第13話 パンクの修理と彼女の家族

 道具を取りに向かってから十五分ほどして、夏目さんは戻ってきた。道具を取りに行くだけなのに随分と時間が掛かったように思えたが、まあ、大体は察しがつく。


「悪い、桜を宥めるのに時間かかっちゃって」

「そんなとこだろうと思ってました」


 ここに連れてきてないだけでも、俺的には非常にありがたいのだ。文句は言えない。

 二人で自転車を車から降ろし、邪魔にならない場所まで移動させてから、夏目さんは修理道具を広げた。


「さてと。それじゃ、修理のついでに続きを話そうか」


 慣れた手つきで自転車を弄り始めながら口を開く。パンクの修理に慣れてるって、自転車屋で働いてもいない限り中々ないと思うのだが。そもそも、その道具を置いてあること自体が珍しいとも言えるし。


「問題の解決は、問題の発生にしかならない、でしたっけ?」

「そう。君も心当たりあるんじゃないかな? 例えば、定期テストでいい成績を残さなければならないと言う問題が発生したとして、それを解決できた後は、次にその成績を維持しなければならないという問題が発生してしまう。みたいな感じで」

「まあ、ないってことはないですね」


 俺の場合、次々に襲いかかる不幸に当てはめることが出来るか。


「桜と小梅ちゃんの、歪んだ姉妹関係には終止符が打たれた。二人は仲のいいどこにでもいる姉妹になって、ハッピーエンド。そうなれば良かったんだけど、現実ってのはそこで簡単に終止符が打たれるわけじゃないんだ。ここから話すのは、ハッピーエンドのその先、エンドロールが流れた後の話」

「でも、普通の姉妹に戻ったんですよね? だったら二人の間に問題が発生する隙なんて、ないんじゃないですか?」

「二人の間には、ね。小梅ちゃん個人だと、また別の話。まあ、捉え方によっては、これも二人の問題だとも言えるけど」


 正真正銘、小梅先輩自身の問題。それは恐らく、今も抱えているであろうもの。


「念のため聞いとくけど。この先を聞いてしまったら、多分君は引き返すことが出来なくなる。それでもいいかい?」


 つまり、小梅先輩へと今以上に踏み込むことになる。それはきっと、あの日の涙の核心にも近づけるだろう。


「俺が話を聞いても、なにも感じない薄情なやつって可能性は考えないんですか?」

「まさか。もし仮に、君がそんなやつだとしたら、そもそも小梅ちゃんと関わることすら出来ないだろうし、僕は喜んでこの場に桜を連れてきてるさ」


 なにを根拠にそんなことを言えるのかは分からないが、それでも俺の答えは決まった。

 元より、あの人からあの願いを聞かされた時点で、退路は塞がれているも同然だ。


「聞かせてください。小梅先輩のことを」


 嬉しそうにふっと笑みをこぼした夏目さんは、やはり大人に見える。もう大学生で、俺とは四つも歳が離れているのだから、当然なのだが。


「それじゃあ、まずはどこから話すかな。君は桜のことを知ってるって言ったけど、どれくらい知ってる?」

「生徒会で辣腕を振るっていた、くらいですかね」

「付け足せば、三年の時の定期考査は悔しいことに毎回一位。さっきも言ったように、見た目がいいから男子からはかなり人気で、口が悪いと言っても三年になってからはそれなりに鳴りを潜めていたから、女子からも羨望の眼差しを集めていた」

「なんか、フィクションの世界に帰れって感じですね」


 どこのラノベヒロインだと言いたくなる。そんなので副会長だと言うのだから、果たして当時の会長はどれだけ化け物だったのか。


「けれど、同時に敵も多かった。恵まれた才能ゆえに、嫉妬する輩もいたってだけなんだけどね。鳴りを潜めたと言っても、桜自身が敵と見定めた相手には変わらず容赦なかったし、当時の新入生、今の小梅ちゃん達が入学して来た頃なんて、噂に尾ひれがつきすぎて怖がられたりもしていたんだ」


 それ自体はよくある話だ。人間とは醜いもので、自分よりも優れた相手を蹴落とせば、自分の価値が上がるのだと錯覚するやつがいる。それこそ、嫉妬や憎悪に狂ったやつらのすることだ。

 スペックに優れた人間ほど、そのクソみたいなやつらに足を引っ張られる。


「それでもやっぱり、校内における桜の信頼はかなりのものだった。人間関係への対処は壊滅的な桜だけど、そのあたりはまあ、僕たちがフォローしてたし。そんな姉が同じ学校に在籍している妹。簡単な方程式だよ」


 呆れに近いため息が、夏目さんの口から漏れる。それがなにに対するものなのか、言われずとも理解してしまった。


「周囲から小梅先輩にかかる期待は、かなりのものだったんでしょうね」

「なまじ、桜の完全な上位互換だったからね。期待には全て応えることが出来た。出来てしまった。僕たちが卒業するまではそこまで酷くなかったんだけど、その後はやばかったって聞いてるよ」


 例えば陸上。全国大会に出場してしまったのも、その才能ゆえにかかる期待に応えたからなのだろう。その裏で、一体先輩はどれだけ血の滲むような努力を繰り返して、体に無理をさせたのか。

 いや、それだけじゃない。ただ期待されるだけなら良かった。だが、小梅先輩には姉の存在があった。


「優秀で信頼された桜と比べられ、それに負けじと自分を追い込む。陸上だけじゃなくて、勉強も、人間関係も。そうして全て上手くやってしまう反面、そのせいで敵を作ってしまう。ただの悪循環だよ」


 苛立ちを込めながら吐き捨てられた言葉は、小梅先輩に余計な期待をした大人たちに対するもの。

 俺や小鞠が見ていた、完璧超人リア充の白雪小梅は、表で被っている仮面にすぎない。どれだけ周囲を友人のような誰かに囲まれていても、その心は着実に孤立していた。


「自分を囲む友人が、いつ敵になるかも分からない。裏ではなんと言われているか分からない。人間不信に陥ってもおかしくないのに、あの子は僕や桜に弱った姿を見せようとしなかった。それは、君の前でも同じじゃないか?」

「そう、ですね……。少なくとも俺は、あの人の笑顔をこの一週間で、嫌ってほど見てますし」


 だからこそ、あの日の涙がどうしても忘れられない。こんな話を聞いてしまったから、余計に。

 なるほど、たしかにこれは、後戻りも引き返すことも出来なさそうだ。

 だって、こんなにも怒りが湧いてくるのだから。あの人に余計な期待をかけた大人たちに、勝手な尺度で測って、あの人を敵視する醜いクソ野郎どもに。

 それを全部隠して、いつも笑顔ばかりを浮かべる、小梅先輩に。


「だから、小梅ちゃんが学校で泣いてたなんて話を聞いた時は、正直驚いたよ。なにがきっかけで泣いてしまったのかは、教えてくれなかったけど」

「きっかけ……」


 そう言えば、あの時。小梅先輩は、ボロボロのマフラーを腕に抱いていた。恐らくは、カッターナイフかなにかでズタズタに引き裂かれたマフラーを。

 ここまで話を聞かされれば、その真相にも容易に辿り着ける。きっとそのマフラーは、俺や他の奴らが知らないだけで、小梅先輩にとってはとても大切なものだったんだろう。

 いつの間にかパンクの修理を終えていたのか、夏目さんは道具を片付け始めている。話を聞くことに夢中になって、手伝うのを完全に忘れていた。


「誰か一人でも、味方になってくれる子がいたら良かったんだけどね。僕が卒業した後は小泉、僕の後輩がいたけど、小梅ちゃんが三年生になってからは、誰もいなかった」


 俺と視線を合わせた夏目さんからは、初対面時の胡散臭さなんてどこにも匂わせていない。小梅先輩を本当の妹のように思う、兄として、俺を見つめる。


「だから、君に託す。勝手かもしれないけど、僕たちの妹を助けて欲しい」


 助ける? 俺が、小梅先輩を?

 たしかに夏目さんから聞かされた話を踏まえれば、小梅先輩は今もどこかに手を伸ばしているのだろう。いつ、誰が掴んでくれるともしれないのに。

 だからって、俺がどうにか出来る問題とも思えない。敵は個人ではなく、集団だ。そしてその集団が形成する空気だ。

 白雪小梅になら任せられると言う空気。なんでも出来て気に食わないと言う空気。

 そんなもの、相手にしようがない。

 そもそも。そもそもの話だ。

 俺は、他の誰よりも不幸な男なんだぞ。


「……俺には無理ですよ。夏目さんも、小梅先輩から話を聞いてるんでしょ。俺は友達のいないぼっちの不幸野郎。そんな俺が小梅先輩といても、先輩を俺の不幸に巻き込むだけです。それに、小梅先輩から助けてくれと直接言われたわけでもないのに。そんな勝手なこと、出来るわけないです」


 俺のせいで、余計に事態が悪化するかもしれない。小梅先輩が、今よりもずっと悲しい思いをするかもしれない。

 こればかりは、小梅先輩に限った話ではないのだ。小鞠だって、俺の友達でいてくれているけど。これまで、何度も俺の不幸に巻き込んでしまった。大事に至ったことは今はないが、これから先は分からない。

 そんな不安が、尽きることなく俺を襲う。

 傷つけないためには、触れ合わないのが一番。必要以上の関わりは避けるべきなのだ。


「君は、自分の思考と行動の矛盾に気づいているか?」

「は?」

「いや、気づいていないならいいんだ。まあ、よくはないんだけど、僕が教えることでもないからね」


 言葉の意味が分からず、首を傾げてしまう。

 だがそれについて深く考えるよりも先に、夏目さんが話を続けた。


「もちろん強制はしない。大切なのは、君の意思だ。この話を聞いてしまった以上、引き返せはしないだろうけれど、その先の行動は君が考えるべきこと」


 夏目さんの言う通り、この話を聞くと決めた時点で、小梅先輩とこれから深く関わる覚悟は出来ていた。だが、それで俺が小梅先輩を助けるだなんて、思ってすらいなかった。


「俺はただ、あの時の涙の理由が知りたかっただけです。それが、こんな話になるなんて……」

「なら、考えるんだ。どうして君は、それを知りたいと思ったのか。大切なのはそこだよ」


 どうして。それは、どうしても頭から離れないからで。ならどうして、頭から離れないのだろう。毎日のように、あの人の涙を思い出してしまうのだろう。

 分からない。考えれば考えるほど、底なしの沼に沈んでいく気分だ。

 目の前から落とされた優しい微笑みに、思考を中断させられる。気がつけば俯いていた顔を上げれば、


「悪い、一気に色々話しすぎたね。取り敢えず修理も終わったし、この話は──」

「話は終わった、かしら?」


 夏目さんの背後。腕を組んでこちらを見据える女性が見えた。

 鈴の音のように透き通った声。長い黒髪を風で靡かせ、コートとマフラーで暖を取っているその女性は、どうしようもなくあの人と似ていて。

 手に持っていたらしいなにかを夏目さんに向けて放り投げ、夏目さんもそれを難なくキャッチする。ブラックの缶コーヒーのようだ。


「……なんで降りて来たんだよ。家で待っていてくれって言っただろう」

「小梅が関わることなのに、私が大人しくあなたの言うことを聞くとでも思った?」

「相変わらず、僕は小梅ちゃんよりも優先順位が下か。さすがに泣きたくなってくるね」

「優先順位とか、そう言う話じゃないでしょ。あなたを蔑ろにしたことがあった?」

「割と」

「それはあなたの記憶違いよ。大変、誰かに脳改造でもされたのかしら」

「記憶を改ざんされてるのはどう考えても君の方だろう」

「天才物理学者的な?」

「それ、顔も変わっちゃってるから」


 夏目さんが缶のプルタブを開ける音で、ようやく二人の会話が止まる。テンポが良くていつまでも聞いていられそうな、軽快な会話が。それだけで、この二人がどれだけ深い仲なのか理解出来てしまう。

 そして当然のように、女性は次に俺へと視線を向けた。

 その顔に表情と呼ばれるものは何一つ浮かんでいない。先ほど、夏目さんと会話していた時からずっと。ともすれば、睨まれていると思わせるほどに。

 しかし、見れば見るほど小梅先輩と似ている。髪の毛はこの人の方がかなり長いが、目元なんて特にそうだ。こちらにキツイ印象を与える、鋭い目尻。小梅先輩の場合は笑顔でそれが飽和されるが、この人は全くそんなことがない。


「あなたが、椿葵ね?」


 やがて発せられた声には、やはり何一つとして感情と言うものが込められていない。どこまでも平坦な、まるで俺のことを道端に落ちてるゴミだと思っているような。

 妙な威圧感を感じてしまうのは、その表情と声ゆえにだろうか。小梅先輩がこの人の上位互換だなんて、とんでもない。むしろ逆だ。運動だとか勉強だとかは知らないが、その存在感は明らかに小梅先輩より遥かに上。

 年の功と言えばそれまでなのだろうが、たしかにこれは、ラスボスだなんて言われるのも納得だ。


「初めまして、白雪桜よ。私のことは、まあ大体それから聞いてるかしら」

「それって」

「智樹はちょっと黙ってなさい」

「うっす」


 夏目さん弱すぎない?


「あなたのことも、小梅からある程度は聞いてるわ。どんな男かと思ってたけど、これはまた随分と、拗らせてるのが出て来たわね」

「僕ほどじゃないんじゃないか?」

「黙ってろって言ったでしょ。晩御飯抜きにするわよ」

「ごめんなさい」


 今のは夏目さんが悪い。うん。黙ってろって言われたんだから素直に黙ってればいいのに。

 しかし、拗らせてると来たか。小梅先輩からは、俺たち三人の関係を指してそう言われたが、俺個人に対してそう言われたのはこの人からが初めてだ。

 なにをどう拗らせているのか。自覚なんて全くない。そもそも、俺は俺なりに素直な生き方をして来ているのだから。


「智樹から色々と言われただろうから、私からは一つだけ忠告しておこうかしら」

「忠告、ですか……」


 ゆっくりとこちらに歩いて来た白雪桜さんの手には、いつも小梅先輩が飲んでいるカフェオレが握られていた。

 それをどう言うわけか俺に差し出してくる。意味もわからず取り敢えず受け取れば、手のひらに暖かい熱が広がった。


「傷つける覚悟もないまま、誰かと深く関わろうなんて思わないこと。もしその覚悟がないなら、小梅には今後一切近づかないで」


 俺に、小梅先輩を傷つけろと。この人はそう言うのか。

 助けてあげてくれって言われたり、かと思えばこんなことを言われたり。結局俺に、どうして欲しいんだ。

 分からない。この人たちがなにを望んでいるのかも、俺がなにをしたいのかも。

 告げられた言葉になにも返せず、ただスチール缶の熱を感じるだけでいると。無表情を貫いていた桜さんの顔が、不意に綻んだ。

 小梅先輩と似ていて、でもどこか違う、優しい笑み。

 それに思わず、見惚れてしまう。


「とは言ったものの、智樹が言ったように、なにをどうするかはあなた次第よ。私達の言葉だって、私達の意図した形とは違う形であなたに伝わっているのかもしれないから」

「……物事の捉え方は、人によって違う。ですか」

「あら、小梅から聞いたのかしら? 全くあの子は、話半分に聞いてなさいって言ったのに……」


 とは言いつつも、桜さんの笑みはどこか嬉しそうにも見える。夏目さんの言う通り、ただの仲のいい姉妹。妹のことが大好きな姉。なのだろう。


「二つ目になってしまうけど、これも一応言っておくわね。小梅があなたに伝えた通り、物事に対する捉え方と言うのは人それぞれよ。この世に存在してる人間の数だけある。特に言葉っていうのは、とても不自由なものなの。何かを伝えた気になって、勘違いとすれ違いをしてしまう。こんなこと、この世界にはごまんとあるわ」

「つまり、なにが言いたいんですか……?」

「それでも、伝える努力を惜しんではダメ、ということよ。言葉じゃなくても、行動で示してもいいの。あなたが小梅をどう思ってるのかは知らないけど、それをどんな手段を使ってでも伝えなさい。少なくとも、私は手段を選ばなかったわ」


 桜さんがちらりと目だけで横を見れば、夏目さんが照れ臭そうに顔をそらす。俺の前でイチャイチャしないで欲しい。


「はい、これで話は本当におしまい。智樹、この子を家まで送ってあげなさい」

「最初からそのつもりだよ」

「あの……!」


 撤収しようとする二人に向けて、声を上げた。自分でも思ったより大きい声が出てしまって、不思議そうな目が四つこちらに向く。

 一瞬たじろいでしまうが、それでもこの人たちに聞きたいことがある。散々話を聞かされたのだ。一つくらい聞いたって構やしないだろう。


「どうして、俺なんですか……。俺よりも優秀で、小梅先輩の問題なんて簡単に解決できるやつは、他にいるじゃないですか。なのになんで」

「小梅があなたを選んだからよ」

「……それだけで、俺のことを信用するんですか?」

「当たり前じゃない」


 なにをバカなことを、と言いたげな桜さんは、ここに来た時の平坦な声が信じられないくらいの感情をそこに乗せて、まるで歌うように言葉を紡いだ。


「あの子は、私と智樹の妹。私達の家族なんだから」


 まるで答えになっていないのに、どうしてだろうか。その言葉が、最後の一押しになっていたのは。

 あの人を傷つける、その覚悟の。

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