第17話 体操服とお宅訪問

 季節は春に向けて動いているにも関わらず、寒さは一向に収まるところを知らず。どころか余計に冷えて来ているのではないのかと錯覚する今日この頃。

 月が変わって、二月になった。

 バレンタインやら卒業式やらとイベントのある二月ではあるが、そのどちらも俺とは縁のないもの。先月の始めの頃までは、たしかにそのはずだったのだが。

 バレンタインは、まあひとまず置いておこう。それよりも、卒業式だ。今月の末には三年生が卒業してしまい、あの人もまた、この学校を去ってしまう。

 出会って一ヶ月も経たないうちに、別れの日は着々と迫っているのだ。

 しかし実際のところ、あの人を煩わせている問題というのは、卒業と同時に解消されるものでもある。姉の存在故に、周囲の期待に応え続けないといけないのならば、その周囲の人間たちが消えればいい。俺たちはそれまで、あの人の隣にいるだけ。

 託された願いを叶えるかどうかは、それもまたひとまず置いておくとして。

 さて。そんな二月が今日から始まってしまったわけだが、だからといって俺になにか変化があるわけでもなく。


「ツイてねぇなぁ……」


 むしろいつも通りすぎて安心する始末。

 今日の不幸はこちら。二階の教室で掃除してたやつからバケツの水をぶっかけられる! 漫画みたいだと思ったそこのあなた、しかし実際現実に起きてしまうのです!

 マジツイてねぇわ。小鞠に用事があったから、文芸部の部室のある第三校舎に立ち寄ればこの始末。まあ、用事と言っても先生から頼まれたプリントを渡しに行っただけだし、そのプリントも既に渡して、今から空き教室に向かおうとしていたところだったから良かったものの。

 いや、何も良くないわこれ。めっちゃ寒いし、全身びしょ濡れの俺を周りの奴らはめっちゃ見てるし。絶対風邪引くやつじゃん。

 だが不幸中の幸いと言うべきか、今日は体育の授業があったのだ。つまり、着替えはある。制服に比べると相当寒々しい格好になってしまうのは、この際致し方ない。濡れた服を着ているままよりもマシだ。

 空き教室に向かう足を再び進めながら、カバンの中を覗く。これで体操服だけ教室に忘れましたとかだったらシャレにならないから。

 開いたカバンの中。そこにはたしかに体操服が入っていた。入っていたのだが。


「本当、ツイてねぇ……」


 まあ、当然のように、カバンの中身は全て濡れていたわけで。これでは着替えたところで何の意味もない。肩を落としながらも、とりあえずは空き教室に向かう。俺の通った廊下が濡れてしまっているが、そんもん知ったこっちゃない。俺は悪くないのだ。水を落として来たクソどもが悪い。

 最短ルートで空き教室に辿り着いた頃には、体の震えがとんでもないことになっていた。この空き教室前の廊下は日も当たらず、隙間風も入ってくるから、下手すれば外よりも寒く感じてしまうのだ。

 さっさと教室の中に入ろうと扉に手を掛ける。が、その扉が開くことはなかった。鍵がかかっていたのだ。


「嘘だろ……」


 そう言えば、小梅先輩はあの騒動以降、高宮小夜を見張る目的で暫く授業に出ると言っていたか。いつも俺より先に来ていたから忘れていた。

 となれば、まだここで先輩が来るのを待たねばならない。なんか、今日は一段とツイてないな。

 はぁ、とため息を漏らした矢先、タッタッと軽快な足音が聞こえて来た。わざわざ音の発生源を見なくても、それが誰のものか分かってしまう。そもそも、ここに用がある人間なんて限られているのだから。

 ようやく来たかと安堵していれば、足音の奏でるリズムが激しいものへと変化した。さすがに気になって振り返ってみれば、ギョッと目を丸めて驚いている小梅先輩が、こちらにダッシュで詰め寄ってきた。


「ちょっと葵君⁉︎ びしょ濡れじゃない!」

「予想通りの反応をどうも。いつものやつですよ」

「体も震えてるし……とりあえずタオル貸したげるから拭きなさい!」


 カバンの中から取り出したタオルを素直に拝借し、頭と制服を適当に拭く。なんかタオルがいい匂いした気もするけど、まあ気のせいだ。うん、気のせい。


「ほら、中入って。暖房は切ってないから」


 小梅先輩に促され、鍵を開けた教室へと入る。先輩の言う通り暖房は切っていなかったようで、暖かな空気が俺を出迎えてくれた。芯まで冷え切った体が急速に回復していく。


「着替えは持ってる?」

「残念ながら、体操服も濡れちゃってました。ついでに言うと教科書とかプリントもびしょ濡れです」

「そっか、じゃあ……」


 再びカバンの中を弄り始めた小梅先輩。疑問符を浮かべながらもタオルで顔を拭いていると、先輩が取り出したのは、おそらくこの人のものであろう体操服。

 それを、こちらに差し出して来る。


「これに着替えなさい」

「えっ」

「さっきの六時間目に使ったばっかで、しかもマラソンだったからちょっと汗臭いかもだけど」

「ちょっ」

「ほら早く。あたしは外出てるから、着替え終わったら教えてなさい」


 有無を言わさずに体操服を押し付けた先輩は、教室から出て行ってしまった。取り残されたのは、先輩のタオルと先輩の体操服を手に持った俺。


「いや……」


 女子の体操服着るって、それなんてプレイ?

 しかし背に腹は変えられなのも事実。このままでは、確実に風邪を引いてしまう。幸いにして、高校生の体操服と言うのは男女でデザインの差はない。小梅先輩は俺よりも身長は高いし、サイズも問題ないだろう。

 だが問題はそこじゃなくて。

 マジか。マジで着るしかないのか。いや、でも……どうしたらいいんだよこれ……。


「仕方ない、よな……」


 誰に言うでもなく一人呟く。そう、これは仕方ないのだ。せっかくの小梅先輩の好意を、無碍にするわけにもいかない。

 必死に自分へ言い訳を聞かせながら、俺は美少女の汗が染み付いた体操服に袖を通した。

 一つ言えるのは、美少女だからって汗はやっぱりそれなりに臭うと言うことだ。




「さて、着替えてもらったのはいいのだけれど、そのままだとさすがに風邪を引いてしまうわよね」

「まあ、そうっすね」


 小梅先輩の体操服に着替えた俺だが、やはり体は冷えたままだ。いくらこの教室が暖かいとは言っても、あの寒空の下で思いっきり水を被ったのだから当たり前である。

 シャワーでも浴びたい気分ではあるものの、うちの学校のシャワー室は基本的に運動部以外使用禁止だ。


「それに、いつまでもその格好というわけにもいかないし」

「体操服って結構薄いですからね」

「……そう言うことじゃないんだけど」

「はい?」

「なんでもない」


 学校指定の体操服と、その上から長袖長ズボンのジャージを着ているとは言え、そんなもので寒さが凌げるわけもない。こんな格好で家まで自転車を走らせるなんて、狂気の沙汰としか思えないだろう。

 なにより、これは小梅先輩のだし。これで家に帰るってのはちょっとハードル高すぎる。

 心なしか頬が赤い小梅先輩は、こほんと咳払いを一つ。

 さしもの完璧超人でも、同年代の男子が自分の服を着ているこの状況は、少し照れくさいのだろうか。可愛いじゃん。


「とりあえず、あたしの家に行きましょうか」

「は?」


 頬の赤みが取れないままの小梅先輩が言い放ったのは、にわかには信じられない一言。

 この人いきなり何言ってんだ?


「ここから歩いて五分もかからないし、お父さんの服を貸してもらえばとりあえずは葵君も家まで帰れるだろうし。うん。そうと決まれば急ぎましょうか」

「いやいやいや」


 俺の意見など一つも聞かず、話は勝手に進んでいく。小梅先輩の家? 今から? 俺が? しかもそこでシャワー浴びろと?

 待って、なにそのイベント。ちょっと理解が追いつかないんだが。


「コートは貸してあげる。葵君、自転車だったよね。悪いけどそれ、学校に置いといてくれる? 帰りに取りに戻って来たらいいから。なんならお兄さん呼んで、送ってもらうこともできるし」

「あの、勝手に話進めないでもらえます?」

「じゃあこれ以外に、なにかいい案でもあるのかしら」

「いや、ないですけど……でも家の人に迷惑かけちゃうじゃないですか」

「どうせお母さんは修羅場で部屋から出てこないし、お父さんも今日は遅いから問題ないわよ。ほら、さっさと準備する」


 修羅場というのは少し理解できなかったが、つまり小梅先輩の家には今、誰もいないと。

 なんか、余計に行くわけにはいかなくなった気がするけど、こうなった小梅先輩が頑固なことは、短い付き合いの中でも知っている。

 結局先輩に言われるがまま、コートを借りて少しでも寒さを凌ぎ、学校を出ることになった。なぜか俺の上げたマフラーは貸してくれなかったが。

 こうして小梅先輩と下校するのは初めてだ。いつもはここの鍵を返すのに、昇降口の前で解散している。それも最終下校時刻の話なので、こんなに生徒が残っている中、二人で校舎内を歩くのも初めて。

 案の定と言うべきか、やはりそこらの生徒からは視線を頂戴してしまう。

 あの白雪小梅が、なぜか体操服の上からコートを羽織ったなぞの男子生徒と歩いているのだから。

 この前のデートの時とはわけが違う。なにせ、あの時は街中で、俺たちのことなんて知らない奴らからだったが。この校内では、少なくとも小梅先輩の存在を知らない奴なんて一人もいないだろう。


「相変わらず、鬱陶しい視線ね」

「そう思うなら俺と歩かない方がいいんじゃないですか」

「それは嫌」


 小梅先輩が少し鋭い視線で周囲を一瞥すれば、こちらを見ていた奴らはサッと目を逸らす。

 そういえば、今日の小梅先輩はどうしてか、ずっと年上モードの口調だ。いつもの柔和で親しみやすい口調は見せていない。やはりこちらの方が素なのか、もしくは俺がそれだけ、心配を掛けさせてしまっているということなのか。

 などと考えてるうちに、昇降口で靴を履き替え、学校の門を出た。体操服で下校してもいいのかと一瞬思ったが、まあ考えるだけ無駄か。

 その後歩くこと五分ほど。学校の目の前の住宅街、そこに立ち並ぶ一軒家の一つに、白雪の表札がかかった家があった。


「はい、到着」


 本当に五分で着いちゃった。いや、もしかしたら五分も経っていないかもしれない。

 いやはやしかし。白雪小梅の住んでいる家と言うのだから、どんなものが出てくるのかと思っていたのだが。


「なんて言うか、思ったより普通の家なんですね?」

「ふふっ。それ、お兄さんも同じこと言ってたらしいよ。二人揃って、あたし達のことなんだと思ってるのよ」


 そりゃだって、あの白雪小梅なのだから。てっきり、それなりに裕福な家だと思っていたが、極々普通の一軒家。うちとそう大差ないような。

 俺の前を行く小梅先輩が、家の鍵を開けて玄関の扉を開く。


「さっ、遠慮せず上がってちょうだい」

「はい……」


 今更ながら、とんでもない緊張感が湧き上がって来た。女子の家に上がることなんて、俺のこれまでの人生であるはずもなく。その初めてがまさか、小梅先輩だと言うのだから。

 ガチガチに緊張してしまっているのは、小梅先輩にも伝わってしまったのか。いざ家の中へ一歩踏み出そうとしたその時。

 グイッと腕を取られ、その端整な顔が耳元に寄せられた。


「一応言っておくけど、男の子を家に上げるのは、君が初めてだよ?」


 その小悪魔めいた囁きに、俺の思考がついにフリーズしたのは、言うまでもないだろう。

 どうせなら、今日はもう年上モードで通してくれよ……。

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