第11話 激動の一週間と帰り道

 あの日、俺が小梅先輩のあの涙を見てから。既に一週間が経過した。

 この人生の中で、最も激動の一週間と言っても過言ではないだろう。だって、先週の今頃なんて、丁度本棚から落ちて来た本に頭をぶつけていたところなのだから。

 そして、この一週間で考えるべきことも増えた。

 小梅先輩のこと。駒鳥のこと。俺のこと。

 月曜日、小梅先輩に言われたことが、まだ頭の中を反響している。俺は、駒鳥のことをどう思っているのか。

 たしかに先週、駒鳥からはあんな宣言をされはしたが、なにも明確な言葉を告げられたわけではない。この期に及んで、俺の勘違いだなんだと言ったりはしないが、まだ、俺はなにも告げられていないのだ。

 だから、駒鳥に対して俺から何か言うことはないだろう。それでも答えを出せと、小梅先輩は急かした。

 もちろんあれから考えた。昨日今日と約束通り弁当を作って来てくれて、月曜日のように三人揃ってあの空き教室で、昼食をともにした。それは素直にありがたかったし、嬉しくもあった。駒鳥は小梅先輩と日に日に仲良くなってる様子だし、それだって喜ばしいことだ。

 そして今、放課後。駒鳥と二人きりで図書室。司書の先生もいるから、正確には二人きりではないが。


「なんだか、あっという間ですね。一週間前の今日は、白雪先輩と言えば、雲の上の人でしたのに」

「そうだな」


 駒鳥にとっては、明日だったか。だがまあ、一日くらいは些細な違いだろう。

 いつものように受付に並んで座り、俺は文芸部の部誌を、駒鳥は土曜日に買ったと言う新刊を読んでいた。

 やはり図書室に利用者はおらず、静謐な雰囲気が流れている。


「でも、良かったじゃないか。駒鳥も小梅先輩と仲良くやってるみたいだし」

「はい。未だに不思議な感じですけど、白雪先輩は、悪い人じゃなさそうなので」


 いや、それはどうだろう。あの人は多分悪い人だぞ。より具体的には悪いことを考える人。我が友人があの悪魔に騙されたりしないかは不安だが、ここは先輩を信じるとしよう。昨日一昨日の様子を見る限り、先輩も駒鳥のことを可愛がっているようだし。

 こんな会話をしていれば、煩わしい悩みからは解放された気になる。しかし、それは錯覚だ。ただ先延ばしにしているだけだ。それではなんの解決にもならないし、答えを得ることなんて出来ない。


「でも、椿くんも、白雪先輩と仲良いですよね」

「俺が?」

「はい」


 思わず首を傾げてしまう。俺が小梅先輩と仲が良い、とは。はてさてそのように見えるのだろうか。少なくとも、俺からフレンドリーに接した記憶はないのだが。


「なんと言うか、二人とも楽しそうです。白雪先輩も椿くんも、お互いに変な気を遣ったりしてないからですかね」

「まあ、あの人に気を遣うんなら、その労力をもっと別のものに向けるけどさ」


 そういうところですよ、と笑顔を浮かべる駒鳥は、開いていた本に栞を挟み、言葉を続ける。


「白雪先輩が友人の方と話しているのは何度か見かけたことがあるんですけど、その時よりもよっぽど楽しそうにしてますよ?」

「そう、なのか?」

「そうです。でも、やっぱりちょっと、妬いちゃいますね」


 苦笑気味に放たれたその言葉の意味が、理解できてしまう。だから俺の頬は、ほんのりと熱を持ってしまって。

 ていうかこれ、なんて返せば正解なんだ。ありがとうはちょっとというかかなり違う気がするし、でもごめんなさいって謝るのもおかしいし。

 くそ、ここに来て経験値の低さが露呈してしまう。女子に好意を前提とした発言なんてされたことないから、上手い返し方が全く分からない。

 やがて逃げるように駒鳥から視線を外せば、クスリと笑みが聞こえた。


「ごめんなさい、少し困らせちゃいましたね」

「いや、別に、そんなことはないけど……」

「でも、私も頑張るって決めたんです。白雪先輩には、負けられないから」

「……そっか」


 駒鳥は決意を固めて、覚悟を決めて、俺と接してくれている。だと言うのに、それに対して俺は、自分の気持ちすらも分からずに、決意も覚悟も足りなくて。

 こんなのでは、ちゃんと駒鳥と向き合う資格すらない。どころか、小梅先輩のあの願いを叶えようなんて、もってのほかだ。


「だから、椿くん」

「ん?」

「今日は、その、一緒に帰りませんか……? 少しでも、椿くんとお話したいし、一緒に、いたいので……」


 言葉尻は掠れてしまって、蚊の鳴くような声となってしまっていた。だが、俺たち以外に誰もいない図書室の静寂では、いやでも俺の耳に届いてくる。

 顔は俯いてしまって、おまけに閉じたはずの本を開いてそこに隠れてしまったから、駒鳥の表情は覗けない。チラリと見えた耳が、真っ赤に染まっていることは分かったが。

 弁当の時もそうだったが、こうやって積極的に好意を伝えようとしてくれるのは、正直に言ってとても嬉しい。むしろ、駒鳥みたいな可愛い女の子からこんな風に言われて、嬉しくない男などいないはずだ。

 その可愛い女の子と、二人きりの時間を少しでも長く過ごせる。とても魅力的な提案だろう。大抵の男は二つ返事で了承するはず。

 でも、俺の頭には。どうしても、あの人の涙がよぎってしまう。

 何故なのか自分でも分からない。今日だけじゃなくて、昨日も、一昨日も、あの日からずっと。今は駒鳥のことを考えないといけないのに、あの日の幻影が邪魔をする。

 言い方を選ばずに言えば、今はあの人のことなんてどうでもいい。あの人は関係ない、ことはないかもしれないが、それでも、この場にあの人はいない。

 だと言うのに、何故。葵君、と呼ぶ、あの声すらも、脳内でこだまするのか。


「椿くん?」

「……っ」


 不安そうに呼びかける駒鳥の声で、思考の海から浮上した。脳裏をよぎるあの涙も、こだまする声も、今は捨て置け。

 俺が今一緒にいるのは、他の誰でもない駒鳥小鞠だ。


「悪い、ちょっと考え事してた。一緒に帰るんだよな。途中までだろうけど、いいぞ」


 伝えれば、駒鳥の表情が華やぐ。控えめながらもニコニコしていて、その様子はやはりとても可愛らしい。

 帰るまでにまだ時間はあるから、取り敢えずは、手元の本の続きでも読もう。

 駒鳥と二人、何を話すでもなくただ読書をするだけの時間が、俺は案外好きなのだ。







 最終下校時刻間際になり、図書委員の当番の仕事も全て終え、ゴミ捨ても先週と比べれば随分あっさり片付けた後。

 昇降口で靴を履き替え、駒鳥と二人で帰路につく。俺は自転車登校で駒鳥は徒歩だから、俺が自転車を押して歩く形になっている。女子を後ろに乗せたりするのに憧れがないわけでもないが、普通に違法なので良い子のみんなはやらないようにしような。


「駒鳥の家ってどのへん?」

「駅の近くです」

「じゃあそこまで送ってく。どうせ通り道だからな」

「すいません、ありがとうございます」


 この時期は日が落ちるのが早い。空はすでに薄紫に染まっており、幾多の星が頭上に昇っている。星座なんてろくに知らないが、唯一知っているオリオン座を見つけることが出来た。

 昼間よりも低い外気温は、ブレザーの上からコートを羽織っていても容赦なく肌を刺す。

 こんなに寒くて暗い中、駒鳥はいつも一人で帰っているのかと思うと、なぜか申し訳なくなってしまう。


「そう言えば椿くん、この前は白雪先輩とどこに行ったんですか?」

「えっ」


 今それ聞いちゃう? たしかにこの前の土曜日は、朝に駒鳥とたまたま会ったし、今までその話に触れてなかったけど。よりにもよってこのタイミングですか。どうせなら、小梅先輩もいる時に聞けばいいのに。


「あー、あの日はあれだ。なんか喫茶店連れてかれた後に浅木のラーメン屋連れてかれて、それで解散した」

「それだけですか?」

「それだけ。なんか、ゆっくり出来るデートコース考えたよーとか言って、二時間くらい喫茶店で時間潰してた」


 まあ、楽しくなかったと言えば嘘になってしまうのだが。実際、あの時間で先輩のことをちゃんと知れたし、ラーメンは美味かったし。


「白雪先輩のことだから、もっと色んなところ連れまわすものだと思ってました……」

「俺も、最近駅の近くに出来たモールを片っ端から連れ回されるもんだと思ってたよ」


 せっかくだから、今度は駒鳥とあの喫茶店に行ってみるか。フルーツタルトも美味しかったから、駒鳥も気にいるかもしれない。

 いや、でも他の女子と行った場所にまた別の女子と行くって、どうなんだろう。なんかプレイボーイみたいでイメージ悪いな。もしくは俺の考えすぎだろうか。


「白雪先輩って、想像してたよりもずっと親しみやすいですよね」

「まあ、それは同感かな」


 俺なんて親しみやすさ感じ過ぎちゃってもはやタメ口で話してる時あるし。いやまあ、あれはあの人が調子に乗るから悪いんだが。


「駒鳥も、あの後ちゃんと新刊買えたんだな」

「はい。人気の作家さんなのでちょっと心配だったんですけど、やっぱり四宮のモールにある書店はいいですね。在庫はいっぱいあるし、品揃えも豊富だから、つい目的の新刊以外も買っちゃいました」

「約束通り、読み終わったら貸してくれよ? 地味に楽しみにしてたりするんだからさ」

「もちろんです。でも、もう少し待ってくださいね」


 こうして駒鳥と二人、何気ない会話を交わすのは、久しぶりかもしれない。今までは放課後の当番の時、仕事中に色んな話をしたが。先週以降、あの人と関わり出してからは、なんだか忙しない毎日だったから。

 こうして友人らしいやり取りをするのに、どこか安心感を覚えてしまう。

 やがて十五分くらい歩けば、蘆屋駅が見えてきた。そこから先は駒鳥の先導で歩いていたのだが。


「なあ駒鳥、この道であってんのか?」


 俺はこの街で生まれ育っているから、もちろん土地勘だってある。駒鳥からはある程度の家の場所を口頭で教えてもらったが、今歩いてる道は遠回りになるのではなかろうか。

 尋ねた先の駒鳥は、少し申し訳なさそうに笑っていて。


「すいません、道間違えたみたいです」

「おいおい、毎日通ってるんだから、しっかりしてくれよ」

「あはは、そうですね」


 まあ、駒鳥はうっかりさんなところもあるし、仕方ないか。別に道を間違えたところで、迷子になるわけでもない。

 むしろ可愛らしい間違いに、笑みまで漏れてしまう。駒鳥は少し冷えてきたのか、首に巻いたマフラーを口元に手繰り寄せていた。

 元のルートに戻り、家が近づくに連れて、どうしてか駒鳥の口数も減ってくる。

 そしてとうとう辿り着いた、駒鳥の家のマンション。


「椿くん」

「どうした?」


 こっちが別れを切り出すよりも前に、名前を呼ばれた。赤くなっている頬は、この寒さのせいか。はたまた、それとは別の理由があるのか。


「一つだけ、お願いを聞いてもらってもいいですか?」


 熱を帯びたその言葉に、俺は声を出せず、ただ頷いた。眼鏡の奥の瞳は濡れていて、そこから視線を逸らせない。

 果たして彼女の言うお願いとは、なにも突拍子なものではなくて。


「私のこと、名前で呼んで欲しいんです」


 けれどそこには、たしかな想いが乗せられていた。

 小梅先輩に触発されたのだろうか。負けたくない、なんて言っていたし、きっとそうなのだろう。問題は、俺が駒鳥の名前を呼べるかどうかで。もっと言えば、それを今後も継続出来るかどうかで。

 俺を捉える彼女の目は、柔らかな印象とは反対に、力強い光を携えている。

 名前で呼ぶくらい、そこらのリア充どもなら友達同士で当然のようにしているのだろう。しかし駒鳥にとっては、違う意味を持つはずだ。それを、勇気を出して伝えてくれた。そんな彼女に、応えないわけにはいかない。


「あー……小鞠、でいいか……?」


 今は真冬のはずなのに、ありえないくらい頬が熱い。吐き出した言葉は果たして向こうまで届いたのか、疑ってしまうくらいに小さな声だった。

 でも、ちゃんと届いたのだろう。見る見るうちに綻んでいく彼女の表情を見れば、一目瞭然だ。


「えへ、えへへへ……」


 なんかもう、ヤバイくらいにふにゃふにゃした笑顔だが、まあ、喜んでくれたならよかった。しかし、小梅と小鞠で音が似ててちょっとややこしいな。


「ありがとうございます、葵くん」

「お、おう……」


 ようやく小梅先輩から呼ばれるのに慣れてきたと思ったら、今度は駒鳥から。じゃない、小鞠から。

 頬の熱は増すばかりで、一向に冷める気配がない。なんだか背中のあたりもむず痒くなってきた。


「じゃ、じゃあ、また明日な」

「はいっ、また明日です」


 半ば逃げるようにして別れの挨拶を交わし、自転車に乗って一先ず駅の方へ走る。冷たい夜風が、今は心地いいくらいだ。

 だがどうやら、神様と言うのは随分とイタズラ好きらしい。駅のロータリーの辺りまで辿り着いたと思えば、パンッと音が鳴って、一瞬ハンドルを取られかけた。

 まさかと思いタイヤを見れば、そのまさか。見事に画鋲を踏み抜いてパンクしていた。


「ははっ、ツイてねぇなぁ……」


 乾いた笑いが漏れる。ちょっと幸せな思いをしたと思えば、すぐにこれだ。むしろ平常運転なまであるが、今はこの不幸もどうだっていい。

 とは言え、どうしようか。ここからパンクした自転車を家まで押して帰れないこともないが、頗る面倒な上に明日からは歩いて登校しなければならなくなる。

 しゃがみ込んでタイヤの様子を見てみれば、画鋲は思いのほかガッツリ刺さっているのか、非力な俺では抜けそうにない。

 取り敢えずは家に帰るかと立ち上がった時だった。聞き覚えのない声が、前方から聞こえてきたのは。


「これはまた、随分と派手にパンクしてるね。今からじゃ自転車屋も閉まってるんじゃないか?」


 顔を上げた先にいたのは、大学生くらいの男。ジャージの上からジャンバーを羽織っただけの簡素な格好のくせに、髪はワックスで軽く整えられていて、全体的に清潔なイメージを受ける。

 俺と目を合わせた彼は、どこか胡散臭く見えてしまう笑顔で、手を差し伸べてきた。


「僕で良かったら手伝おうか? 道具さえあれば直せるし、小梅ちゃんの友達が困ってるのを見逃すのは、さすがに後が怖いからね」

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