第3話 薬師の老婆
1
目が覚めた。
夜だ。
たき火が燃えている。
横に老馬スタボロスの体温を感じる。
「
あんたを川から引きずり上げたのも、その馬みたいだね。
あたしがあんたを見つけたときも、そうやってあんたの横にぴったりくっついて、あんたを
たき火の向こう側から声が聞こえる。
女の声だ。
「起きられるんなら、起きて
あんたの荷物にあった干し肉を使わせてもらったよ。
乾燥パンもね」
体は草を詰め込んだマントにくるまれていた。
起き上がろうとして、それが難しいことに気が付いた。
体が思うように動かない。
「服ももうとっくに乾いてるよ。
まずは服を着たほうがいいね」
そう言いながら立ち上がり、歩いてきた。
老婆である。
年齢の見当もつかないほど、この女は年を重ねている。
髪は白く、顔も手もしわだらけであるが、足取りはしっかりしている。
老婆に手伝ってもらいながら、ふらつく体に何とか言うことを聞かせ、下着とシャツとズボンを身に着けた。
それから食事をした。
バルドの持ち物である丸鍋に、木の根と干し肉を水で煮て乾燥パンを落としたスープが出来ていた。
ゆっくり時間をかけて食べた。
「あんたが川に落ちたのは、体の具合が悪くなって足を滑らせたんだろ?
どんな具合だったのか、聞かせてほしいんだけどね」
覚えていることを老婆に話した。
山越えをしている途中で、だんだん体がだるくなってきた。
そのうち、足先と手先が、ひどく冷たくなっていった。
それから、胸がどきどきして、息苦しくなった。
谷川に下りて水を飲もうとしたとき、頭の中がぐつぐつ煮えるような感じがして、そのまま意識を失ってしまった。
食あたりでもないし、持病でもない。
今まで経験したことのない症状だった。
「うーん。
やっぱりねえ。
あの薬が効いたみたいだから、そうだろうとは思ったんだけどねえ。
道中で、拳ぐらいの大きさの、紫色でとげとげの実を付けた草を見なかったかい?」
それがたくさん生えている場所の横を通った、と答えた。
見たことのない植物だったので、印象に残ったのだ。
答えを聞いた老婆は、しばらく考え込んでから、
「悪いんだけどね。
朝になって元気が出たら、その場所に案内しておくれでないかい」
バルドは老婆に感謝していた。
行き倒れがいれば、金目の物や使える物を譲り受け、祈祷の一つも捧げて立ち去るものである。
都市部などでは知らず、辺境のしかも人里離れた場所で、それ以上のことなど期待しようもない。
ところがこの老婆は、死にかかっていたバルドを介抱してくれたようだ。
老いたりとはいえ体格のよいバルドを、この枯れ木のような老婆が移動し、服を脱がせるだけでも大変だったろう。
その服も、それぞれ火の近くで乾かしてくれている。
剣も
火をおこして暖を取らせ、食事の準備もしてくれた。
まきになる木ぎれを集めるのも楽ではなかったろう。
そのうえ、どうやら薬などという貴重品を与えてくれたらしい。
その老婆が望むことなら、できるだけ応えたい、と思った。
2
翌朝になっても、長い距離を歩けるほどには体調は回復していなかった。
食事を取り、老婆の作った薬を飲んだ。
何種類かの草を煎じたものだ。
体力回復の薬効があるという。
老婆に名を聞くと、近頃じゃあ魔女なんぞと呼ばれてるねえ、と返事があった。
それはあだ名にしても不吉すぎる呼び名だ。
魔女とはひどい呼び方じゃのう。
自分でそう名乗っておるわけではあるまい。
老婆は、ぽつりぽつりと身の上話を始めた。
ここからは遠く離れた山奥の小さな村に、彼女は住んでいた。
彼女が小さいときに、母親に連れられて通りかかり、母親が病人を助けたことから、村人に乞われて住み着くことになったのだという。
母親は、優れた
彼女も母親に仕込まれて薬師となり、母親の死後も、その村にとどまった。
辺境では、薬師は貴重な存在である。
事が起きれば、遠くの村からも、彼女の薬を頼って人が訪ねて来た。
何十年も人々のけがや病を癒し続け、変化には乏しいがそれなりに幸福な人生を歩み、年老いた。
転機は、はやり病だった。
その病のことは母親から教わっていたが、薬の原料は、辺境では見ることもかなわない、高価で希少な品だった。
村人は、次々に病に冒され、抵抗力のない者から死んでいった。
彼女自身は、日頃から抵抗力の上がる薬草を飲みつけていたからか、
実は、一人分だけ、彼女はその薬を持っていた。
母親が残してくれたものである。
ただし、母親は、この薬は自分自身以外には決して使ってはならないと言い残していた。
彼女は母親の言い付けに背いて、少女に薬を与えた。
少女は命を取り留めた。
それを知って、村人が皆、薬を欲しがった。
あれはもうないのだ、という言い訳は受け入れてもらえなかった。
やがて、はやり病が収まったとき、彼女に残されたものは村人の恨みだった。
命を助けた少女でさえ、彼女を憎んだ。
少女の両親には薬が与えられずに、死んでしまったからである。
誰かが、あの薬師のばばあは、なんで病気にならねえんだ、と言い出した。
そういやあ、あのばばあが病にかかったのを見たことがねえ、と誰かが答えた。
だいたい、あのばばあはいつから生きてるんだ、と別の誰かが言った。
俺のじいさんが生まれたときにゃあ、もうばばあだったそうだ、と誰かが答えた。
誰が最初に言い出したのかは分からない。
だが、誰もがその言葉を受け入れた。
悪魔の加護により寿命を延ばし、また、数々の秘事を行う。
どうりで効き目の高い薬を調合できたはずだ。
いや。
それは本当に薬だったのか?
悪魔の加護には代償が要る。
あの魔女は、今までに何人の村人を悪魔に売った?
そうか。
このはやり病は、そもそもあの魔女の仕業だったに違いない。
村人は、彼女の小屋を取り囲み、彼女を柱に縛り付けて、外から火を放った。
ここで老婆の話が終わってしまったので、思わず、
それでどうやって助かった。
と、
それに対して老婆は、
「さあねえ。
今ここにいるってことは、助かったんだろうねえ。
村人の中に、母さんやあたしへの恩を思い出したやつがいたのかもしれないねえ」
と言って笑ったきり、それ以上の説明を加えなかった。
そのまま焼かれたのに死ななかったとすれば、この老婆は文字通りの魔女に違いない。
しかし、筋金入りの現実主義者であるバルドは、自分の目で見て納得したことしか信じない。
それなりに優れた知見の持ち主もいたが、人外の力を持った者はいなかった。
彼らが
悪魔だの魔女だのが出たという訴えは数えきれないほど聞いたが、実際に調査して見いだしたのは、どの場合にも人の心の闇だけだった。
恩恵を授けてきた村人から呪いの言葉を浴びせられ、危うく焼き殺されるところだったこの老婆は、なぜか心に闇を宿しているように見えない。
この老婆の心には何が住んでいるのだろうか。
「あんたがかかった病気はね、ゲリアドラの実がはじけたときに出る粉を吸って起きるのさね。
それは本当は粉じゃない。
ゲリアドラに寄生する、小さな小さな虫の卵なんだ。
この卵は、人間の体の中でだけ
卵からかえった虫は、人間の体を、自分の居心地がいいように作り変えようとする。
卵が孵化する前に薬を飲めば、卵は死んでしまって、病気は治る。
孵化したあとは、どうやっても助からないんだよ」
老婆は、巾着を開いて小さな木の実を取り出してみせた。
「このゴリオサの実をすりつぶして飲めば、卵を殺すことができる。
あんたも私も、飲んだばっかりだから、あと三日間ぐらいは病気にならないよ。
ゴリオサは、これ以外の病気には一切効かないのさ。
ゲリアドラもゴリオサも、めったに生えないんだけどねえ。
不思議なことに、ゲリアドラが茂るときには、必ずゴリオサも茂るんだそうだよ。
この山に入って、びっくりしたさ。
あちこちにたくさんゴリオサが成ってたからね。
ゲリアドラの群生を見つけて、焼き払わないといけない。
これは、薬師の務めなのさ」
この老婆は今でも薬師なのだ、と思った。
3
やがて、取りあえず動けるほどには体調が回復してきたので、出発した。
やむを得ずスタボロスにまたがった。
荷物に加えて自分と装備の重さを背負わせるのは気の毒だったが、これ以上出発を遅らせるのはよくない気がしたのだ。
しばらく川に沿って進んで分かったが、ありがたいことに、谷川に落ちた場所は、野営場所からそう遠くなかった。
そこから紫の実が茂る場所まで、誤りなく案内することができた。
「こりゃ、また。
すごいねえ」
ゲリアドラが、山の斜面の一角に、びっしりとかたまって生えている。
小屋が五十軒は建てられそうな広さだ。
人の指ほどの太さがある緑の茎が、にょろにょろとゆがみながら伸びて、その高さは人の肩ほどまである。
伸び上がった茎の先端に、ぶつぶつとした突起のある実が成っている。
実は、小さいうちは緑色をしている。
大きくなるにしたがい、茎は頭を垂れ、実は毒々しい紫色に変じていく。
育ちきったら、実は割れ、奇病の原因となる卵をまき散らすのだという。
「これだけの群生なのに、
何とも都合のいい時期に間に合ったようだよ」
卵は、風に乗って遠くにまで飛んで行く。
近くに集落はないようだし、めったに旅人の通る場所でもないが、なるほどこのまま放置しておけば、どこかで少なからぬ被害が起きよう。
などと考えていると、老婆が恐ろしいことを言った。
「卵が人の体に入ると、宿主は死んだように眠る。
宿主の中で卵は孵化し、宿主の死体を食らって成長し、卵を産む。
虫は人の体の中のずっと奥のほうが好きなのさ。
だけど奥のほうを食い尽くしていくと、死体の表側にも卵があふれだす。
あふれ出た卵は風に乗って飛んでいき、次の宿主に取りつく。
ここまできたら、もう誰にも止められない。
一人の宿主から飛び立った卵は一つの村を全滅させ、やがては国が滅んでしまう」
今まで滅んだ国があるのか、と聞いた。
そこまでの惨禍をもたらす虫なら、もっと知れているはずではないかと思ったのである。
老婆は、ひぇひぇひぇ、と気味の悪い笑い声を上げて、
「あったかもしれないねえ」
と答えた。
4
もう夜も近い。
二人は谷川に下りて、野営することにした。
バルドは魚を捕り、老婆は山菜を採った。
バルドは、即席のかまどに水を張った鍋を掛けた。
老婆は、鍋の下にわずかばかりの枯れ木と枯葉を置き、
「火をつけとくれ」
と言った。
もう少し薪を集めてからのほうがよいのではないかと思ったが、老婆の言葉に従い、火打ち石を打って枯葉を燃やし、細い枯れ木を手際よく重ねて火種を作った。
老婆は目を半眼にし、両手を開いて火種のほうに向け、口の中で何事かをつぶやいている。
鼻歌を歌っているようだ。
と、火種の火が、次々に周りの枯れ木に燃え移った。
その様子が、バルドの目には、不自然に映った。
木がまだ燃える状態になっていないと思われるのに、燃えていくのだ。
まるで炎に意志があって、ひょこひょこと歩いているみたいだ。
瞬く間に大きな炎が燃え上がって鍋を熱し始めたが、その様子もまた不自然だ。
薪の量に対して、火が大きく強すぎる。
そして、もうとっくに燃え尽きてよいはずの枯れ木が、燃え尽きない。
「術にはね、必ずタネが必要なんだよ。
何もないところに何かを生み出すのは、神のみわざさ。
そんなことができる者は、めったにいやしない。
けれど、小さな小さなタネがあれば、それを大きくしたり、大きく見せたりすることはできる。
炎が燃えようとする力と炎を燃やそうとする働きを知って、お願いするんだよ。
葉っぱと、枯れ木と、炎と、風と、それらに含まれるもろもろに、お願いするのさ。
そして、鍋や水や、そこに含まれるもろもろにもね」
ゆらゆらと、二つの手のひらを炎にかざしながら、老婆がつぶやいた。
ほどなく、水が沸いてきた。
早すぎる、とバルドは思った。
老婆は、バルドの干し肉を取り出して、鍋の中に切り落としていった。
次に、山芋と山菜と少しの岩塩と薬味を入れた。
わずかな枯れ木は、燃え尽きる気配もない。
「だからね。
道理を見極め、心をしっかりと持つんだ。
そうすれば、どうってことはないんだよ」
老婆の話を聞きながら、バルドは枝に刺した魚を焼いた。
老婆が披露した不思議な技について問いたい気持ちもあったが、なぜか今はただ聞いて心にとどめるべきだと感じた。
バルドは、長い人生で培った常識を根こそぎひっくり返すものを、今見たのかもしれない。
だが、そこに少しの
正しい知識と手順によって、あるべきものがあるべき姿で現れたのであり、ただ自分がそれを知らないだけなのだ、と思えたのである。
ゆっくりと食事をしたあと、老婆の講釈を聞きながら、処方された薬湯を飲んだ。
スタボロスは、近くで草を食べている。
馬というものは、質のよい飼い葉や野菜が食べられるときは別にして、起きている時間の半分ぐらいは辺りの草を食べているものである。
今日は大きな山芋を二本食べさせることができたし、朝の間ゆっくりと食事時間があったので、スタボロスの機嫌はよい。
体力を養うため、二人と一匹は早めに寝た。
5
老婆の前に、高々と
油をたっぷり含んだコイネンシリーの木が近くにたくさん生えていたから、その枯れ木をできるだけ拾った。
手前には、種火をつけるために、コイネンシリーの細長い枯葉と、ポルポムの薄くて平べったい枯葉が一抱え積まれている。
ゲリアドラの茎は、簡単に切り落とせる。
今生えている茎をすべて切り落とすのは、多少時間がかかるものの、無理な話ではない。
しかし、それでは地下茎が残ってしまうという。
この群生は、地面の下に生えている根ですべてつながっており、いわばこの全体が一つのゲリアドラなのだというのだ。
ゲリアドラは、本来生命力の弱い植物であり、芽を出してもすぐに枯れてしまう。
しかし、ある程度以上の大きさに育つと飛躍的に強靱になり、ほかの植物を駆逐して成長し、地上茎を伸ばし始める。
この呪われた植物を滅ぼすには、大きな火で地下茎を焼くしかないのだという。
ゲリアドラはそういう植物じゃとして、中の虫はどこから来るのかのう。
という問いに、老婆は、それは分からない、と答えた。
ゲリアドラの実には、必ず虫の卵が入っているのだという。
もしかしたら、あの虫は虫ではなく、虫のように振る舞う植物なのかもしれず、逆にゲリアドラは植物にみえる動物なのかもしれない。
いつかお偉い学者さんに会うことがあったら、ぜひ聞いておいてほしいもんだ、と老婆は言った。
「やっとくれ」
老婆の合図を受けて、バルドは火打ち石を打ち合わせた。
火花が散って、ポルポムの葉が小さく燃えた。
火はまたたく間にポルポムの葉五、六枚に燃え広がる。
続いて、コイネンシリーの茶色い枯葉が、ばちばちと音を立てて燃え始める。
バルドは、邪魔にならないように、静かに後ろに下がった。
老婆は、目を閉じ、手を合わせて、何事かを唱え始める。
聞こえないほど小さな声でささやかれていた唱え言葉は、次第に大きくなっていく。
聞いたことのない言葉だ。
どんな意味なのか、バルドには見当もつかない。
唱える老婆の後ろ姿は、もはや腰をかがめてもおらず、弱々しくもない。
老婆が大きく両手を開いた。
ぶあっと炎が薪全体に燃え広がる。
押し寄せる熱風に、バルドは、自分の肌も一瞬焼かれたように感じた。
バルドは、斜面を下り始めた。
ちゃんと火がついたら、谷川のさらに向こうの湿地まで避難しているように、老婆からいわれていたのだ。
馬は、老婆の荷物とともに、すでに移動させてある。
そんな遠くまで逃げなければならないとしたら、老婆自身も危険ではないかと聞いた。
老婆は、
「あたしが火に焼かれても大丈夫だっていうのは、もう話しただろ」
と答えた。
あれはそんな話だったかのうと
離れる前に、もう一度火の様子を確認しようと振り返ったバルドの目に、老婆に襲い掛かろうとする巨大な
バルドは、剣を抜いて駆け出した。
巨大な蛙を平べったく押しつぶしたような姿をしているため、そう呼ばれる。
緑と黄と黄緑と茶色のまだら模様をしており、木や草に紛れて不思議なほど見つけにくい。
巨大な
表皮はつるつる滑って異様に硬く、さらにその下には
今、老婆を襲おうとしている
間に合えっ。
と思いながら走り寄るバルドの目の前で、
バルドも
バルドは跳ね返されて、どさりと草の上に落ちたが、がむしゃらな特攻のかいがあって、
さすがに熱かったのであろう、嫌がるそぶりを見せて火の粉を払い、
バルドを敵と認定したようだ。
ならば、
立ち上がろうとして、バルドは、胸と腰に強い痛みを感じた。
まずい。
この状態では、早くは走れない。
ざざざざざっ。
音を立てて
十歩か二十歩を素早く走ると、停止して一呼吸し、また十歩か二十歩を走る、という移動の仕方をする。
なぜかまっすぐには進まない。
斜め前、斜め前へと、じぐざぐに前進する。
そして最後に獲物に飛び掛かるのである。
バルドは、ぎりぎりまで
遠くに逃げられないなら、木が密集して生えた地点で相手の攻撃を封じようと考えたのである。
それでも、じぐざぐに走りながら、三度攻撃をかわして、なんとか木立に飛び込んだ。
そのすぐ後ろから、
太ももほどの木の後ろに逃げたが、
折れ飛んだ木が左肩に当たって、バルドははね飛ばされたが、そのおかげで蛙の巨大な
何本かの木が固まって生えている場所に逃げた。
いくらなんでも、この太さの木をへし折ることはできない。
また、木と木のあいだには、この大きな蛙が通れるだけの隙間はない。
これで一息つける、と思ったのは大きな間違いだった。
蛙が跳びかかってくる。
驚いたことに、化け物蛙は、空中で身をよじり、ほとんど真横になった態勢で木々の隙間を抜け、バルドに襲い掛かった。
そのとき、バルドの左手に触れたものがあった。
薪を集めたときにこぼれ落ちた木切れである。
びっしりと生えたぎざぎざの歯と、毒々しくぬめる口腔が、バルドの目にさらされた。
木切れをその口中深く突き込んだ。
蛙は口を閉じて左腕を食いちぎろうとした。
だが、口の開閉方向に対してちょうど垂直に突き込まれた木切れがつっかい棒になり、蛙は顎を閉じきれなかった。
バルドと蛙は、もつれあって転んだ。
蛙の歯が左腕に食い込んだが、突き込んだ左手を引こうとはしない。
蛙のどんよりした目に、怒りの炎がともり、口が極限まで大きく開かれた。
委細構わずバルドをかみ殺すつもりであろう。
バルドは逃げなかった。
逆である。
体ごと、蛙の口の中に飛び込んだ。
右手の剣を深く深く口の奥に突き出す。
同時に、左手にもった木切れを、より口中深くに差し入れた。
蛙の口が閉じられた。
しかし、根元の部分で木切れがつっかい棒になったため、バルドを食い殺すことはできない。
今やバルドの上半身は、完全に蛙の口の中に飛び込んでいる。
右手の剣を、角度を変え何度も蛙の体内深くに突き入れた。
狙うは心臓である。
と、蛙が激しく身をよじって、バルドをはね飛ばした。
バルドは、起き上がることができず、顔だけ起こして蛙を見た。
蛙は仰向けにひっくり返って、びくんびくんとけいれんしている。
その動きは次第に小さく緩慢になり、ほどなく死んだ。
わしも、まだまだやれるわい。
と、バルドは自分の悪運に感心した。
もはや逃げるどころか、身を起こすこともできない。
顔もひげも手も、蛙の血と体液でべとべとだ。
首をひねって、老婆のほうを見た。
そこには、目を疑う光景があった。
燃えさかる炎は、次々と山の木々に燃え移り、奇怪な植物の群生地を取り巻いている。
炎は一斉に群生地に襲い掛かった。
燃える。
燃える。
悪魔の実を燃やして炎が燃える。
皮膚が焼けるような暑さを感じた。
が、バルドの注意は、痛みにも、暑さにも、意志を持つかのように目標に襲い掛かる
積み上げた薪の前に、一人の女が立っている。
炎を操る歌を歌いながら。
両手を開き、高く掲げて。
一人の若く美しい女が立っている。
真っ白だったはずの毛髪は、腰まで届く黒髪となり、炎が生み出す風にあおられて豊かに波打っている。
ぼろぼろの旅装だったはずの衣服は、半透明の
バルドから見えるのは後ろ姿だけであり、顔は見えない。
しかし、その顔が若々しく、この世のものとは思えないほど美しいものであることを、バルドは疑わなかった。
炎と、それを操る女の姿は、不思議と神々しさをたたえて、バルドの心に安らぎを与えた。
熱風にあおられながら、バルドはおのれの信奉する神の名をつぶやき、意識を手放した。
6
バルドは、いつの間にか湿地に運ばれ、手当を受けていた。
火は三日三晩燃え続けて、ゲリアドラの根を焼き尽くした。
それから一か月のあいだ、バルドは老婆と行動を共にした。
老婆は、さまざまな薬草と処方について、バルドに教えた。
食べられる植物の根や調理法についても、知識を伝授した。
病気が移りにくくなり毒にも強くなるという苦いどろどろした薬湯を毎日飲まされたのには、すこし閉口した。
腰や肩の痛みが治る薬はないかとバルドが聞けば、老いは病ではないよ、という答えにならない答えが返ってきた。
一か月目に、人里が見える地点に出た。
大河オーヴァも遠くない。
パクラから大河オーヴァまで、徒歩でも急げば十日で着く。
荷物があったとはいえ、それを二か月以上かけて歩いたのだから、ずいぶんゆっくりした旅といえる。
いい旅だった。
珍しい体験ができ、新しい知識をいろいろと学べた。
リンツに着いたらパクラに手紙を書こうと思った。
礼を言おうと振り返ったが、老婆はいつの間にか姿を消していた。
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