第6話 月魚の沢
1
「お客さん。
プラン
透き通ってきれいじゃろうが。
焼き酒や濁った酒じゃったら、月魚の味を殺してしまうけんのう」
「おう、そうなのか。
それじゃ、そのプラン酒をくれ。
ところで、月魚というのは、どういう魚なんだ?
煮て食うのか?
焼いて食うのか?
どんな味がするんだ?」
「ありゃ。
お客さん、ご存じじゃねえんか?
へじゃったらお教えするのはやめとくけん。
どげえな味もこげえな味も。
味っちゅうか、何ちゅうか。
何とも言えん味わいじゃけん。
気持ち悪いゆうて言う
まあ、一度やったらやめられん。
わしも明日あたり食いにいこうかのう」
ゴドンが旅の道連れになってから、二か月ほどになる。
二人は、エグゼラ大領主領の南のはずれにある小さな村にいる。
メイジア領からここまで、最も短い道をとれば六十刻里ほどだろうか。
健脚の持ち主なら徒歩でも一日に四刻里は進めるのだから、ずいぶんのんびりした馬旅だ。
景色を愛で、土地土地の味を楽しみながらの旅だから、無理もない。
そのうえ、ゴドンはこの旅が民衆救済の旅だと思い込んでいるようで、野獣に苦しんでいるという村では、一週間も野獣狩りをした。
五人組の盗賊を捜して八日間山道をうろついたこともあった。
結局見つけることはできなかったが、盗賊はどこかに逃げたのだろう、と村人に感謝された。
それはよいのだが、あちこちで〈人民の騎士〉バルド・ローエン殿じゃ、と人の名前を触れ回るのはやめてほしかった。
この村に着いて、名物料理を訊いたら、それなら月魚だ、と教えられた。
山に上っていくと、沢があり、そこに店がある。
月魚は、その店でしか食べられないのだという。
この村の人々も、月魚を食べたいときはそこに行く。
昼でも食べられるが、夜のほうがよく、その店で夜明かしもできる。
月を見ながら月魚を食べつつ飲む酒は、ほかで味わえない趣があるという。
ユエイタン。
月の光から生まれる魚。
いったいどんな魚なのか。
これを見逃し食べ逃すなどあり得ない。
二人はいそいそと馬を駆った。
沢にある店は、すぐに分かった。
小太りで威勢の良い女将が迎えてくれた。
大柄の武人二人が来たのを見て、最初は何事かと思ったようだ。
月魚を食べたいのだがと言うと、今は獲れないので夜まで待ってほしいといわれた。
出された茶を飲みながら、女将の身の上話を聞いた。
女将が夫とともにこの山に来たのは、十一年前だという。
夫はこの沢がひどく気に入った。
魚や山菜が美味で、景色は美しい。
そして、トーガが群生していた。
トーガは、辛くてさわやかな香辛料だ。
清涼な気候で澄んだ水が潤沢な場所にしか生えない。
夫と女将はここに腰を据えたいと考えた。
村長はトーガの発見に喜び、領主に掛け合って二人の願いをかなえてくれた。
女将と夫に限り格安の税率が適用される代わり、トーガは麓の村以外には売らないことが取り決められた。
のちに四家族がこの沢にやって来た。
夫は四家族にトーガを採ることを許した。
夫は三年前に、いい人生だったと言い残して死んだ。
月魚の存在には住み始めてすぐ気付いたが、その真価に気付いたのは二年目だったという。
ある条件のもとで収獲し、あるやり方で食べた月魚は、この世のものとも思えないほどの珍味だったのだ。
だが、ほんの少し時間をおいただけで、奇跡の味は失われる。
だから、ここでしか食べられない魚なのだという。
茶の次には酒が出た。
山菜の和え物をつまみながら酒を飲んでいたとき、重大な問題が発覚した。
酒の残りが少ないのだ。
女将は四軒の家人に尋ねたが、二人の口に合うような上等の酒はなかった。
馬で下りれば、麓の街まで大した時間はかからない。
二人は月魚のために、街に下りて酒を仕入れることにしたのだった。
2
酒を買い込んで沢の店に戻ろうとしかけた二人は、道を進んで来る軍勢に気付いた。
先頭を行くのは盾持ち兵士二人。
そのあとに弓兵十人が続く。
弓兵の後ろを行くのは五人の荷物持ちだ。
背負った矢樽には、火矢が詰め込まれている。
隊列の最後尾に騎士がいる。
そのあとに町人らしき二人が続いている。
部隊がまとう空気は、彼らがただならぬ任務の最中であることを告げている。
部隊が通り過ぎたあと、人々の噂話から、その任務を知った。
山の沢の集落で、
店の女将が発病したのを、村の薬師が確認したという。
長年人を助けてきた薬師の言である。
領主はただちに騎士を派遣した。
騎士は、村長に事情を説明するとともに、監督不行届を叱責した。
そして今、騎士とその部下たちは、山に入るところなのだ。
死灰病。
バルドの知る限り、テルシア家の領土やその周辺で死灰病が発生したことはない。
だが、もし発生していたとしたら。
バルドはその村を、街を、焼き払わなくてはならなかった。
そこに住む人々すべてを殺さなければならなかった。
死灰病とは、それほど恐ろしい病なのだ。
発病した者は、灰を塗りたくったような斑点が体中にできる。
斑点は大きくなっていき、やがては体中が覆われる。
そうなれば、すべての水分を垂れ流し、くるしみのたうちながら死んでいくほかない。
その病人にわずかでも触れた者は、同じ病にかかる。
村に病人が出ればその村を、街に病人が出ればその街を滅ぼしてしまう病なのだ。
病人が隣の街に逃げだそうものなら、隣の町も滅んでしまう。
兵士たちが、こわばった表情をしていたのも無理はない。
病そのものも恐ろしいが、それだけではない。
守るべき領民を殺さねばならないのだ。
兵士たちはもう二度と安らかに眠ることはできない。
街を巡回するさなかにも、殺した者の家族が、友人が、恋人が、こちらを見ているのではないかと感じるだろう。
だがそれでも、やらねばならないことは、やらねばならない。
その怖じける兵士たちを率い、つらい務めを断固として果たさせる騎士の苦しみは、大変なものである。
いや。
いや、待て。
山の沢の集落じゃと?
女将が発病したじゃと?
つい一刻前まで、わしらと元気に話をしておったではないか。
これは何かの間違いじゃ!
バルドはそう思い、馬を駆って部隊に追いついて、指揮官である騎士に話し掛けた。
だが騎士は横目でちらりとバルドを見たきり、立ち止まろうとも、話し合いに応じようともしない。
誰が何と言おうとも耳を貸すな、とでも命令を受けているのだろう。
兵士たちもバルドを無視しようとしている。
心を固く閉ざさなければこのような任務は果たせない。
彼らは必死で耳をふさいでいるのだ。
このままではらちが明かないと考え、バルドはゴドンを連れて部隊の先回りをして、山道を上がった。
騎士以外は徒歩なのだから、行軍速度は速くない。
沢の少し手前に、単騎で部隊を食い止めるのに都合良い地点があった。
二人ははそこで待機した。
やがて部隊がやって来る。
どうすればよいのだろう。
部隊を食い止めておいて、女将や集落の人々を逃がすか。
だが、事は死灰病なのだ。
逃げた者は徹底的に探され、殺される。
そもそも、あの女将は夫との思い出の家をそう簡単に捨てはしない。
部隊を追い返すか。
ゴドンとバルドの二人なら、それは可能かもしれない。
とはいえ、相手には盾と矢があり、重装備の騎士もいる。
対するこちらは、旅にふさわしい軽鎧をまとっているだけだ。
手加減などしようもない戦いになる。
そもそも、追い返したとしても、沢の集落に平安は訪れない。
どうすればよいのか。
自分がこの部隊の指揮官なら、沢に着いてからどうするだろう。
集落の中には絶対に入らない。
取り囲むように兵を配置し、遠間から矢を撃ち込んで、集落を焼き払うだろう。
飛びだしてくる者があれば射殺す。
顔が見え、話ができるような距離には近寄ろうとしないだろう。
ということは。
ゴドン!
女将をここまで連れてくるのじゃ。
急げっ!
ゴドン・ザルコスにそう命じた。
ゴドンは、おうっ、一声吠えて山道を駆け上って行った。
これからしばらくのあいだ時間をかせげばよい。
これ以上部隊を上に進ませてはいけない。
来た。
部隊がやって来た。
兵たちの足が地を打つ音は、不自然に力強い。
おのれを鼓舞しなければ前に進めないのだろう。
声が届く距離になったとき、バルドは大声を発した。
パクラの騎士バルド・ローエンと申す。
沢の集落のことにつきて申し上げたき儀これあり!
指揮官殿のご尊名を伺いたし。
これに対し、初めて指揮官は返答をよこした。
「それがしはドラノーの騎士マルガゲリ・エコラ。
旅の騎士殿。
差し出口はご無用に願いたい。
道を開けられよ」
強く深い声だ。
年輪を重ねた戦士の声だ。
部隊は少しも速度を緩めない。
盾持ちを先頭に、縦一列に並んで進んで来る。
バルドは、ほんの二刻前に無事な女将の姿を見たのだ、と言おうとして思いとどまった。
それは、死灰病の病人に触れた、と告白するにひとしい。
その言葉を発すれば、問答無用でバルドを殺しにかかるだろう。
もう盾持ちの兵とバルドの距離は十歩ほどだ。
バルドは剣を抜いた。
斬り込もうとして抜いたのではない。
牽制するためだ。
「盾、構えっ。
突撃!」
指揮官が鋭い声で命じた。
盾持ち二人が盾を構えてバルドに突進してくる。
領主の命により緊急の軍事行動にある部隊に剣を向けたのだから、矢で射殺されても文句は言えない。
そうであるのに矢も剣も使わず盾で押しのけようとするのだから、この指揮官は非情の人ではない。
歴戦の騎士であるバルドからすれば、盾持ち二人をいなして弓兵の列に突っ込み、部隊を混乱状態に陥れることは難しくない。
だが、それをすれば戦闘になる。
どうすればよいのじゃ。
スタボロスよ。
教えてくれ。
左手で、スタボロスの形見である剣鞘をなでた。
迷う間もなく、盾持ちの兵が突っ込んできた。
バルドは思わず古代剣の剣先で盾を突いた。
しまった!
バルドは自分自身の行動にあわてた。
古代剣の剣先は、とがっていない。
すっぱりと横に断ち切られたような形をしている。
これで突いたところで、盾をどうすることもできない。
どうかしてしまうのは、バルドの肩だ。
相手は大柄な兵士だ。
体ごと突進してきている。
先の平たい剣でこれを突けば、その衝撃はすべてバルドの肩にくることになる。
盾と古代剣がぶつかる瞬間。
青緑の燐光が輝くのをバルドは見た。
肩には痛みも破壊も訪れなかった。
物を突いた手応えはあったが、それはごく軽いものだった。
盾持ちの兵が受けた打撃は、軽いものなどではなかった。
先頭の盾持ちは後ろに吹き飛んだ。
すぐ後ろを走っていた盾持ちは、先頭の盾持ちを支えるどころか、一緒になって後ろに吹き飛んだ。
二人は八歩ほど離れていた弓兵の列に突っ込み、兵たちをなぎ倒した。
弓兵たちは将棋倒しになり、結局、指揮官以外のすべての兵は、その場に倒れ伏した。
指揮官の騎士は思わず馬を止めて目を見開いた。
「な、なんという武威。
待てよ。
バルド……。
バルド・ローエン?」
そのとき、山道の上のほうから馬を駆る音が近づいてきた。
ゴドンだ。
後ろに女将を乗せている。
「待てーーーー!
待て待て待てーーー!
わしは、〈人民の騎士〉バルド・ローエン卿の供、メイジアの騎士ゴドン・ザルコス。
この通り、沢の店の女将を連れて参った。
この女将のどこが死灰病かーーっ。
しかとその眼で見届けよっ」
と叫びながらバルドの脇をすり抜け、馬を止めて降り、女将を下ろした。
目の前に女将を連れて来られれば、見ないわけにはいかない。
そして、間近に見れば、死灰病になどかかっていないことは明らかだ。
「これはっ?
薬師殿。
これはいったいどういうわけか!」
指揮官の声には厳しい詰問の響きがある。
薬師の男は、その場にへたり込んだ。
薬師の横にいた男が走って逃げた。
兵士二人が追って取り押さえた。
その男を見た女将は、
「あれえ?
そん
この辺じゃあ見ん顔じゃけど」
指揮官の騎士が剣を突き付けたところ、すぐに真相を白状した。
男は、この大領主領の北方を荒らしていた盗賊団の一味だった。
派手な稼ぎをしすぎたために、騎士団が派遣され、一味は壊滅した。
男一人が追跡を振り切り、この山に来た。
隠れ家から持ち出した大金を、山の中の目印の木の下に埋め、身軽になって遠方に逃げた。
それが十五年前のことである。
今年になって、ほとぼりがさめたと見極めて帰って来た。
大金を埋めた場所に行って驚いた。
木は切り倒されて店が建っていたのだ。
店を譲れと迫ったが、女将は取り合わない。
どうしたものかと思案していると、薬師の男とばったり遭った。
この薬師も昔は盗賊団の一味だったのだ。
正体をばらされれば首が飛ぶ。
薬師は男に脅されて、沢の女将が死灰病を発病したと、領主に訴え出たのだった。
3
「どうなりますかなあ、あの薬師」
薬師は、長年村に尽くしてきた。
夜中でも快く診察してくれるし、貧しい者からは無理に薬代を取ろうとはしなかったという。
優しい薬師だと、村人たちに慕われていたらしい。
昔の罪は罪として、死罪は免れるかもしれない。
とはいえ、死灰病だと嘘をつくというのは、薬師としておよそ最悪の罪だ。
本来は火あぶりだ。
女将は、自分の家の下に大金が埋まっていると聞いて仰天していた。
もう夜になるから、護衛のため兵士二人が泊まり込み、詳しい調査は明日することになった。
指揮官の騎士は、なんと沢の店の常連だった。
女将を殺さずにすんだのはあなたがたのおかげでござる、とバルドとゴドンに頭を下げた。
ぜひ領主の館にお越しいただきたいといわれたが、それは固辞した。
バルドの名はともかく、メイジア領主ゴドン・ザルコスの名は、この辺りではよく知られているだろう。
他領の領主がよそのもめごとに首を突っ込んだとなると、双方にとって具合が悪い。
何もなかったことにするのが最上だ。
ゴドン・ザルコスはここには来なかったのであり、したがって領主の館にも行かないほうがよい。
バルドはそう指揮官を説いた。
実のところ、体がひどくだるく、ずきずきと頭も痛んだので、面倒なことがいやだったのだ。
「昔は残忍な強盗だった男が、優しい薬師として人に慕われるような生活をするとは。
人間とは、分からないものですなあ」
そうだ。
人間というものは、分からないものだ。
分からないといえば、この古代剣も分からない。
ゴドンとの対決では力を現さなかった。
あれから今日まで、何度も野獣を切ったが、一度も不思議な力はみていない。
もしや魔獣が相手でなければ真の力が出ないのか、などと考えていた。
だが先ほどは魔獣が相手ではなかった。
いったい、どうなっているのか。
「それにしても、月魚は食いっぱぐれてしまいましたな」
バルドは思わず手綱を引いて、馬を停止させた。
月魚を食べそこねた、だと?
バルドはくるっと向きを変えて、引き返し始めた。
「おおっ?
お、伯父御?
帰るのですか。
めんどくさいのがいやだからと、今日は野宿に決めたのでは?
村を通らねば山には入れませんぞ。
あんなに盛大に見送ってもらって、今さら帰るのですか?
伯父御?」
明日になれば埋められた大金を探すため、店の一部は壊されてしまうだろう。
今夜なら、まだ間に合う。
月魚は満月の夜が一番うまいと女将は言っていた。
まさに今夜は、二つの月が真円に輝く日だ。
プラン酒も買い込んである。
「お、伯父御ー。
そんな、に、急がな、くて、もー」
ゴドンは分かっていない、とバルドは思った。
物事には軽重の区別があり、緩急のけじめがある。
重要な事柄を前にしては些事にこだわるべきではない。
急ぐべき事柄を前にしては行動をためらうべきではない。
二つの月については、こんな伝説がある。
星神ザイエンが、姉妹の姫に結婚を申し込んだ。
姉の姫は、取る物も取りあえず駆け付けて妻となった。
妹の姫は、美しく着飾ることに時間を取られ、間に合わなかった。
ゆえに、姉の姫は〈
サーリエは、嫁に行けず祖先の財産をすべて譲り受けたため、〈すべてを持つ者〉とも呼ばれる。
今夜も、磨き上げた白銀の馬車で、
スーラは優しくほほえみながら、妹が追いつくのを待っている。
急げば、二つの月を見上げながら月見酒が飲める。
いや、もしかしたら、今夜は〈合〉の日だったか。
二つの満月が重なるとき、サーリエは姉に照らされて光の宝冠をまとう。
〈合〉の双月を見ながら飲む酒は、格別の味わいだ。
きっと月魚とやらも、とびきりのうまさに違いない。
サーリエがスーラに追いつくまでに、沢に着かねばならない。
走れ。
さあ、走れ。
美しきサーリエが虚空を駆けのぼり、地上を鮮やかに照らしてゆく。
次第にくっきりと描かれていく人馬の影は、二振りのナイフのように草原を切り裂く。
生い茂る草に初夏の香りをかぎながら、バルドは栗毛の馬を駆った。
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