第12話 彼女の過去とお兄さん
自転車が走り去っていった方向を見つめる。既に彼の後ろ姿は見えないけど、こんな赤くなった頬で家に帰るわけにはいかないから。
冬の風が冷たくて心地いいのに、さっきまでのことを思い返せば、どうしてもその色は元に戻りそうになかった。
勇気を出して伝えたいお願いは、ちゃんと葵くんに届いてくれた。
私の名前を呼んでくれたあの声が、さっきから何度も脳内でリフレインしている。自然と頬がほころびそうになるけど。
でも本当は、私だって気づいてる。
久しぶりに二人きりで過ごした放課後の時間。私は葵くんのことで頭がいっぱいだったけど、葵くんは違った。
今日だけじゃない。あの日、あの人が現れてから、ずっと。
四月から図書委員として一緒にいたから、それくらいは見ていれば分かってしまう。
少しでも長く、隣にいたいから。わざと遠回りしたりして。間違えたとおどけて見せれば、彼は笑って許してくれて。
でも、そのあまりに笑顔が眩しいから、私には直視出来なかった。
その笑顔の裏で、私じゃなくて、あの人のことを考えていると思ったら。
『あたし、これでも駒鳥ちゃんのこと、応援してるんだよ?』
月曜日のお昼休みに言われた一言を思い出す。
白雪先輩は、本当にそれでいいんですか?
本当は葵くんのこと、どう思ってるんですか?
問いかけは形を持たず、ただ吐いた白い息が宙に消えていく。例えどんな答えが返ってきたとしても、私の決意は揺るがない。
だって、こんなにも。
好きの気持ちが溢れているのだから。
つい警戒の目を向けてしまうのは、仕方のないことだ。見知らぬ男に声を掛けられ、いきなり手伝おうかなんて言ってくるのだから。
俺が差し伸ばされたその手を振りほどかなかったのは、小梅先輩の名前が出て来たから。別にあの人の友達と言うわけではないが、無関係と言うには関わりすぎている。
促されるままに、自転車を彼の軽自動車に無理矢理積んで、助手席に乗せられた俺はなぜか浅木方面へと連れていかれた。
「順番がおかしくなったけど、ひとまずは自己紹介かな。僕は夏目智樹。一応小梅ちゃんのお兄さん、ってことになってるらしい」
「はぁ……一応ですか」
「そう、一応」
いまいちよく分からない言い方だが、そこは突っ込まないでおこう。なんにせよ、この人が小梅先輩の言う『お兄さん』で間違いはなさそうだ。
この車も、どこかで見覚えがあると思えば、土曜日に小梅先輩が乗って来たものだろう。
「君は椿葵君で良かったかな?」
「そうですけど、小梅先輩からですか?」
「まあね。この間、後輩の男の子に泣き顔を見られた、なんて言って来たもんだから、桜を宥めるのに大変だったよ」
桜。小梅先輩の姉か。となると、この人達の関係も大体見えてきた。
しかし、小梅先輩はどこまで話しているのだろう。まさか全部話しているのだろうか。その可能性は非常に高い。別にそれで俺に不都合があるわけでもないが、強いて言うならなんとなく恥ずかしいくらいか。
「夏目さんは、どうして俺に話しかけて来たんですか? 俺が小梅先輩の知り合いだったとしても、俺たち初対面ですよ」
「困ってる人を助けるのに、理由はいらないんじゃないか?」
「……」
なるほど。たしかにこの人は、小梅先輩の兄だ。血の繋がりはなくとも、今の一言で嫌という程分からされた。
小梅先輩と同種の人間。いわゆる、人誑しと呼ばれる類の。
そして、こちらに真意を悟らせようとしない、その笑顔。あの人とまるで同じだ。
「まあ、元から君には興味があったんだけどね。小梅ちゃんが願いを託した子がどんな人間なのか。それから、小梅ちゃんがどう言う人間なのか、知っておいて欲しいし」
ああ、これはどうやら、全部話しているらしい。それだけこの人が、小梅先輩に信頼されているということか。あの完璧超人から慕われているのだから、夏目さんもそれなりにすごい人なのだろう。
「興味を持ってもらえて恐悦至極ですけど、俺なんてつまらない人間ですよ。小梅先輩曰く、友達のいないぼっちの不幸野郎らしいですからね」
「さて、どうだかね。それはただ表面上を見ただけにしかすぎないんじゃないか? 小梅ちゃんなら、君の本質を見抜いていてもおかしくはないも思うけど」
夏目さんは運転中で、前を向いてるはずなのに。どうしてか、その目に睨まれたように錯覚してしまう。彼が言った、俺の本質とやらを見抜かんとせんがごとく。
交わした会話は僅かな上に、出会ってまだ三十分と経っていないのに、この人に全てを見透かされるのではないかと恐怖してしまう。
「……小梅先輩とは、まだ出会って一週間しか経ってませんよ。それで俺を分かった気になられるのは、ちょっと癪ですね」
「ははっ、たしかにね。でも、それが出来てしまう。あの子は、ちょっとおかしいくらいスペックが高いからね。まるで超能力でも使ってるみたいに」
肩を竦めて苦笑する夏目さんの目は、どこか寂しそうにも見える。先ほどまでの蛇に睨まれたような緊張感は霧散した。一々怖いからやめて欲しい。
さて、それじゃあ。と前置きした夏目さんが咳払いをして、一言。
「女の話をしよう」
「ここ、月の裏側じゃないですよ」
「あ、分かってくれた?」
ネタが分かってくれたのが嬉しかったのか、声は少し弾んでいる。まあ、そのゲームは全ルートクリアしましたからね。
てかその語り出し、最終的にやばい話になるから。気軽に使っていいやつじゃないから。
「まあ、冗談は置いておいて。女の話と言うか、あの姉妹の話を少し、ね」
「小梅先輩と、そのお姉さんの話ですか?」「そう。一応言っておくけど、これ、僕から聞いたってのは内緒にしといてね。小梅ちゃんから桜に話がいったら、怒られるの僕だから」
ならしなければいいじゃないかと思ったが、聞きたいと思っている俺もいる。おそらくは、それこそ。小梅先輩の本質を知るのに必要だろうから。
「さて。とは言っても、別に二人の仲が悪いとか、そういう話じゃないんだ。むしろ逆でね。あの二人は、ちょっと引くレベルで仲が良すぎた」
「そう言えば、ちょくちょくシスコンを匂わせてはいますね」
「小梅ちゃんはまだマシな方だよ。酷いのはその姉。まあ、僕の嫁なんだけど、白雪桜の方でね」
軽く惚気を入れてきたぞこの人。
「ああ、嫁って言ってもまだ結婚はしてないよ? 僕たちまだ大学生だし」
「いや聞いてないです」
「君も蘆屋高校に在籍してるなら、白雪桜の名前くらいは聞いたことあるだろう?」
「まあ、名前くらいは」
ついこの前まで知らなかったとは言えない。だが今は知ってるし、どんな人だったかは小鞠が説明してくれたから良しとしよう。
「小梅ちゃんには及ばないものの、桜も中々の高スペックでね。運動以外なら大抵のことは人並み以上にこなせるような天才。おまけにとびきり可愛いもんだから、当時は白雪姫なんて言われてたりもしたよ。まあ、それを全部台無しにするレベルで口が悪いんだけど」
白雪姫。そう呼ばれている人物をどこかで見た気がしたが、そう考えずとも思い当たった。俺が最近読み進めている、文芸部の部誌だ。あの小説の登場人物、ヒロインが白雪姫と呼ばれていたはず。
たしかにあのヒロインも口が悪い故に「毒林檎が大好きな白雪姫」だなんて書かれていたが。まさかとは思うが、モデルだったりするのだろうか。
「問題は、小梅ちゃんには及ばない、ってところだった。運動はまず論ずるに値しないとしても、勉学から習い事まで、その全てにおいて。小梅ちゃんは姉を軽々と追い越した。そうなれば、どうなると思う?」
「それは……」
容易に想像がつく。自分よりも優れている妹。向ける感情は嫉妬か、羨望か、はたまた憎悪か。その全てかもしれない。
それがどれにせよ、二人の関係は歪んだものになるはずだ。嫉妬に狂った姉が、憐れんだ妹が、思いもしない行動を取るかもしれない。
丁度信号に引っかかり、こちらを向いた夏目さんと視線が合う。その目は至って真剣で、けれど同時に、懐かしむような目をしていた。
「大体想像はつくだろう? 桜がどんな感情を抱いてしまったのか。けれど、さっきも言った通り、桜は割と本気でヤバイくらいに小梅ちゃんを溺愛しててね。君の存在を知った時も、まずは君を消そうとしてたくらいに」
「えぇ……」
知らないところで命の危機に瀕していたのか……。止めてくれた夏目さんは命の恩人じゃないか。
卒業しても名を残すほどの有名人がそんなにヤバイ人間だなんて、こんなところで知りたくなかった。
「それだけ小梅ちゃんのことが好きなのに、自分はそんな感情を抱いてしまった。劣等感に苛まされるだけならどれだけ良かったか。そんな自分を嫌悪した桜は、自分の感情を見て見ぬ振りして、そこに蓋をした。その結果として、色んなものを諦めた。自分にはなにも要らない。こんな私よりも、小梅ちゃんの方が、ってね」
「随分飛躍した考えですね」
「ごもっともだ。僕だって未だに理解しかねるよ。けれど、なにかを諦めるって言うのは、これが中々に簡単なことじゃなくてね」
信号が青に変わる。再びハンドルを握った夏目さんは車を発進させ、前を向いたまま続きを話す。
「僕もその経験があるから言えるんだけど、どうしても未練ってのは残るものなんだ。桜の場合は、まず人間関係を全て諦めた。親しい人なんていらない。自分の全ては小梅ちゃんのために。改めて振り返っても、バカな考えだとしか言いようがないよ」
「……お姉さんが、小梅先輩に依存した、ってことですか?」
「君、結構察しがいいね」
ここまで話してくれれば、俺じゃなくても気がつくだろう。
つまり、自分の存在価値を妹に依存させた。妹に尽くすことによって自分の存在を定義し、同時に、自分はこれだけ妹のことを愛しているんだと、自分に嘘を吐き続けた。そうやって殻に閉じこもっていれば、どれだけ楽だろうか。
「桜一人の問題なら良かったんだけど、これは姉妹の問題。小梅ちゃんの方も、その時はちょっと困ったことになっててさ」
「さしづめ、寄りかかってくるお姉さんを縛り付けてた、ってとこですか」
「そう言うこと」
姉が自分に依存して来ることが心地よくて、甘えてしまっていたのだろう。小梅先輩だって、なにもお姉さんが寄りかかるのをいいことに変なことを考えてたわけじゃないはずだ。これはそもそも、姉妹愛が端を発する話なのだから。
だが、その心地のいいぬるま湯に浸り、寄りかかるお姉さんを縛り付けてしまえば、立派な共依存の完成だ。
「自分達の歪んだ関係に気がついた時には、既に遅かった。手遅れなくらいに泥沼にはまっていて、なにをしても全部逆効果。そりゃそうだ。お互いのためを思ってしていたことが、正しいとは言い切れないものばかりだったんだから。そこからまた、お互いのために何か手を尽くそうとしても、そのやり方が分からない」
「でも、それは解決したんですよね?」
「まあ、一応ね。未だにシスコン拗らせてる桜を見てると、たまに不安にはなるけど。曰く、キザでクール気取りのナンパ野郎のおかげで解決した、らしいよ」
これが、小梅先輩の過去。今のあの人を形作る大切な要素の一つ。
だが、本当にそれだけで終わったのだろうか。先輩は言っていた。自分の姉を知らない俺だと都合がいいと。それは即ち、小梅先輩が未だ姉に対して複雑な心境を持っている裏返しではないだろうか。
「でも、問題の解決って言うのは結局、新しい問題の発生にしかならない」
「どう言うことですか?」
尋ねたとほぼ同時に、車がマンションの駐車場へと入っていった。気がつけば浅木駅の近くまで来ていたようだ。ここが目的地なのだろう。
答えは返ってこず、夏目さんは車を駐車することに集中している。
やがて綺麗に車を駐めると、エンジンを切ってこちらを向き、後ろに無理矢理積み込んでる俺の自転車を指差した。
「続きを話す前に、まずは自転車を修理しようか」
「それはいいですけど、まさかここ、夏目さんの家ですか?」
「そう、僕の家のマンション。だから君はちょっとここで待っててくれ。さすがに、いきなりラスボスとご対面ってわけにはいかないだろうしね」
どうやら、小梅先輩の姉はご在宅らしい。
俺は出来れば長生きしたいので、もちろん首を縦に振らせてもらった。
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