第9話 エンザイア卿の城
1
クラースクを出て八日目にマジュエスツ領に入った。
山に囲まれた小さな平野地帯に、領主の住む街を取り巻いて六つの村がある。
ゴドン・ザルコスが領主を務めるメイジア領と地形が似ている。
その領主は今バルドとともにのんきな放浪の旅をしているのだが。
マジュエスツ領主アラグエド・エンザイアはよい統治を行っていて、領地は平穏だと、クラースクで聞いた。
だが、実際に足を踏み入れてみると、この地の空気は清明を欠いているようにバルドには感じられた。
それでも、とにかくマジュエスツの街に行かねばならない。
街の宿で待っていると、ジュルチャガに約束したからだ。
ジュルチャガは、リンツ伯に報告することができたと言って、ポルポの無実が明らかになったその日のうちに、クラースクからリンツに向かったのだ。
最初に入った村で、徴税官が領民から税を取り立てる場面に出くわした。
木こりなのだろうか、その領民は金属の斧を持っているのだが、税が払えない代わりに、斧を取り上げられたのだ。
木こりが金属の斧を持てるということは、領全体の豊かさをうかがわせるものだ。
反面、仕事道具を召し上げるという乱暴なやり方は、治世の程度の低さを感じさせる。
ちぐはぐだ。
すがりつく木こりを部下にたたきのめさせた徴税官は、バルドたちに目を向けると、
「旅の者か。
マジュエスツを通る者からは、一人百ゲイルの通行料を取ることになっておる。
払え」
と言った。
嘘じゃの、とバルドは思った。
そんな金額では、平民には払えない。
バルドたちが馬に乗り、それなりの鎧を着ているのを見てとって、ふっかけているのだ。
そもそも通行料自体あるかどうか疑わしい。
領民の税を集めて回る役人が旅人から通行税を取るというのも妙だ。
だが、バルドは二人分の通行料を払った。
そして、手形をくれ、と徴税官に言った。
「そんなものはない」
それはおかしい、通行料だけ取って手形を出さんなど聞いたこともない、とバルドが言うと、
「きさま!
領主様の定められたことに従えぬと申すか」
と、剣に手を掛けてすごんだ。
脅しのかけ方が幼稚なので、バルドはあきれて、ほう、騎士相手に剣に手を掛けるとは、なかなか剛気じゃの、と目に力を込めた。
バルドの殺気に当てられて、徴税官は状況を客観的に見直したようだ。
何しろ、徴税官自身は馬に乗っており武器も持っているが武威のかけらもない。
部下四人は徒歩で棒を持つばかり。
いかにも屈強な騎士であるゴドンとバルド相手では、まるで勝ち目はない。
こんな村では、他の役人が駆け付けてくれることもない。
「ま、まあよい。
格別の計らいをもって、受領証を書いてやる」
と体裁を繕い、通行料を受け取った旨を木切れに書き付けて寄越してきた。
バルドはそれをちらと見て、金額と徴税官の名を書き加えさせた。
徴税官が名を聞いてきたので答えた。
そのまま徴税官とは別れ、街に向かった。
2
「いやあ、二年ぐらい前からかなあ、ご領主様は、あんまり館から出なくなったですよ」
「そのころから役人どもが威張り散らして横暴なことするようになって」
「ご領主様の弟様もご病気だし、重臣のかたがたも次々に亡くなられて」
「
ガンツがあったので宿を取り、食事しながら街のうわさなどを聞いた。
白羅というのはどこかで聞いたことがあるが何のことだったかのう、としばらく考えて思い出した。
妖魔のことだ。
とすると、白羅王というのは妖魔の王ということになる。
この辺りでは妖魔が出るのか、と訊ねると、
「え?
ああ、そうじゃねえんで。
白羅王というのは、馬なんです。
野生の馬でしてね。
大勢の野生馬を率いている、群れのボスなんで。
そりゃあもう、白くて大きくて速くて強くて、ものすごく賢くて。
妖魔が取り憑いてるに
という説明が返ってきた。
一年と少し前に、エンザイア卿は、妻の乗馬にするために一頭の美しい野生の
その馬は、白羅王の妻だったのだ。
以来、白羅王は群れを率いてエンザイア卿の城の近くに出没して悪さをするようになった。
また、マジュエスツ領では、塩や金属製品を北方の他領から輸入しているが、エンザイア卿が北に送る隊商が、頻繁に白羅王に襲われるようになった。
そのうえ、そのころから、エンザイア卿を支えてきた良臣たちが次々原因不明の病や事故で死んだ。
事故といっても幻覚に襲われての事故死なのだから、もはや呪いといってよい。
エンザイア卿の弟も病気らしく、一切外に出なくなった。
領主の目が届かないのをよいことに、役人たちは好き勝手なことをしている。
つまり、今マジュエスツ領は白羅王の
だが、やがて領主様がこのよどみをはらってくださるに違いない。
これが領民たちの見解のようだった。
3
「ささ、もう一つ杯をお受けくださいませな」
奥方の言葉に従い、侍女がバルドの杯に酒をつぎ足した。
どうも妙なことになってしもうたのう、とバルドは思っていた。
ガンツに泊まった翌日、エンザイア卿から使いが来て、城に招待された。
城は街の北側の山の中にあり、古くて立派なものだった。
今はこうしてエンザイア卿と奥方から、晩餐のもてなしを受けている。
奥方は清楚な美人だ。
だが、最初の酒をバルドとゴドンに、奥方自らがついだとき、バルドは奥方の息の匂いを嗅いで、
なんという甘くただれた香りを放つ
と思った。
見かけ通りの貞淑な貴婦人ではないかもしれない。
夫であるエンザイア卿も妙だ。
バルドもゴドンも騎士だし、ザルコス家は名家でゴドンはその当主だ。
城に招かれても不自然ではない。
だが、エンザイア卿は、バルドのこともザルコス家のことも知らなかった。
従者も連れない自称騎士などをいちいち城に招くわけはない。
また、せっかく旅人を招いたのだから、各地の情報を聞きたがるはずなのに、それもない。
どこかしらよそよそしい、含むところのありそうな様子で、バルドとゴドンの出生地や旅の目的を聞くばかりだ。
出て来る料理も酒も良い物であるのに、心からくつろいで楽しむことができない。
その居心地悪さが気に入って、しばらく逗留してゆかれよ、というエンザイア卿の申し出を受けた。
4
滞在してすぐに分かったことは、家臣たちの中に派閥がある、ということだ。
たぶん、二つ。
二つの派閥に分かれて、家臣たちは互いに憎み合っている。
そのうちの一つは、領主派だ。
もう一つが何派か分からない。
次に分かったのは、エンザイア卿が、バルドとゴドンを嫌っているということだ。
その目つきは、どう見ても客を見る目つきではない。
敵を見る目つきだ。
二日目の夕食の際、
「わしの弱点は見つかりましたかな、ローエン卿」
と言われたときには、さすがにぎょっとした。
が、バルドはあわても怒りもせず、
この城は、まことにすばらしい作りをしておりますな。
地形も理想的で、水の確保も万全。
食料さえもてば、力攻めでは落ちないでしょう。
と答えた。
何がおかしかったのか、エンザイア卿は笑い転げた。
狂ったように。
5
三日目、城から荷駄隊が出たが、北の山で白羅王に襲われた。
白羅王は何十頭もの馬を率いて襲い掛かり、荷物はことごとく谷に落とされ、大勢の兵士と人夫が死んだという。
バルドは、荷駄隊が出ていくところを見ていたので、騎士二名と兵士二十名が護衛についていたのを知っている。
騎士は二名とも死んだという。
しかも、うち一人は白羅王に蹴り殺されたのだという。
襲撃地点は切り立った断崖沿いの狭隘な道で、白羅王は、まさかと思うような急斜面を駆け下りて襲ってきたらしい。
事実だとすれば、悪魔のような知恵を持つ馬だ。
この日エンザイア卿は気分が優れないとのことで、バルドはゴドンと二人で食事をすることになった。
四日目、バルドはゴドンを連れて、北の山地に足を運んだ。
白羅王には決まった縄張りがあると聞き、姿を見に行ったのだ。
軍勢を率いていくと白羅王は姿を現さないが、一人二人で行けば姿を現すということだった。
白羅王はいた。
群れと離れ、草原をひた走っていた。
バルドとゴドンは、高い場所からその様子を見下ろした。
見たこともないほど大きな野生馬だ。
頭頂から前に突き出た角も太く長い。
魔獣ではないかとも思っていたが、どうやら魔獣ではない。
体毛は真っ白と聞いていたが、ほんの少し灰色がかっているように見える。
すさまじく速く、そしてなめらかで自由な走りだ。
これほど立派な馬は、めったにいるものではない。
薄曇りの空の下、叢草を切って疾走するその体軀は、透き通っているかのようにみえた。
まるで草の中を泳ぐ魚のようだ。
なんと美しい生き物じゃ。
月魚のようじゃのう。
と、バルドは思った。
と同時に、その美しさは、どこか悲しみと怒りをたたえた美しさだと思った。
6
城に帰ろうとする途中、怪異が起きた。
崖沿いの道で馬を走らせていると、背筋を悪寒が走り抜け、ぐにゃぐにゃと道がゆがんだような気がした。
思わず馬の足を止めたが、その異様な感覚はすぐに治まったので、再び馬に駆け足を命じた。
ところが、栗毛の馬は、バルドの手綱に従おうとしない。
強く命じて進ませようとしたとき、ふと心に、
〈
〈道理を見極め、心をしっかりと持つんだ〉
〈そうすれば、どうってことはないんだよ〉
という言葉が浮かんだ。
あの不思議な薬師の老婆の言葉だ。
あれは、今このときのために聞かせてもらっていたのだ、となぜかバルドは思った。
馬にまたがったまま、目を閉じ、深く深呼吸をした。
後ろからゴドンが何事か話しかけているが、無視した。
しばらくすると、じゅうぶんに心が落ち着いてきた。
左下から吹き寄せる風が心地よい。
左側には崖がある。
谷の風は下から吹き上げるものだ。
では、顔に当たるこの風は、どこから吹いているのか。
前には道が続いているはずだ。
なのに顔に当たる風は、前方下側から吹き上げている。
目を見開いた。
確かに前に道が続いている。
細い道が。
腰の剣を抜いた。
古代剣は、淡い青緑の燐光を放っていた。
バルドは、強く息を吸い込むと、前方に向かって剣を振るった。
右上から左下に。
そして、左上から右下に。
すると、前方に見えていた道は幻のように消え、右側に新たに道が見えた。
もしもまっすぐ馬を駆けさせていたら、馬もろとも崖下に落ちていたところだ。
当然、命はない。
「やや!
何たること。
お、伯父御っ。
今、何が起きたのでしょうか。
わしの目には、前にまっすぐ道があるように見えておったのですが」
バルドはその問いに答えない。
前方の空中をにらんでいる。
いる。
何かがいる。
勘がそう教えた。
バルドは古代剣を握る右手に力を込めると、
スタボロス。
わしに力を貸せ!
と心中で叫んだ。
すると虚空に浮かぶ何物かがおぼろに見えた。
白く、ゆらゆらと、透き通るような、人のような人でないような不確かな輪郭。
バルドは、あやかしっ、と声に出しつつ、古代剣でそのもやもやしたものに斬りつけた。
ひどくあやふやな感触ではあったが、確かに何かを斬ったような手応えがあった。
その奇怪な何物かは、空中でぶるぶるふるえたと思うと、空のかなたに消えていった。
エンザイア卿の城がある方角に。
7
あれは、妖魔だ。
そうに違いない。
バルドはそう思った。
筋金入りの現実主義者であるバルドだが、妖魔という神秘的な生き物の存在は信じている。
ほかでもないエルゼラ・テルシアが、妖魔と会ったことがある、と言ったからだ。
エルゼラは、三代前のパクラ領主で、バルドの二人目の師匠にして生涯の恩人だ。
不確かなことを言う人ではない。
エルゼラは言っていた。
「妖魔は人には見えん。
妖魔の体のほとんどは、この世でない別の所にあるからじゃ。
じゃが、妖魔が人間に強く怒ったり、逆に仲良くなったりしたら、この世に体が引き寄せられ、姿が見えるようになる」
さきほど出遭った妖魔はどうか。
古代剣の力を借りて、かすかにその姿を見ることができたが、古代剣がなければ見えなかったろう。
実際、ゴドン・ザルコスには、最後まで妖魔の姿は見えなかったそうだ。
ということは、あの妖魔は敵意を持ってはいなかったということか。
それなのにバルドを殺そうとしたのか。
あの幻覚は妖魔のせいに違いない。
だが、崖の上の道をゆがめて見せて転落するように仕向けるというのは、ひどく人間臭い振る舞いだ。
ここ一年少々で、エンザイア家の重臣が次々奇怪な死を遂げているというが、それも妖魔のしわざと思われる。
しかし、重臣かどうかなどは人間の価値観であり、妖魔がそんな区別をつけるものだろうか。
どうもよく分からない。
ここで起きていることは、何もかもがちぐはぐだ。
部屋で思案していると、お供のかたが到着しましたという知らせがあった。
ジュルチャガが到着したようだ。
うまいときに来てくれた、とバルドは思い、招き入れて事情を説明した。
「うーん。
だいたい分かった。
おいらの勘じゃあ、まずはこの城だな。
この城をちゃんと調べたら、いろいろ出てきそーな気がする」
この城では、許された場所以外に足を踏み入れないよういわれているし、見張りが妙に厳重だ。
だが、ジュルチャガなら、うまく調べてくれるだろう、とバルドは思った。
8
「ゴドン・ザルコス殿はあいにくでしたな」
くつわを並べて馬を歩ませながらエンザイア卿が言った。
バルドは、ザルコス卿は頑健なたちで、こんなことは珍しいのです、と答えた。
ジュルチャガが到着した日、つまりバルドとゴドンが妖魔に襲われた日の夜、エンザイア卿から伝言があった。
明日、白羅王を退治するので、見物に同行されよ、ということだった。
バルドはゴドンに病気のふりをさせて城に残した。
その看病ということでジュルチャガも残した。
騎士や兵士の大方が白羅王退治に同行するのだから、ジュルチャガは悠々と城内を探索できる。
「ここが、あのいまいましい化け物馬の墓場になる」
エンザイア卿の横で崖の下を見下ろし、なるほどのう、とバルドは思った。
そこは両側が切り立った崖になっており、先は行き止まりだ。
誘い込んで入り口を封じれば逃げようがない。
「ローエン卿。
今回の荷駄襲撃で、わしも堪忍袋の緒が切れた。
家臣が次々奇怪な死を遂げたのも、やつの呪いに違いない。
今日こそは息の根を止めてくれるわ」
エンザイア卿が本気なのは、見るからに明らかだ。
崖の上には岩が積み上げられ、大勢の人足が指示を待っている。
谷底には大量の灌木が積み上げられている。
二十個ほどの油樽も置かれている。
油は辺境ではごく貴重なものだ。
大量の矢と火矢も用意されている。
ずいぶん奮発したものだ。
しかし、ここは城から近すぎる。
いかにも封殺に向いた地形であるのも気になる。
賢いと評判の白羅王が、こんな所にみすみすおびき寄せられるとは思えない。
そのことを言うと、エンザイア卿は、笑いで顔をゆがめた。
「いや。
やつはきっと来る。
あれを見られよ」
一匹の若い馬が引き出されて、谷底の杭につながれた。
ひどいつなぎ方だ。
一本の杭には後ろ足二本が、一本の杭には前足二本が、念入りにくくりつけられたのだ。
作業をすませた兵たちは、一人を残して縄ばしごで崖の上に上ってきた。
ただ一人残った兵士は、
処刑用の鞭を。
まさか!
とバルドは思ったが、そのまさかだった。
「ジャゴスよ。
打てっ」
とエンザイア卿が強い声で命じた。
ジャゴスという名の兵士は馬を鞭でしたたかに打ち据えた。
若い馬は悲しげな悲鳴を上げた。
その毛色は灰色がかった白で、どことなく白羅王を思わせるものがある。
「あれは、白羅王の子じゃ。
もともとは、あれをつかまえて、おとりにして、白羅王の妻をとらえたのじゃ。
わが妻の乗馬にするためにのう。
じゃが、白羅王の妻というのはとんでもないじゃじゃ馬で、妻を振り落としてけがをさせおった。
むろん、すぐに殺した。
それからというもの、白羅王が悪さをするようになった。
やつは悪魔のように耳がよい。
必ず自分の娘の悲鳴を聞きつけるであろうよ。
ジャゴスよ。
続けて打てっ。
打てっ、打てっ、打てっ!」
と命じるエンザイア卿の顔こそが悪魔だった。
騎士は野生の馬を愛するものだ。
よい馬がいれば捕まえて乗馬とする。
飼い慣らされた馬は生命力が弱るものだから、時々は野生馬の血を入れてやらねばならない。
元気のよい野生馬が走り回る領地は、騎士にとってあこがれといってよい。
このような仕打ちができる者は、もはや騎士ではあり得ない。
バルドは途切れず続く鞭の音と馬の悲鳴に耐えかねて、エンザイア卿をいさめようと口を開きかけた。
そのとき、強く太い馬の足音が聞こえた。
白羅王が来たのだ。
すさまじい勢いだ。
群れの馬はいない。
ただ一頭だ。
あの勢いでは、ついてくることはできなかったろう。
「落とせ!」
エンザイア卿が、激しく命じた。
用意された岩が落とされ、谷の入り口を埋めて行く。
白羅王は、落ちる岩に目もくれず、つながれた若い馬のもとに走っていく。
「ジャゴスよ。
切れ!」
エンザイア卿の命を受けて、ただ一人谷に残った兵士が大きく反り返った刀を振り上げた。
まさか。
まさか。
刀は容赦なく振り下ろされ、若駒の首を切り落とした。
白羅王は叫び声を上げた。
慟哭そのものといってよい、悲しみと怒りに満ちた叫び声だ。
馬は賢い。
今目の前で何が起きたのか、それが誰のせいなのか、白羅王は人間と同じほどに理解している。
白羅王の嘆きの声は、バルドの胸を激しく揺さぶった。
いつの間にかバルド自身が、白羅王と同じように慟哭の叫びを発していた。
そのため、気付くのが少し遅れた。
エンザイア卿の兵士二名が、渾身の力を込め、槍でバルドの乗馬の尻を突いたのだ。
栗毛の馬は悲鳴を上げて飛び出し、崖の下へと落ちた。
落ちる瞬間振り返って、何が起きたのかをバルドは知った。
不思議なことに、刹那といってよいその瞬間に、バルドはエンザイア卿の表情をはっきりと見た。
愉悦の表情でバルドの死を見つめる顔を。
バルドを乗せて落下しながら、栗毛の馬は体をひねった。
そして崖の斜面を前足で掻いた。
がりがりと、何度も。
バルドは必死で馬にしがみついた。
すぐに落下の衝撃がやってきた。
吹き飛ばされるように馬と引き離され、背中から地面に激突した。
普通なら死んでいた。
だが、バルドの装備は頑強な川熊の魔獣から作られたものであり、背中には革の内側に毛と腹皮を使ったクッションが貼り付けてあった。
バルドは起き上がり、栗毛の馬に駆け寄った。
死んでいた。
首の骨が折れていた。
前足のひづめは両方とも血だらけで裂けている。
少しでも落ちる速度を緩めようと、蹄で必死に崖を掻いたからだ。
後ろ足は二本とも、あり得ない形で曲がりつぶれている。
おそらくこの馬は。
着地するとき、大きく後ろ足を下に伸ばしたのだ。
少しでもバルドへの衝撃が少なくなるように。
そして着地のあと、その反動で岩に首を打ち付けて死んだ。
無残な死体にすがりついて、バルドは泣いた。
おおおお、おおおお、と声を上げて泣いた。
涙を流しながら泣くなど何年ぶりか。
だが涙を止めることはできなかった。
「バルド・ローエン!」
それはエンザイア卿の声だった。
バルドは立ち上がり、崖下から上を見上げた。
「このいまいましい間者めがっ。
どこの家に頼まれた?
ランデルボア家か。
マリグル家か。
わしの正体は分かったか?
だが、それをどこにも報告することはできん。
貴様は今ここで死ぬのだからな。
ゴドン・ザルコスも今頃は死んでおるさ。
燃やせ!」
エンザイア卿の命を受けて火矢が放たれた。
その狙いは大量に積み上げられた灌木であり、距離を置いて並べられている油樽である。
このままでは、矢に射られながら焼け死ぬしかない。
見れば、ジャゴスという名の兵士は、縄ばしごをのぼりかけて、頭を踏みつぶされていた。
その前に白羅王が立って、憎しみに燃える目で、崖の上のエンザイア卿をにらみつけている。
白羅王が、バルドを見た。
バルドも、白羅王を見た。
不思議なことだが、このとき、バルドは白羅王が何を考えているか分かる気がした。
白羅王が駆けてきた。
まっすぐバルドに向かって。
バルドはまったくよけようとしない。
白羅王が姿勢を低くした。
バルドはその首にすがりつき、白羅王が方向転換をした反動を利用して背に乗った。
走る。
走る。
素晴らしい速度で白羅王が走る。
火矢が降り注ぐ谷を駆け抜けていく。
前方では転がり落とされた岩が道をふさいでいる。
その手前で白羅王は反転した。
そうじゃ。
それでよい。
そこは上れそうで上ることができん。
そこを駆け上がれば岩が崩れてつぶされる。
そうでのうても、そこは矢に狙い撃ちされる位置じゃ。
とバルドは思った。
この状況に活路があるとすれば、それはただ一つ。
その思いをくみ取ったかのように、白羅王は谷の切れ目に向かう。
速く、なお速く。
左右の灌木が燃え上がるのを目の端にとらえながら。
加速を重ねて行き止まりに向かう。
後ろで油樽が次々に破裂して炎と黒煙を吹き上げている。
白羅王は、切れ目の終点に到達し。
そして。
あまりにも急なその斜面を駆け上り始めた。
切り立った断崖であり、最上部は垂直に近いその斜面を、魔法のように白羅王は駆けた。
一瞬あぜんとした兵たちは、狂ったように矢を射てきた。
しかし、谷から吹き上がる風にあおられ、矢は勢いを失いあちらこちらに吹き流されてゆく。
たまさか当たるひょろひょろ矢など、白羅王とバルドをいささかもひるませることはできない。
そしてついに白羅王は断崖を登り切り、高く高く崖上に跳び上がった。
宙を飛んで降り立った場所は、エンザイア卿の真正面である。
エンザイア卿が剣を抜いて白羅王に切り付けようとした。
振り上げたその右手首をバルドの古代剣が打ち据え、エンザイア卿は剣を取り落とした。
白羅王は、大きな口を開き、エンザイア卿の頭部をくわえ、馬首をひねって谷に向かって放り投げた。
首の骨の折れる音が聞こえた。
重そうな鎧を着けたまま、エンザイア卿の体が宙に浮き、バルドの目の前を通り過ぎる。
バルドは、甘い腐臭を嗅いだような気がした。
エンザイア卿の体は放り出された勢いのまま崖を飛び出し、燃えさかる谷底に落ちていった。
灌木の上に落ちて火の粉をあげ、そのまま動かない。
続けざまに何個かの油樽がはじけ、舞い上がった炎と黒煙がエンザイア卿の死体を覆った。
バルドは、襲い掛かってくるであろう兵たちを迎え撃つため、振り返った。
兵たちは凍り付いたように動かない。
兵の半ばは谷に落ちたあるじのほうを見ている。
半ばは、城の方角からやってきた一団を見ている。
殿だ、本物のご領主様だ、という兵たちのざわめきが聞こえる。
先頭にいる髪とひげをぼうぼうに伸ばした騎士は、どことなくエンザイア卿に似ている。
いや。
どうもこちらが本当のエンザイア卿であるらしい。
周囲の兵たちから殺気が消えていく。
バルドも白羅王も、死なずに済むようだ。
9
バルドは白羅王の背に揺られている。
いや、もう白羅王ではない。
なぜか白羅王はバルドから離れないので、鞍をもらって乗せてみた。
嫌がりもせず鞍を着け、白羅王はバルドの手綱に従った。
どうやら白羅王も放浪の旅に出たい気分だったようだ。
となると、白羅王という名はひどすぎる。
何かよい名はないかとバルドは考え、水を泳ぐ魚のように草むらを疾走する姿を思い出した。
そこで、この白馬に
城に残ったジュルチャガは、さっそくその能力を発揮し、地下牢の存在を突き止めた。
そこには二人の囚われ人がいた。
一人は、本物のエンザイア卿だ。
偽物は弟だった。
領主である兄を幽閉し、成り代わったのだ。
弟に従う家臣もいたが、逆らう者のほうが多かった。
逆らう家臣のある者は殺し、ある者は兄を人質にして従わせた。
地下牢は頑丈で、鍵のありかは偽のエンザイア卿しか知らない。
心ある家臣は、憤りを抑えながら、時を待っていたのだ。
ジュルチャガは、もともと名うての盗賊であり、この地下牢の鍵は彼にいわせれば「ちょろい代物」だった。
見張りたちに一服盛ってしびれさすと、いともあっさりエンザイア卿を解放したのだ。
たちまち、城はエンザイア卿の手に取り戻された。
偽のエンザイア卿が放った刺客に襲われたが、ゴドン・ザルコスがたたき伏せた。
エンザイア卿は、恩人である三人をもてなしたいと申し出たが、バルドは、
エンザイア卿は幽閉により損なわれた健康を取り戻されねばならんでしょう。
また、城と領内には、やらねばならん後始末も多いことでしょう。
私どもは、このまま旅に出ることにいたしますわい。
と、早々に城を後にしたのだった。
だが、急な旅立ちの本当の理由は、二人目の虜囚にあった。
その人物は、今、バルドの前にちょこんと座っている。
長い耳。
土色の肌。
緑の複眼。
小柄な体。
木の枝のような腕と指。
ルジュラ=ティアントの子どもだ。
ルジュラ=ティアントは、亜人の中でも特に神秘的な一族だ。
数も少なく、人を避けるので、めったに会うことはない。
ルジュラ=ティアントは妖術で人を惑わし殺す、ともいわれる。
恐れられ、忌み嫌われる亜人なのだ。
地下牢でルジュラ=ティアントを発見したジュルチャガは、さっさと城から連れ出して森に隠した。
それを知ったバルドは、早々に城を辞し、ジュルチャガにこの亜人を迎えに行かせたのである。
ジュルチャガに、なぜこんなことをしたのかと訊くと、
「なぜって。
あのままにしといたら殺されちゃうじゃん」
と答えた。
この男には、弱い者を憐れむ心があるのう、と思った。
城からじゅうぶんに離れてから、バルドはルジュラ=ティアントの子どもと話をした。
まず、名前を聞いた。
すると、ルジュラ=ティアントの子どもは、
「ぼく、モウラ」
と答えた。
人間の言葉が分かるのはありがたかった。
「これ、スィ」
モウラが言葉を続けると、空中に白い影がぼうっと浮かび上がった。
「うおおっ。
よ、妖魔かっ?」
とゴドン・ザルコスが驚いているが、バルドもジュルチャガも驚いていない。
バルドが驚かないのは最初から見えていたからだが、ジュルチャガもそうなのだろうか。
「スィ、妖魔違う。
精霊」
妖魔と精霊は違うらしい。
モウラによれば、人間にかじられた精霊が妖魔になるらしい。
どうやったら精霊をかじれるのか、よく分からないが。
北東のほうにルジュラ=ティアントの集落があるらしい。
好奇心のままずっと南に出てきたところをエンザイア卿の弟に捕まった。
弟はモウラを閉じ込め、脅して言うことを聞かせ、兄を陥れて幽閉して成り代わり、邪魔な家臣を殺した。
もっとも、偽のエンザイア卿は、モウラ自身に幻影を見せる力があるのだと思っていたようだ。
実際には、モウラが友人である精霊のスィに頼んで幻を生み出していたのだが。
モウラは仲間の所に帰りたいというので、送っていくことにした。
急ぐ旅ではないのだ。
モウラをユエイタンの背に乗せ、手綱を握る手で抱えるようにしながら、いろいろ話をした。
話をしながら、バルドは自分の心の動きをいぶかしんだ。
いくら脅されてのこととはいえ、この亜人と精霊は、十人以上の人間を謀殺したのだ。
バルド自身とゴドンも殺されるところだった。
なのに、憎しみも恐れも湧いてこない。
以前のバルドなら、モウラとスィの罪を憎み、報いを受けさせねばならないと考えただろう。
旅に出てから、いろんなこだわりが洗い流されているような気がする。
魔の化身ともいわれるルジュラ=ティアントを馬に乗せて、魔そのものである妖魔を間近にしながら歩を進めているのだが、何の嫌悪感もない。
気持ちのよい歩みだ。
あのエンザイア卿の城で感じたえたいの知れぬおぞましさは、この二人のせいではなかった。
「エンザイア卿と奥さんには子どもいるよ。
五歳ぐらいの男の子。
奥さんの実家はプレゼアル家っていって、西のほうにあるんだって。
そこに預けてあるらしいよ」
「おお、そうか。
奥方の実家も、エンザイア卿のことは心配だったろうな。
妙な噂が飛び交うし、主立った家臣が次々死んだのだからのう」
ジュルチャガとゴドンの会話に、そうではないかもしれんぞ、とバルドは口を挟んだ。
エンザイア卿の城で起きていたことは、全体にちぐはぐすぎる。
見た目通りのものとは思えない。
本当に首謀者はエンザイア卿の弟だったのか。
そうだったとすれば、やり方が中途半端だし、自領の力を弱め、破滅する道を歩んでいたようにみえる。
跡継ぎを何年も奥方の実家に預けたままというのも、いかにも妙だ。
そのプレゼアル家は、事態をまったく知らなかったとは思えないのに、なぜ放置していたのか。
そもそも、あの奥方は、女主人として実に堂々と思いのままに振る舞っていたようにみえた。
夫を人質に取られ無理矢理言うことを聞かされている態度ではなかった。
今日にもプレゼアル家が軍勢を派遣し、混乱を治めるためと称してエンザイア卿とその城を制圧し、跡継ぎの少年を押し立ててこの領土をわが物としたとしても、わしは驚かんのう。
そうバルドが言うと、
「むむむむむ」
とゴドンはうなり、
「貴族、こええっ」
とジュルチャガは首をすくめた。
そして、厄払い、厄払いと言いながら背中の荷袋から瓶を取り出すと、中身を飲んで、
「う、うめ−。
すげーうめー」
とはしゃいだ。
「それは何じゃ?」
というゴドンの問いに、
「あ、焼き酒だよ。
エンザイア卿の旦那がくれたんだ。
飲む?」
「おお、そうか。
うむ!
これはうまいなっ。
極上の焼き酒じゃ」
素直にジュルチャガの言葉を信じたらしいゴドンに、そんなわけがあるか、ジュルチャガめ、
その代わり、馬を寄せてゴドンに近づくと、瓶を取り上げた。
紋章を焼き付けた瓶である。
大陸中央の国で作られた相当の高級品ということだ。
ぐいっ、とあおった。
蒸留酒特有の強い刺激が喉を燃やした。
舌も口内も、ぴりぴりと焼けた。
と同時に、なんともまろやかで深みのあるこくを感じた。
ふうと息を吐けば、
結局、栗毛の馬の名は知らないままだった。
ザルコス家で育てた馬なのだが、ゴドンも名を知らなかった。
わしはいつも良い馬に恵まれるのう。
バルドは、せめて
今度はじっくり口の中で味わった。
複雑な味だ。
年を経て、あくや渋みや苦みが降り積もり、透明な酒を琥珀色に変える。
酒は、おのれを染めてゆく不純物を嫌わない。
静かに抱え続けてゆき、やがてすべてはまろやかに溶け合う。
そこにこの酒のうまさがあるのだ。
バルドは口の中の酒を、じっくりと味わった。
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