第15話 怒りの青と羞恥の赤

 授業が全て終わった頃には、今にも腹の虫が鳴きそうになっていた。昼休みは色々話が出来て、取り敢えずの一件落着を見せたからよかったものの、育ち盛りの食欲はそんなもんじゃ抑えられない。

 そんなこんなで放課後。さっさと空き教室に行って残りの弁当を食いたいのだが、今日は掃除当番が少し長引いてしまった。と言うのも、掃除の班に学校を休んでいるやつがいて、その上担当の教師はちゃんと掃除出来るまで帰してくれない頑固者ときた。

 おまけにゴミ出しはじゃんけんで決めるから、まあ当然のように俺が負けてゴミを捨てに行く羽目になる。もうちょっと運が絡む要素少ないやつで決めませんかね。それでも勝てるか分かんないけど。

 俺にじゃんけんで勝った他の三人は、俺に挨拶も礼も言わずそれぞれ帰宅したり部活に行ったり。あいつらとは友達でもなんでもない、ただのクラスメイトだから別にいいが、さすがに失礼ってもんじゃなかろうか。挨拶をしないのはスゴク=シツレイにあたるって、古事記にも書かれてんの知らないのかよ。


「はぁ……」


 吐いた白いため息は、寒空の中へと消えていく。早く空き教室に向かいたいのに、なんだってこんな雑用を押し付けられているのか。

 早く行かないと、また小梅先輩が拗ねてしまいかねない。別にあの人に早く会いたいとかじゃなくて。あとほら、弁当の残りもさっさと食いたいし。腹減ってるし。

 誰に向けたわけでもない言い訳を脳内で繰り返し、そんな思考をごまかすように、またため息を一つ。

 いっそ雪でも降ってしまいそうなほど寒いが、残念ながら空は快晴。雪なんて降りやしないだろう。カバンにしまってあるマフラーを出そうかと思ったが、どうせすぐ空き教室に行くのだ。あそこは暖房が効いてるし、無駄な手間になる。

 辿り着いたゴミ捨て場。前に一人でここに来た時は、あの人がそこで泣いていたが。

 あれから、もう一週間と言うべきか、まだ一週間と言うべきか。どちらだとしても、あの日から俺を取り巻く環境が、激変してしまったことに違いはない。

 図書室のものより幾分か重いゴミを捨てる。寒いからさっさと校舎に戻ろう。小鞠は部活だし、本当にあの人の機嫌を損ねかねない。

 そう思い来た道を振り返ろうとした時。


「おい」

「……っ⁉︎」


 背中に衝撃。同時に吹き飛ぶ俺の体。

 蹴り飛ばされたと理解出来たのは、無様に倒れた俺を見下ろす、三人の女子生徒がいたから。スリッパの色を見るに、三年生だろう。


「椿葵ってあんただろ? 最近あいつとよくつるんでんの」


 俺に蹴りを入れた、真ん中に立っているやつが口を開く。どこまでも高圧的なそいつは、明るい茶髪に濃すぎるほどの化粧を顔にしていて、見るからにギャルっぽい感じだ。

 その両脇を固めてる二人も似たような容姿で、ギャハハと下品な笑い声を上げる。


「白雪のやつ、こんなんと一緒にいんの? 男の趣味悪すぎだろ」

「もしかしたら遊んでやってるだけかもね! なにそれ超悪女じゃん、ウケる!」


 ああ、なるほど。昼休みのあのやり取りで、小梅先輩の問題は一件落着と思っていたが、そんなことはないじゃないか。

 だって、どれだけ俺や小鞠が先輩のそばにいても、こう言う輩が消えることはないのだから。


「なんだよあんたら……」


 聞きながら立ち上がろうとすれば、それを妨げるべくもう一度蹴られる。お世辞にも運動神経がいいなんて言えない俺は、もちろん受け身も取れない。

 お陰でコンクリートの地面に体を打ち付けられ、女子から二回蹴りを入れられただけだって言うのに、すでに泣きたくなって来た。


「お前にはそんなん関係ないんだよ。ただ、わたしらの憂さ晴らしでボコボコにされればいいだけ」

「サヨちんマジワルだわー!」

「この子カワイソー!」


 言いながら、あとの二人も俺に蹴りを見舞って来た。顔を腕で守ろうとするが、お構いなしに何度も蹴られて踏まれて。

 だが、不思議と頭の中は取り乱していなかった。

 そもそも明日はセンター試験だってのに、この三人はこんなことしてる暇があるのか。俺なんかに構わず勉強しろよ。なんて、場違いな思考がよぎるほど。

 あの人と関わる以上、こんな事になるのはどこかで理解していたから。まさか、ここまで直接的な暴力に訴えてくるやつがいるとは思えなかったが。

 でも、俺がこんなに冷静でいられる、本当の理由は違う。


「ツイてねぇなぁ……」

「あ?」


 小さく呟いた言葉に、サヨちんとか呼ばれていたリーダー格の女が耳聡く反応する。そのお陰か攻撃は止んだが、体の至るところが痛い。立ち上がる気力もないし、口の中は血の味がして不味い。

 しかしそれらを全部我慢して、俺は相手を挑発するように笑みを作る。そう、丁度昨日、夏目さんに見せてもらったみたいな。


「あんたら本当、ツイてねぇよ」


 その言葉の意味が分からないのか、三人は一様に首を傾げている。

 だが、その次の瞬間には、いやでも理解させられただろう。


「なに、してるのかな?」


 心臓が竦んでしまうほどに冷えた声音が、校舎裏のゴミ捨て場に響いた。

 やっぱり。この人は来てくれるだろうと思っていた。

 直接向けられた訳でもない俺でも、思わずビビってしまうくらいだ。ならば顔を真っ青にしている三人は、喉元にナイフの切っ先を突きつけられたような感覚にでも、陥っているのでなかろうか。


「ねえ。なにしてるのかって聞いてるんだけど、高宮たかみや小夜さよ

「白雪小梅……」


 歯ぎしりしながら呼ばれた女が振り向いた先には、怒りを隠そうともしない小梅先輩が。

 ゆっくり、ゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる。こんな先輩は見たことがない。いつもなにかしらの笑顔を浮かべていて、抱くイメージは天真爛漫そのもの。キツイ目尻は柔らかな印象すら抱かせていたというのに。

 深い青の瞳には、鋭く研ぎ澄まされた敵意を滲ませ、だがその顔は完全に無表情で、ただ、怒りの色だけを窺わせている。


「なんでお前がここにいんだよ……!」

「さて、何故でしょうね。葵君の言う通り、あなた達がツイてなかったんじゃない?」


 三人の横を通り抜けた小梅先輩が、俺の前に立つ。どういうわけかその顔には、いつもより優しい笑顔が浮かべられていた。さっきまであんな怖かったのに。


「ごめんね、葵君。大丈夫?」

「ご覧の通り、大丈夫じゃないですね。立つ元気もないです」


 肩を竦めて戯けて見せる。実際立とうとすると全身に痛みが走って、我が身の貧弱さを呪ってしまう。

 そして俺たちから少し距離を取っていた三人の一人、小梅先輩から高宮小夜と呼ばれたやつが、一歩前に出て吠える。


「はんっ! あの白雪小梅が堕ちたもんだね。そんなクソダサくてなよっちい男が好みとか、他の奴らが知ったら失望すんじゃないの?」


 俺に手を差し伸べようとしてくれてた先輩は、瞑目してため息を一つ落とした。

 次に目を開いた時、その顔から表情が抜け落ちて、その身には先程と同じ雰囲気を纏わせている。


「二度目よ」

「あん?」


 履いていたスリッパを何故か脱いだ小梅先輩。場違いに思えるようなその行動に、俺を含めた全員が疑問符を浮かべていると。

 こちらを向いていた先輩の身が翻った。

 その勢いに乗せて、長い右足が高宮小夜の顔面へと鋭く突き刺さる。


「ひっ……!」


 いっそ見惚れてしまうくらいに華麗なハイキックは、しかし高宮小夜の顔の横で寸止めされていた。

 情けない悲鳴を上げた相手は、腰を抜かし尻餅をつく。少し後ろに立っていた他の二人も、驚いたのか恐怖したのか、友人に駆け寄ろうとしない。

 あと小梅先輩、スカートでハイキックはマズイですよ。中見えちゃいましたよ。ご馳走様です。


「一度目はマフラー。二度目は葵君。これ以上あたしの大切なものに手を出さないことね。じゃないと、次は当てるわよ」


 淡々とした無機質な声は、嘘を言っているように思えない。この人は本当に容赦しないだろう。

 足を下ろし、こちらにまた振り返った先輩は、心配げに眉を顰めた。


「ほら、手貸してあげる」

「どうも」


 差し出された手を取ると、随分軽々と引っ張られて立たされる。痛みも少しマシになって来たし、目立った傷もない。制服はかなり汚れてしまったが、まあ仕方ないか。家に予備はあるし。


「保健室行こっか」

「別にそこまでじゃないですよ」

「ダメ。いいから行くわよ」

「強引すぎやしませんかね」


 小梅先輩の手に引かれ、三人をその場に放置して保健室へと向かう。

 しかし、馬鹿な真似をするやつがいたもんだ。明日はセンター試験とか以前に、あの白雪小梅に喧嘩を売るとは。

 高宮小夜と小梅先輩の間にどんな因縁があるのかは知らないが、先輩の口振りからするに、あの時、俺が見た光景は高宮小夜によるものだったのだろう。ズタズタにされたマフラーも、恐らくは。


「失礼しまーす」


 辿り着いた保健室に、養護教諭は見当たらなかった。なにか仕事で出ているのだろうか。

 だが隣で、あの人またいない、とか呟いてる小梅先輩を見ると、ただのサボりの可能性もある。


「取り敢えず、勝手に使わせてもらおっか」


 とは言っても、目に見える傷なんてデコの擦り傷と口の辺りがちょっと切れてるくらいのものだ。若干血が出てるとは言え、それだけ。あとは執拗に蹴られていた脇腹の辺りも痛むが、骨が折れてるとかそんなことはないだろう。

 小梅先輩の処置の手際は実に素早く、かつ丁寧だった。やはりスポーツをしていると、怪我の処置にも慣れるのだろうか。

 痛む脇腹を見せるのに上の服を脱げとか言われた時は、さすがに若干の羞恥心が沸き起こったし、それをまたいつもの如くからかわれたりしたが。まあ、ご愛嬌というやつだろう。


「……ごめんね、葵君」

「なんですかいきなり」


 処置がすべて終わり、向かい合って座っている小梅先輩が、申し訳なさそうな顔で謝って来た。そんな表情も、初めて見る。


「余計な争いに巻き込んじゃって、ごめん」


 後悔を噛みしめるように、俯かせた頭を更に下げる。別にこの人から謝られる謂れはない。悪いのは小梅先輩ではなく、高宮小夜とか言うやつとその他二人なのだから。

 それにどうやら、この人はなにもわかっていないようだ。


「あんた、昼休みに小鞠から言われたこと、なんも理解してないでしょ」

「え?」

「巻き込めって言ってるんですよ。俺と小鞠を、先輩が抱えてるあれやこれやに。じゃないと、あんなこと言いません」


 顔を上げた先輩は、目を丸くして驚いている様子だ。俺の言ってることが理解出来ない、とでも言いたげな。頭いいんだから、さっさと理解して欲しいものだが。


「でも、それだとまた、今日みたいなことが……」

「俺にとっちゃあんなの、日常茶飯事ですよ。もっと酷い時なんていくらでもありましたから。それに、またあんなことがあっても、小梅先輩が助けに来てくれるんでしょ? 今日みたいに」


 俺があの時、あんなにも冷静でいられたのは。小梅先輩なら駆けつけてくれると、妙な自信があったから。根拠もないのに、不思議とそう思えていたから。

 普通は逆だろうと自分でも思う。女の子に助けてもらうなんて、男としてのプライドやら意地やらはどこにいったのかと、自嘲気味な笑みさえ漏れてしまう始末。

 だけどそんなの、この人の前ではないのと同然だ。そもそも俺がそんなものを持っているならわけがないって話。


「最終的にそっちに丸投げで悪いんですけどね。でもあんたは、俺や小鞠が助けを求めれば、必ず助けてくれる。違いますか?」

「それはそうだけど……」

「ならこの話は終わり。んなことより、俺だって聞きたいことはあるんですよ」


 まだ納得していないようだが、してもらうしかない。いや、仮にこの人が納得しなくても関係ない。

 傷つける覚悟は出来たのだから。

 こうしてこの人と関わっているうちに、いつか俺が、この人を傷つけてしまうかもしれない。そんな日が来てしまう、その覚悟が。


「で、結局あいつらなんだったんですか?」

「あの三人、と言うよりも、高宮小夜はあれよ。あたしに色々と取られて、嫉妬に狂ってやらかしちゃいましたー、みたいな。オツムの残念な馬鹿がよくやるやつよ」


 気を取り直したのか、小梅先輩は呆れたようにため息をつきながら言う。切り替えの早さは尊敬に値するな。さっきまでのしおらしい様子なんて既に皆無だ。

 しかし、よくあるのか、あれ。ダメなんじゃないのかよくあったら。


「覚えてる? 先週、あたしと君が初めて会った時のこと」

「って言うと、ゴミ捨て場での?」

「そう。その時あたし、マフラー持ってたでしょ? あれもあいつらにやられたのよ」

「それで、泣いてたんですか……?」


 つい発してしまった疑問は、この一週間ずっと持っていたもの。夏目さんから色々と話を聞いていて、ある程度察せられるところはあったが、この人に直接聞いたのは、今が初めてだ。

 その問いに対して小梅先輩は、哀しげに笑ってみせた。笑顔のはずなのに、今にも泣き出してしまいそうな表情を。

 やっぱり、そういう顔をしてしまうのか。


「あのマフラーね。クリスマスに、お姉ちゃんから貰ったやつなんだ。しかも手編みで」


 たかがマフラーひとつ。しかしそこに込められた想いは幾ばくか。夏目さんからあんな話を聞いた後だと、俺には計りかねない程のものが詰め込んであったんだろう。

 それが、貰ってからたったの数日で、あんなことになってしまった。


「殺したいほど憎かったけど、さすがに手を出すわけにはいかないじゃん? でも、やっぱ今回はちょっと我慢できなかったよ」


 ちょっと我慢できなかった、どころじゃないと思うが。あんなに敵意剥き出しで、当たればどうなるか分かったもんじゃないハイキックまで繰り出して置いて。

 助けて貰ったはずの俺までちびりそうなくらい怖かったんだぞ。


「これが、今まで葵君の知りたかった真相。あたしの涙の理由ってやつ。どう、満足したかな?」

「……別に、そこまで知りたかったわけじゃないですけど」

「またまた、いつ聞こうかっていっつもソワソワしてたくせに」


 やっぱバレてたのかよ……。何この人さとり妖怪かなにか? だとしたら地底に帰ってくれませんかね。


「でもまあ、これであの三人も卒業までは大人しいと思うよ。問題があるとするなら、首元が寒いくらいかな」

「じゃあ……」


 多分今の俺は、いつもに比べてどこかおかしいんだろう。あの三人に散々蹴られて踏まれて、頭のネジが一本くらい飛んでしまったのかもしれない。

 そうじゃないと、今から俺がしようとしてる行動の説明ができないから。


「じゃあこれ、使っといてください」


 カバンの中にしまってあったマフラーを、小梅先輩に差し出す。

 さっき巻いていなくて正解だった。じゃないと、制服と同じく汚れてしまっていただろうから。


「えっと、なんで……?」

「だって、首元寒いんでしょ。ならこれあげます。風邪引かれても困るし、俺は寒いの苦手でもないし。俺のお古じゃ、お姉さんの手作りには敵わないと思いますけど」


 おずおずと伸ばされた手が、差し出したマフラーを取る。どこか呆けたような表情で手元のそれを眺めた後、小梅先輩はおもむろにマフラーを巻いた。

 ここ、室内なんですけど。なんて言葉は呑み込まざるを得なくなる。

 とても小さく、それでいてとても嬉しそうな笑みが、その顔に浮かんでいたから。

 俺が今まで見た中で、一番綺麗で、美しくて、可愛い笑顔が。


「ふふっ、ありがと、葵君。じゃあ、遠慮なく貰っちゃうね」

「……どうぞ」


 思わず見惚れてしまい、心臓が煩く鳴り始める。視線を逸らした先にあった空は、既に夕焼けへと変わっていた。

 無言になってしまうのがどこか怖くて、照れ隠しのつもりで口を開く。


「それはそうと、学校に黒い下着を履いてくるのはいかがなものかと」

「……っ⁉︎」


 マフラーじゃ隠しきれないほど、真っ赤に染まる小梅先輩の頬。してやったりと薄く笑う俺。なんだか今日は、初めての表情ばかり見せてくれる。


「わ、忘れなさいっ!」

「いやいや、あんな強烈なもん見せられたら、中々忘れられませんって」

「いいから! じゃないとあたしが記憶消してあげるけど⁉︎」

「それは勘弁」


 それがどこか嬉しくて。赤くなって慌てる先輩には悪いが、俺の笑顔は中々消えてくれることがなかった。

 久し振りにこんな笑ってる気がするけど、もしかしたら目の前のこの人から、移ったのかもしれない。

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