第18話 二人の距離と残された時間

 なぜか妙に押しの強い小梅先輩に促されるまま、俺は白雪家で風呂に入らせてもらった。

 シャワーを浴びるだけじゃなく、湯船にも浸からせてもらったのだから、もう本当俺は一体なにしてるんだと何度自問自答したことか。

 風呂から出ると、小梅先輩が着替えとバスタオルを用意してくれていた。すぐそこでは洗濯機が動いている。制服は洗濯してくれているみたいだが、下着はさすがにそうもいかない。ある程度はマシにはなっているが、それでも湿っていて気持ち悪い。

 用意されていたジャージは、思っていたよりもちょうどいいサイズだった。小梅先輩の父親のものとか言ってた気がするが、チビな俺でも着てしまえるものなのか。

 着替えを終えて脱衣所を出る。他人の家だからか、どこか落ち着かない気分になりながらもリビングに戻ると、制服のままの小梅先輩がカウンターキッチンに立っていた。


「あ、お風呂上がった? とりあえず座ってなよ」

「うっす……」


 言われるがまま、ソファに失礼する。ソファの前には大きなテレビと、その横にいくつものトロフィーや表彰状が。陸上、ピアノ、絵画、色んな種類のものがあるが、そのどれにも白雪小梅の名前が載っている。最早感嘆するほかない。


「お待たせ。はいこれ、ココア。飲んだらあったまると思うよ」

「ありがとうございます」


 キッチンで用意していたらしいマグカップを受け取り、一口啜る。程よい甘さが口の中に広がって、体全体が暖まる。

 俺の隣に腰かけた小梅先輩も、髪を耳に掛けながらココアを口に含み、ふぅ、と一つ息をついてカップをテーブルに置いた。

 それにしても。


「なんか、近くないですか?」

「え、そうかな……?」


 小梅先輩との距離は拳一つ分ほどしかない。つまり、めちゃめちゃ近い。いつもはあの空き教室で、しかもそれぞれの椅子と机に座っているから。こんなに近く、隣り合って座ったのなんて、初めてだ。

 もちろん、これよりもさらに接近されたことは何度もあるし、なんなら思いっきり抱きつかれたことだってあるのに。今のこの距離感は、その時とは違った照れ臭さを感じてしまう。


「だったら、ちょっと離れた方が、いいかな……?」

「え、いや、別に好きにしたら──」


 らしくなく、どこかしおらしい態度の先輩を不思議に思い、隣を向けば。

 ──時が、静止した。

 すぐ目の前に、小梅先輩の顔がある。

 濡れた瞳は済んだ空を思わせる蒼で、そこに吸い込まれてしまいそうに錯覚する。ココアを飲んだからか、桜色の唇は少し湿っていて。綺麗な白い頬は、どうしてか赤く染まっていた。

 耳にかけていた髪が、ハラリと落ちる。秒針の刻む律動が、どこか遠くに聞こえる。小さな唇から漏れた吐息は、たしかな熱を持って俺の唇に触れて。

 身動きが取れなくなるという意味では、たしかに俺の時間は止まってしまっていた。

 だって、こんな綺麗な人が目の前にいて。今まで見てきた中で、群を抜いて綺麗な表情をしているのだから。


「ご、ごめんっ!」


 再び時が動き出したのは、小梅先輩が跳ねるようにして跳びのき、俺から距離を取ったから。

 遅れて、顔が赤くなってくる。今更ながらさっきの状況を冷静に思い返せば、頬は際限なく加熱してしまって。


「さ、さすがに近すぎたよね、うん」

「まあ、そうですね……」


 あはは、と笑ってみせる小梅先輩の表情は、どこか無理のあるものに見えた。

 いや、それ以前に。

 そんな、耳まで真っ赤にしている先輩なんて、俺は知らない。

 あの騒動以降、そういう表情が増えてきたとは思っていたが。そこまでのものは、見たことがない。

 だってその表情は、まるで──。


「つっても、それはいくらなんでも離れすぎじゃないですか?」


 思考を無理矢理ぶった切って、ソファの端まで移動してしまった小梅先輩に声をかける。

 二人しかいないリビングなのに、そこまで距離を離されてしまっては、逆に困る。それは先輩も思ったのか、元の色を取り戻したその顔で、再びこちらに近寄ってきた。


「まあ、それもそうね……これで葵君が、美少女と二人なのをいいことに襲ってくるようなやつなら、この距離が妥当なのだけれど」

「んなことするわけないでしょ」


 俺はそんなに命知らずじゃない。てかまず、確実に返り討ちにされた挙句、後に桜さんと夏目さんから、然るべき制裁を加えられるに決まっている。

 撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけってゼロも言ってた。残念ながら俺にその覚悟はないので。


「なんだ、つまんないの。葵君はヘタレだねー」

「常識的な話してるんですよ」

「やっぱぼっちだから、女子の扱いなんて知らないか」

「なんで今馬鹿にした?」


 ようやく、いつもの俺たちが戻ってきた。小梅先輩は楽しそうな笑顔を浮かべていて、俺はちょっと呆れたような顔でその相手をして。

 それにしても、やっぱり距離は少し近い気もするが。いつもに比べれば、の話だ。


「そんな葵君も、今年のバレンタインは期待できるんじゃない?」

「……どうですかね」


 こちらを覗き込んできたイタズラな笑みから、視線を逸らす。なんとなく考えないようにしてたのに、どうしてそれを突きつけてくるのか。


「でも、今年はもう二つ確定してるみたいなもんでしょ? やったじゃん。これで朝登校して下駄箱開ける時にドキドキしたり、わざわざ机の中確認したりしなくても済むよ!」

「今までもそんなことしてねぇよ」


 ほんとだよ。そんなことしてないよ。そもそも、俺はぼっちであるからして。そんな期待を寄せるくらいに仲のいい女子すらいなかったし。毎年母親が買ってくるゴディバで満足だったし。

 最初から期待していなければ、失望することだってない。あとのダメージは最小限に抑えられる。まあ、だからと言ってチョコ欲しくないってわけじゃないだけどね。


「あたしと駒鳥ちゃんから貰えるなんて、葵君は幸せ者だね!」

「皮肉ですか、それ」

「うん」


 認めちゃうのかよ。


「上から水かけられるとか漫画みたいな不幸に遭ってる君を、本心から幸せ者だなんて言うわけないじゃん」

「改めて言われるとムカつきますね」

「バレンタインの日にも何か起きるかもね」

「今から不安になるようなこと言わないでくれます?」


 マジで怖いから。他人の痴情のもつれになんの関係もない俺が巻き込まれるとか、そう言う未来が見えちゃうから。

 俺が来るべき未来に恐れ戦いていると、ココアを一口飲んだ先輩が、でも、と口を開いた。


「バレンタインもいいけど、あたしのお願いも、そろそろ時間がなくなってくるよ?」


 カップを置いた音が、やけに大きく聞こえた気がした。小梅先輩の笑顔には、僅かながら哀愁のようなものを感じられる。

 この人から、卒業を示唆するようなことを言われたのは初めてだ。まるでなんとも思っていないように見えて、そんなことはない。そういう人であることを、俺は短い付き合いの中でも知っていたはずなのに。

 小梅先輩は、今までそんな姿を微塵も見せなかったから。てっきり勘違いしていた。先輩だって、卒業して俺や小鞠と離れることを、惜しんでくれている。

 同時に、嫌という程思い知らされる。

 別れの日は、本当にすぐそこなんだと。


「……因みに、進捗はどんな感じなんですか? 一方的にあれだけを聞かされて、その後なんの説明もなしじゃないですか」


 思考を変えるように尋ねてみれば、小梅先輩はあざとくウインクなんてしてみせて、自分の唇に人差し指を当てながらも言った。


「ふふっ、それは秘密よ。だって、ラブコメだとヒロインの気持ちは最後まで隠しておくものでしょ?」


 まともな答えが返ってくるとは思ってなかったが。これはこれで、ある意味予想外だ。

 普通、自分のことをヒロインとか呼ぶかね。たしかにこの人ならパーフェクトヒロイン名を欲しいままにするだろうが。そうなれば俺は弱キャラ椿くんってか。攻略出来る気が微塵もしねぇよ。


「ま、卒業まで時間はあるわ。精々頑張りなさいな」

「他人事みたいに言わないでくださいよ……」


 立ち上がった小梅先輩に、ポンポンと頭を撫でられた。払いのける気もせず、若干の恥ずかしさを伴いながらもなされるがままにしていると、ピンポーンと家のチャイムが鳴る。

 来客だろうか。だとしたら、俺はそろそろお暇した方がいいのでは。いやでも服ないし。


「さて、そろそろ洗濯も終わってるかしら」

「いや、チャイム鳴ってましたけど」

「ああ、多分お兄さんだから、無視しててもいいよ。合鍵渡してあるし、わざわざチャイム鳴らさなくてもいいっていつも言ってるんだけどね」


 苦笑しながら、先輩はちょっと待ってて、と言ってリビングを出て行った。玄関に向かうわけじゃないだろうし、おそらく脱衣所に向かったのか。洗濯が終わった制服を、乾燥機にかけてくれるのだろう。

 しばらくしてから、聞いたことがない甘えるような声色で「お兄さんこんにちはー!」と小梅先輩の声が聞こえてきた。

 あの人、あんな声も出せるのか……。いや、むしろ夏目さんに対してはそれがデフォルトなのだろう。おそらくは、姉である桜さんに対しても。俺よりも歳上だから忘れそうになるが、あの人はれっきとした妹属性持ちなのだから。


「や、こんにちは。いや、こんばんはの時間かな?」

「お久しぶりです」


 リビングに現れた夏目さんは、以前のジャージ姿とは違い、黒のスラックスに紺のセーター、白いロングコートをオシャレに着こなしていた。なんか、めっちゃ大学生って感じする。いや、夏目さんは大学生だから当たり前なんだけど。


「二階から水をかけられたんだって? そいつは災難だったね」

「まあ、これくらいなら慣れてるんで……」

「その上小梅ちゃんにこんなところまで連れて来られるときた。さすがにこっちは、慣れてないんじゃないか?」

「そうっすね」


 コートを脱いだ夏目さんは、おそらく食事用に使ってるのであろうテーブルの方に腰を落ち着かせた。

 途切れる会話。降りる沈黙。

 ……気まずい。この人と会うのはこれで二度目だ。前回も、向こうから一方的に話を聞かせてもらったとは言え、親交が深いというわけでもない。

 小梅先輩早く戻って来てくれよ、なんて思っていれば、夏目さんが沈黙を破った。


「それにしても、僕と桜の時とは逆だな」

「はい?」

「そのジャージだよ」


 ジャージがどうかしたのだろうか。その言葉の意味が分からず首を傾げていれば、笑みを漏らした夏目さんが先の言葉を紡ぐ。


「聞いてないのか? そのジャージ、お義父さんのって聞かされてると思うけどそうじゃなくて──」

「わー!!! お兄さんストップ! ストーップ!!!!」


 が、最後まで言い切る前に、飛び出してきた小梅先輩がその口を塞いだ。

 おかげでこのジャージがどうしたのか分からずじまいだが、小梅先輩はなぜか真っ赤な顔して夏目さんを抑え込んでいる。


「余計なこと言わなくていいですから! 本当にもう! そういうとこですよ!」

「ごめんごめん」


 全く悪びれもせずに謝る夏目さんを、小梅先輩は赤い顔で睨んでいる。

 全くもう、と呆れたように呟いた先輩は、再びリビングを出ていった。話が聞こえてきて、脱衣所から走ってきたのか。相変わらず運動神経がおかしい。


「結局、このジャージがどうしたんです?」

「教えるのはやめておくよ。僕の親友直伝の蹴りが飛んできそうだからね。ただまあ、『雪化粧』を読み進めてたらそのうち分かるんじゃないかな」


 なぜそこで、文芸部の部誌が出てくるのか。頭の中に疑問が増えてしまったが、追求するのはやめておいた方がいいだろう。

 俺まで小梅先輩に蹴られそうだ。


「でもまあ、これは桜に言わない方がいいか。今度こそどうなるか、分かったもんじゃないし」


 とりあえず。このジャージにやばい秘密でも隠されてるのは、たしからしい。

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