎士は剣を取り落とし、左手で右手を押さえた。
そこに後ろからゴドン・ザルコスが走り込んできて、その従騎士の腰を打ち据えた。
従騎士は前に飛び出し、馬の首にすがるようにしながら崩れ落ちた。
バルドは目の前の馬を回り込みながらこの様子を目の端にとらえていた。
バルドが最後の従騎士にたどりつく寸前、その従騎士は、うおっ、と叫んで落馬した。
手綱を持つ手首を、ヴェン・ウリルが切り落としたからだ。
残った従卒たちには、もはや戦闘能力も戦う気力もなかった。
4
バルドは抜き身の剣を持ったまま、戦場を検分した。
左翼の一番目の従騎士は、右手を失ったが、手当てすれば命は助かるだろう。
左翼の二番目の従騎士は、腹を裂かれていて、生き延びるのは難しい。
左翼の三番目の従騎士は、喉を突かれて死んでいた。
ヴェン・ウリルによるものだ。
馬を見ると、
どうして落馬したか、これで分かった。
足の内側にあるベルトをどうやって切ったのかは分からないが。
左翼の従卒五人は、いずれも足や手を軽く切られているだけで、命に別状はない。
騎士ヘリダンは、バトルハンマーで左側頭を打たれたようだ。
止め金具がちぎれ飛んでおり、よく首が折れなかったものだと思った。
へこみのついた兜を外したところ、出血はあるが、致命傷は受けていなかった。
非常に立派な鎧だ。
そうでなければ死んでいたろう。
バルドが膝をつぶした騎士は、首を切られて死んでいた。
これもヴェン・ウリルの仕事だろう。
バルドが脇腹を裂いた騎士は、馬から落ちて仰向けに横たわっている。
腹からは血と臓物があふれ出し、顔色は白く、がくがくと震えている。
この騎士はもはや助からない。
もう苦しみを止めてやるべきだ。
バルドはヴェン・ウリルを見た。
ヴェン・ウリルは、バルドの思惑を察したのだろう。
ふわりと歩いてくると、何気なく剣を振った。
首がとさりと落ちた。
右翼の五人の従卒のうち、二人は頭や肩にかなりの傷を負っているが、三人は無傷だ。
右翼の三人の従騎士のうち、一人は右腕と腰を痛めているが、死ぬことはないだろう。
バルドが首筋を切った従騎士は、大量の血を失っており、意識もない。
まだぴくぴくと動いてはいるが、すぐにこの世を去るだろう。
ヴェン・ウリルが手首を斬り落とした従騎士は、すぐに手当が必要だ。
ドリアテッサはと見れば、血にまみれた剣を持ったまま呆然としていた。
何が起きたのか、理解できていないのだろう。
死ぬしかない状況であり、覚悟は決めていた。
それなのに戦闘が終わってみれば、自分たちは立っており、敵は倒れているのだから無理もない。
襲ってきた騎士三人のうち二人が死に一人は気絶。
従騎士六人のうち三人が死に三人は重傷。
それに対してこちらは傷らしい傷さえない。
圧勝といってよい。
だが一つ間違えば
ヴェン・ウリルが絶妙のタイミングで参戦したことは、じつに大きかった。
それでも、敵の騎士がすべてプレートアーマーを着けているか、矢に毒が塗ってあれば、こちらの被害も甚大だったろう。
バルドはドリアテッサに、
村人に子爵殿の身分を告げて、襲撃されたから迎え撃ったと説明しておいたほうがよろしいぞ。
それとけが人の手当を手伝うよう命じられよ。
と助言した。
ドリアテッサは、その通りにした。
バルドは、動ける従卒たちに仲間の手当をさせ、一段落したところで、死者を安らかに横たえさせた。
粗末な敷布の上に寝る死者たちの前でバルドは片膝を突き、目を閉じて、死者の安寧を祈った。
敵も味方も村人も、バルドにならい、帽子を取り、膝を突いて黙祷した。
バルドは、襲撃者たちの始末はどうされる、とドリアテッサに訊いた。
ドリアテッサはかなり長く黙考したすえ、このまま放免する、と言った。
バルドが、ヘリダンという騎士は約束を守る男ですかの、と訊いたら、ドリアテッサはそうだと答えた。
そこで、バルドは、
報告の手紙を書いて騎士ヘリダンに渡し、必ずあなたの父君に届ける、と誓わせてはどうですかな。
と言った。
ドリアテッサ自身がすぐに帰国できないのだから、事実がゆがめられて伝えられる恐れがある。
ドリアテッサもそれはいい考えだと同意し、そのようにした。
騎士ヘリダンは、少し前に目を覚ましていたようで、二つの誓いを立てて解放された。
一つは、ドリアテッサの手紙をファファーレン侯爵に届けることだ。
もう一つは、この出来事の顛末を正確にヴォドレス侯爵に報告することだ。
部下たちが出発できる状態になったら出発するだろう。
重傷者は村に置いていかれるかもしれない。
夕食のとき、ジュルチャガがヴェン・ウリルにこう言った。
「ヴェン君。
間に合ってくれてありがとねー。
でも正直ゆーと、もうちびっと早く来てほしかった」
ヴェン・ウリルは、こう答えた。
「ジュルチャガ。
目印は助かった。
礼を言う。
もう少し早く着くはずだったのだがな。
それが実に見事な魔獣だったので、しばらく眺めていたのだ」
これを聞いて、一同は思わずヴェン・ウリルを凝視した。
バルドが、魔獣と遭ったじゃと、どこでじゃ、と訊くと、ヴェン・ウリルは、
「三日前だ、あるじ殿。
霧の谷からここに来る途中だった」
と答えた。
5
バルド・ローエンが
そのときヴェン・ウリルは、コエンデラ家に雇われてバルドの命を狙った。
二度目に会ったのはそのひと月後で、路傍に座って「この男売ります」と書いた札を首に提げていた。
いくらだと訊いた通行人に、百万ゲイルという夢のような値を答えていた。
よほどの理由があるのだろうと察して、バルドは精一杯の金子を与えた。
それは百万ゲイルの十分の一に少し足りない金額でしかなかったが、ヴェン・ウリルは受け取り、用事を済ませたらバルドの元に来ると約束してどこかに去った。
その後、用事は済んだものの、ごたごたに巻き込まれ、リンツに帰ったのは八か月後だったらしい。
これだけ時間が空いてしまえば、やみくもに後を追っても見つからない。
だが、ヴェン・ウリルはリンツの街で面白い噂を聞いた。
〈人民の騎士〉バルド・ローエンがリンツ伯の窮地を救い、二人は親友になったというのだ。
ヴェン・ウリルはリンツ伯を訊ねた。
リンツ伯は、事情を聞いて大いに面白がり、
「バルド殿のご家来なら、当家はいつでも歓迎する。
今バルド殿はクラースクにおられる。
三日前に使いの者がとんぼ返りしたところなのじゃ。
クラースクに行ってもすれ違いになるじゃろうのう。
次に使いの者が帰って来るのを待ったほうがよかろう。
それまでこの屋敷で暮らせ。
それにしても、噂に聞くヴェン・ウリル殿がバルド殿の家臣となるとはのう。
百万ゲイルでおぬしが買えるなら、わしが買いたかったわ」
と言って厚遇してくれた。
礼代わりに護衛などをするうちに、三十日もたたずジュルチャガが来た。
だが、まずいことに、ヴェン・ウリルはある用事を引き受けており、途中で投げ出したくなかった。
そこで、ジュルチャガのあとを追えるように、木の枝を折り曲げたりする目印を打ち合わせた。
村や街の出入り口にも印を付け、宿や村長に伝言を残すことも決めた。
十日後、リンツを出発し、村や街の出入り口や森の中でジュルチャガが残した目印を頼りに、バルドを追ってきた。
このようにヴェン・ウリルからいきさつを聞いて、バルドは、ああそれでか、と思うところがあった。
例えば霧の谷を出るとき、谷に入った場所から谷を出るよう、ジュルチャガが主張したのだ。
ほかにもそんなことがあった。
あれは後を追いやすいようにという心遣いだったのだ。
ともあれ、ヴェン・ウリルが魔獣と遭遇したというのは、天の
しかもここから三日ほどの距離だというのだから、恐れ入る。
それにしても魔獣というものは人の気配に敏感なものだが、よく気付かれもせず見物などできたものだ。
ドリアテッサは、思わず神に感謝の祈りを捧げていた。
6
翌日、ドリアテッサの書いた手紙を騎士ヘリダンに渡し、村長に礼を述べて謝礼を渡した。
ヘリダンがバルドに死者とけが人の扱いについて礼を述べてきたので、二人は言葉を交わした。
騎士ヘリダンは、バルドたちのことをファファーレン侯爵家が差し向けた助勢だと思っていたようで、たまたまドリアテッサと出会った放浪の騎士だと知って驚いていた。
そして、古くからの習わしにしたがい、武具と馬と所持金の半分を差し出すと申し出たが、バルドはこれを断った。
あらかじめ約定をかわした争いではなかったのだから、名誉ある集団決闘とは呼べず、略奪権を行使しようとは思わぬ、とバルドは言った。
略奪権を行使すれば彼らは敗戦のつぐないをしたことになってしまう。
彼らのつぐないは、母国に帰ってから、しかるべき場面で行われねばならない。
それに、バルドたちにはじゅうぶんな金があったし、馬と武器と防具にまったく不満がなかった。
ヘリダンは、最初にドリアテッサを襲った従騎士と従卒の遺髪と遺品を回収してから帰国するという。
それから一行は村を離れ、魔獣を探した。
二十日間も探し回ったあげく、なんとドリアテッサと出会った沢にいるのを発見した。
ここから村までは近い。
危うく大惨事が起きたところだ。
確かに
大きい。
そして美しい。
じつに美しい毛並みだ。
ヴェン・ウリルがみとれて思わず長居して見物したというのも分かる。
魔獣かどうかこの距離からは分からないが、ヴェン・ウリルが言うことだから間違いはないだろう。
岩や草ででこぼこしていて、足場がよくない。
しかしその一角以外は樹木の生い茂る斜面や山道だ。
少しでも開けた場所となると村になるが、まさかあそこに連れていくわけにはいかない。
これでは馬に乗って戦うのは無理だ、とバルドは判断して、作戦を指示した。
ドリアテッサ自身が、ただの若輩の騎士として扱ってほしいと言ったこともあり、すっかり口調はこなれている。
まず、ヴェン・ウリルとゴドン・ザルコスが沢に下りて左右から魔獣の注意を引きつける。
次に、魔獣の正面からバルドが突入して打撃を与える。
これを繰り返して、魔獣が十分に弱ったら、ドリアテッサがとどめを刺す。
このバルドの指示に、ドリアテッサは異を唱えた。
「いや。
バルド殿。
それはならぬ。
お三方が恐るべき手練れであることは、よく分かった。
しかし、これは私が望んだ戦いなのだ。
無関係の人々に危険な役をさせて自分は安全な場所で待つなど、私にはできぬ。
私が正面から突撃するので、あなたがたは援護してほしい」
このおなごは魔獣の恐ろしさをまったく分かっていない、とバルドは思った。
いくらプレートアーマーに身を包んでいても、あの大赤熊の攻撃がまともに当たれば、首の骨が折れ、あるいは関節が折れる。
もっとも、ドリアテッサは思ったより強い。
襲撃者たちとの戦いでは、馬上から敵が振り下ろした剣を小さな動きでかわし、それと同時に的確な反撃を繰り出していた。
乱戦の中でとっさにあれができるというのは、相当訓練を積んでいる証拠だ。
視界が悪く素早い動きを妨げる全身鎧を着てのことなのだから、なおさらだ。
そもそもしびれ薬を飲まされた状態で従騎士二人と従卒一人を斬り殺したというのだから、胆力もある。
鎧も立派なもので、矢はもちろん槍を受けてもへこむどころか傷さえほとんどなかった。
さらに、この二十日間、ドリアテッサは剣の鍛錬を欠かさなかった。
鎧を着けたままで振るその剣筋は、修練のあとを感じさせた。
よほど運が悪くなければ、一撃で死ぬということもあるまい。
しかもこのおなごは、言い出したら聞かぬ性質のようじゃ。
などと思っているところに、
「あるじ殿。
姫騎士殿の思うようにさせたらいい。
死ぬなら死ぬし、死なぬなら死なぬ」
とヴェン・ウリルが言った。
腹を決めたバルドは、ただ一言、
ドリアテッサ殿。
斬るな。
突け。
と言った。
7
全員で飛び出した。
すぐに大赤熊は気付いた。
ヴェン・ウリルは、影が滑るように斜面を駆け下り、他の仲間を大きく引き離して大赤熊に迫った。
大赤熊は、真っ赤な目に怒りの火を燃やし、口を大きく開いてヴェン・ウリルに噛みつこうとした。
これは確かに魔獣に違いない、とバルドは確信した。
ヴェン・ウリルは、突っ込んで来た魔獣の牙を左にかわして駆け抜けた。
魔獣は怒りの声を上げて反転し、ヴェン・ウリルを攻撃しようとした。
ヴェン・ウリルは、素早く魔獣を半周回り込んだため、一瞬魔獣は標的を見失い、動きを止めた。
赤鴉と呼ばれた男は大胆にも、剣も抜かずに突っ立ったまま魔獣の動きを見守っている。
魔獣は再び吠えて、後ろ足で立ち上がり、ヴェン・ウリルに襲い掛かろうとした。
大きい。
実に大きい。
立ち上がったその身の丈は、ヴェン・ウリルの一・五倍ほどもある。
さすがのバルドも見たことのない大きさだ。
そうでなくても大赤熊は攻撃力が高い。
少々の鎧は気休めにもならないだろう。
だが、ヴェン・ウリルは逃げようともしない。
魔獣が右前足を振り下ろしてくる。
それをふわりとかわしてヴェン・ウリルは左に回り込んだ。
このときゴドン・ザルコスがたどり着き、バトルハンマーを振り上げ、魔獣の左足の膝裏辺りにたたき付けた。
魔獣が横転した。
一撃でこの巨大な魔獣を転倒させるのだから、ゴドン・ザルコスは、まったく大した男だ。
すぐに魔獣は起き上がった。
目の前にはヴェン・ウリルがいる。
四つの足で立った状態から、魔獣が右足を振り回した。
ヴェン・ウリルは今度も後ろには引かず、上半身のひねりとわずかな足運びでこれをかわした。
魔獣の尻に、ゴドン・ザルコスのバトルハンマーがたたき付けられる。
魔獣は大きな怒りの声を上げたが、後ろを向こうとはしなかった。
今や、魔獣の注意はすっかりヴェン・ウリルに向いている。
おかしいのう。
ヴェン・ウリルは攻撃しておらん。
ゴドンのほうに向き直るはずなのじゃが。
魔獣はそれほどヴェン・ウリルを手強いとみておるのか。
魔獣は、二つの前足を交互に繰り出して攻撃してきた。
ヴェン・ウリルはこれを右にかわし、左にかわし、上体をそらしてかわした。
魔獣の至近距離を離れず、攻撃をかいくぐり続けている。
驚異的な回避だ。
バルドも魔獣の近くまできていたが、二人の邪魔にならないよう、攻撃のタイミングを待っていた。
大赤熊は川熊ほど強靱ではないが、体軀はずっと大きく、また素早い。
いくら古代の魔剣を持っているといっても、防御力が上がるわけではない。
この魔獣の一撃一撃が、致命的な威力を持っているのだ。
そのとき、がちゃがちゃと鎧を鳴らしながらドリアテッサが突撃した。
走り込んだ加速を利用して、両手で持った剣を魔獣の左脇腹に突き込んだのだ。
剣は半分ほども魔獣に食い込んだ。
魔獣は悪鬼のように顔をゆがめて叫び声を上げ、おのれの腹を刺した敵に右前足をたたき付けた。
ドリアテッサは、かわす間もなくはじき飛ばされた。
剣は魔獣の腹に刺さったままだ。
魔獣は意外な素早さで駆けだし、地に倒れたドリアテッサを右前足でたたきつぶそうとした。
だがドリアテッサに届く寸前で、その速度ががくんと落ちた。
ヴェン・ウリルが魔獣の右足首を斬り飛ばしたからだ。
それが、バルドに駆け寄る時間を与えた。
バルドの古代剣が一閃し、魔獣の首を断ち落とした。
魔獣は突進した勢いのまま大地に倒れ込み、血が噴き出た。
頭部はごろんごろんと横に転がってとまり、目の赤い光は消えた。
珍しくも驚きを顔に浮かべてヴェン・ウリルがバルドとその剣を凝視している。
だが、驚いたのはバルドも同じだ。
一撃で魔獣のあのごつい足首を骨ごと切り落とすとは。
ヴェン・ウリルの剣は、おそらく、いや間違いなく魔剣だ。
そして、ドリアテッサの剣。
あれもおそらく魔剣だ。
ドリアテッサは起き上がり、魔獣の首に近寄った。
まだ生きているかと思わせるほど生々しいその首の前にひざまずき、両手で首をつかんだ。
嗚咽している。
魔獣の首が欲しいと願ってはいたが、それがいかに見込みの薄い願いであるかは知っていたのだろう。
華やかな暮らししか知らぬ貴族の娘が、こんな辺境の奥地に踏み込み、頼みとする仲間たちから裏切られ、襲われた。
それでもなお、たった一人で魔獣を狩ろうとした。
心の中ではどれほどの心細さを抱えていただろうか。
泣けばよい。
その首には泣くだけの価値がある。
そしておぬしには泣くだけの資格がある。
気迫のこもったよい突きじゃった。
あの魔獣の吠え声は、並の騎士なら腰を抜かすほどのものじゃった。
よう耐えた。
よくぞ気迫の突きを打ち込んだ。
見事じゃったぞ。
バルドは心の中で女騎士をねぎらった。
8
「この魔剣は、
ファファーレン侯爵家の家宝なのだが、私が魔獣退治をどうしてもやめないと知って、わが兄が持たせてくれたのだ」
それは細身だが肉厚の、素晴らしい剣だった。
刺突剣のようでもあるが、鋭い刃も備えている。
金で売り買いできる品とも思わないが、もし買えるとしたら、とてつもない値になるだろう。
このような剣を、おなごに持たせるとはのう。
何かが間違っておる、とバルドは思った。
ヴェン・ウリルの佩刀が業物であることには気付いていたが、まさか魔剣とは思わなかった。
銘は明かせないという。
「あるじ殿のその剣こそ、いったい何だ」
と訊かれたので、村の雑貨屋で買った
「なにを馬鹿な。
ふむ。
だが天意を受けた人のことだからな。
そんなこともあるかもしれん」
と、ヴェン・ウリルは言った。
ともあれ、ゆっくり話をしている場合でもない。
皆で協力して魔獣の毛皮を剥いだ。
頭は、中をほじりだして水で洗った。
村に着いたら灰をもらって詰めることにする。
魔獣から流れ出る血の量と匂いはすさまじいもので、ドリアテッサは早々に気分をくずし、離れた場所で休んだ。
戦闘中、魔獣の打撃を受けて吹き飛ばされていたが、鎧の性能と体重の軽さが幸いしたらしく、特に傷も痛みもないという。
だが、体の芯に痛手を受けていることもあるから、しばらくは安静にしていたほうがよい。
作業をしているあいだに野獣が来ないか心配したが、来なかった。
生きている魔獣は周りの獣を凶暴化させるが、死んだ魔獣の血肉の匂いは、むしろ獣を遠ざける。
不思議な話だ。
巻いた皮はかさばるし重いが、置いていくには惜しすぎた。
この皮でゴドンとヴェン・ウリルの鎧をあつらえよう、とバルドは思った。
頭部はバルドが、皮はゴドンが持つことになった。
初めドリアテッサは頭は自分が持つと言って譲らなかったが、どう考えても無理だった。
ドリアテッサの馬はクリルヅーカという名の牝馬で、敏捷で利口だが体型は小さめだ。
金属鎧を着込んだドリアテッサとその荷物が乗るだけで十分な負担となっているのだ。
その点、バルドの乗るユエイタンは極めて大柄で、まだまだ余力がありそうにみえた。
ユエイタンの横に並ぶと、クリルヅーカは子馬にしかみえない。
用意した袋ではまったく間に合わなかった。
村で大きな袋か布を売ってもらわねばならない。
水が乾ききらない魔獣の首を蔦で縛って乗せると、ユエイタンは嫌そうにした。
すまんのう。
バルドは声に出して謝った。
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