第88話 謎の女性

(何なの、あの子……!グイファスにべたべたと纏わりついて!)


 メレンケリはとても嫌な気持ちになった。彼が他の女性と仲睦まじくしている姿を見ただけで、こんな嫌な気持ちになってしまうとは。


「……」


 メレンケリはぐっと右手を握りしめた。革の手袋がぎりぎりと軋む。その音を聞きながら、今すぐにでも、彼女を石にしてしまいたい思いに駆られた。だが、その瞬間父の昔話が頭に過り、メレンケリはかぶりを振った。


(いけない。……私ったら何てこと、思っているのかしら)


 メレンケリは自分の右手は、人を悲しませ、己をも不幸にする厄災の手であることを重々承知しているはずだった。それにも関わらず、ほんの一瞬でも、その力を『石膏者』としてではなく、自分のためだけに使おうとしてしまったことに驚き、戸惑った。こんなことは、シェヘラザードが初めてだった。


「……」


 そしてメレンケリが突然現れたシェヘラザードのことを考えながら、クリスタルを見ていたときである。頭に布を目深に被った女性が、メレンケリの傍に立った。彼女は外のグイファスとシェヘラザードを見て、はっきりとこう言った。


「嫌な子ね、あの子」

「え?」


 メレンケリは耳を疑った。まさか自分と同じことを口にする人がいるとは思わなかったのである。


「だって、そうでしょう。あんな街中で堂々と騎士である彼に詰め寄るなんて。彼も可哀そうな人だわ。周りが見ているから、邪険にできないものね」


 メレンケリは女性の言葉に俯いた。彼は、話しかけられた女性を蔑ろにするような人ではない。優しい人だからきっとそんなことはしない。そう思った。


「……それはどうでしょうか。彼は優しいから、人のいないところでも邪険になんて扱わないと思います」

 女性はメレンケリを振り返った。しかし顔は見えない。

「あなた、彼とお友達なの?」

「……いえ、仕事仲間ですけど」

 メレンケリの何か迷いのある答えに、女性は追随した。

「本当にそれだけ?」

「あの、それは……どういうことです?」

 女性は艶めいた声で笑い、メレンケリの胸のあたりを白くて細い指で指す。

「あなたの胸の内は、本当にそれだけなのかしらってこと。本当は、彼のこと好きなんじゃなくって?」

 虚を突かれたように、メレンケリは少しだけ狼狽える。

「……そんなことありません」

 女性は赤い口紅を塗った口元に微笑を浮かべた。

「そう?でも、自分の気持ちには素直になった方がいいわよ。後悔しても遅いんだから」


 後悔。

 本当にそうなのだろうか。


 自分の気持ちを言わなかったら、後悔してしまうのだろうか。メレンケリにとって、言ってしまって「君の気持には堪えられない」と言われるほうがずっと後悔するような気がしていた。


「……」

 答えられないメレンケリに、女性は手を差し伸べるように優しく言葉を掛ける。

「どうしたらいいか分からないって顔ね。ふふ、じゃあ今夜私があなたに会いに行ってあげる」

 メレンケリは眉を寄せた。この女性は何を言っているのか。

「……どういうことです?」

 女性は唇に人差し指を当て、「しぃ」と言った。

「今夜のお楽しみ。あなたがいる部屋の窓を開けておいて頂戴。そしたら私はそこに舞い降りるから」

 益々意味が分からない。

「どういう意味ですか……?」

「今夜、分かるわ」

 メレンケリは聞いたが、女性はその問いに答えることなく身を翻した。

「待っ……」


 メレンケリは止めようとしたができなかった。女性がメレンケリの前から立ち去るのと同時に、グイファスが彼女の元に戻ってきた。


「ごめん、メレンケリ。待たせてしまったね。仕事に戻ろう」

「え、あ……もう、話はいいの?」

「ああ、いいんだ」


 するとグイファスはメレンケリの手を掴むと、足早に店を出る。先ほどあった馬車はもういなくなっていた。ほっとするメレンケリを、グイファスが馬に乗せる。


「あの、さっきの人って……?」

 メレンケリが躊躇いながら尋ねると、グイファスはため息をついた。

「貴族の娘だ」

「仲、良いの?」


 グイファスはメレンケリが馬にちゃんと乗れたのを確認すると、自分は馬には乗らずそのまま馬の手綱を引っ張って歩き出す。そして彼にしては珍しく、投げやりに答えた。


「そういう風に見えた?」

(分からないから聞いているんじゃない……)

 だが、メレンケリの心の声は届かない。そして、メレンケリ自身もそんなことを聞くことは、彼に気があることに気づかれてしまうかもしれないという思いがあり、聞けなかった。


「……少しだけ」


 メレンケリはそう呟いたが、グイファスは何も言わなかった。その日はこうして巡回を終えたのである。

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