第2話 繋ぐ手と空き教室

 昨日のあの光景は、一夜明けた今日でも俺の頭の中で強烈に残っている。

 白雪小梅と言えば、学校のスターだ。それどころか、ここらの学校で陸上やってる奴らにとっては、雲の上の存在かもしれない。

 そんな彼女が、ゴミ捨て場なんて汚い場所で。何故、泣いていたのか。

 俺なんかが考えたところで分かるわけもない。そもそも、俺はあの人と知り合いですらないのだから。

 昨日のことは、たまたま不幸にもあのシーンに遭遇してしまった、ということで片付けよう。いつも通りの不幸な出来事だったのだ。俺にはもう関係ない話だ。

 そんな事より、今はもっと他のことを考えなければならない。


「おい椿。お前いい加減にしろよ。なにか言うことあるんじゃないのか?」

「はぁ……そう言われましても……俺はトイレに行ってただけですし」

「いつまでそんな嘘言い続けるんだ? 他の奴らのこと庇ってんのか?」


 昼休み。職員室の前。俺はそこで、生徒指導の体育教師から理不尽な叱りを受けていた。

 先程四時間目は体育だったのだが、授業が終わった後、俺を含めた数人が片付けを命じられた。この教師はそれを見届けることもせずに体育職員室へ戻りさっさと弁当を食い始めやがったのだ。そして、腹の調子が悪い俺は片付けを始める前にトイレへ。勿論近くのクラスメイトに声はかけた。いくらぼっちであろうが、それくらいはする。

 不運だったのはこの後だ。

 どうやらこの体育教師、弁当を食い終わっても尚片付けの報告が来ないことを不思議に思い、そこでようやく体育館の様子を見に行ったらしいのだが、既にそこはもぬけの殻。片付けは終わっておらず、しかし俺のクラスメイト達は全員教室へ帰ってしまっていた。

 そこにトイレから戻ってきた俺が出くわし、着替えた後もこうして説教されているという訳だ。

 改めて振り返っても、俺が怒られる意味がわからない。


「もう一回聞くぞ。なんで片付けをサボって勝手に教室に戻ったんだ?」

「ですから、俺はトイレに行ってただけですって……」

「言い訳するなって言ってるだろ!」


 怒号が廊下に響き、周囲の生徒がこちらに視線を向ける。めんどくさい。どうして俺が怒られなきゃならないんだ。怒るならせめて他の奴らも一緒にだろう。

 胸の中で苛立ちが募る。いくら毎日のように不幸な出来事に巻き込まれると言っても、こんなもん慣れるわけがない。

 そろそろ本気でなにか言い返してやろうかと思い始めた、その時。


「先生、ちょっといいですか?」


 背後から、声が聞こえた。

 聞き慣れない声だが、聞いたことのある声だ。その声と言葉を交わし合ったことがなくても、頭の中に残るその声。

 まさかと思い振り返った先にいたのは、そのまさかな人物で。

 三年の白雪小梅先輩が、昨日見た泣き顔とは程遠い笑顔で、そこに立っていた。


「おお、白雪か。どうした、なにかあったのか?」


 先輩を見た後、だらしないとも言えるような表情を浮かべる体育教師。なるほど、この教師はそう言う人間だったのか。

 白雪先輩が一歩前に出て、俺の隣に並ぶ。身長が170もあると言う噂は本当らしい。166しかない俺より拳一つ分ほど頭が上にある。

 その横顔は見惚れるほどに綺麗で、そんな美人がすぐ隣に立っていることに、場違いにも心臓の鼓動が早くなった。


「あたし、さっきそこで二人が話してたの聞こえちゃってたんですけど」

「そうかそうか! なら白雪からも──」

「いつまで無意味な説教続ける気ですか?」

「……は?」


 瞬間、体育教師の顔が凍りついた。

 体育教師だけじゃない。俺だって、まさかの発言に驚き、なにも言えないでいる。てっきり、二人掛かりで怒られてしまうもんだと思ってたのに。白雪先輩はニコニコと笑顔を浮かべたまま、体育教師に続く言葉をぶつけた。


「だって椿君は体育館に戻ってきたんでしょう? なら怒られる謂れはないじゃないですか。椿君はトイレに行ってきて、戻って来たところを怒りで状況が冷静に判断出来ない先生にとばっちりを食らってる。普通に考えたらそうじゃないですか? しかも、片付けは他の生徒にも指示してたんですよね? 尚更椿君だけが怒られてる理由が見えないです。なにか正当な理由でも?」

「う、うぅむ……それはだな……いや、そうか、そうだな。うん、白雪の言う通りだ」

「ようやく理解してくれましたか! さすがは先生、伊達に筋肉だらけの体をしてませんね!」

「お、おう……?」


 突然筋肉を褒められたことに戸惑っている体育教師だが、今のは、ここまで説明してようやく理解するとか頭の中まで筋肉詰まってんじゃないですか、と言う遠回しな皮肉ではなかろうか。皮肉ってかただの悪口だなこれ。白雪先輩が筋肉至上主義とか、筋肉こそ力、力こそパワーとかそんな考えの持ち主でなければの話だが。

 まあ、その皮肉が理解出来ていない時点で、この体育教師は色々とお察しだ。


「ではそう言うことで。行こっか、椿君」

「えっ?」


 まさか俺に話を振ってくるとは思わず、しかもさっきから何故俺の名前を親しげに読んでいるのかも分からず、つい聞き返してしまった。しかしニコリと微笑んだ白雪先輩はそんなことも気にせず、俺の手を無理矢理掴んで歩き出す。

 自然、それに引っ張られてしまう俺。

 右手を包む慣れない感触に、顔がどんどん赤くなってしまう。この不幸ぼっち野郎が女子の手なんて握ったことあるわけもない。まさか初めて手を繋いだ相手が、あの白雪小梅先輩だなんて思いもよらなかった。

 先輩の手はその苗字とは裏腹にあたたかくて、自分のものよりも数倍は柔らかくて。握り返したい衝動に駆られる。そのあたたかさと柔らかさを、もっとしっかり感じたい。


「ちょっと待っててね。もうすぐで着くから」

「は、はい……」


 すんでのところで先輩の声が聞こえ、欲望を抑えつける。危なかった。あのまま手を握り返していれば、どんな目に遭ったか分からない。先輩は格闘技も出来るとの噂だし。

 どこに向かっているのか全く聞かされないまま、俺たちは二人で第二校舎の三階まで上がって来た。

 三階建ての第二校舎は、一階を図書室と食堂が占有しており、二階から上は特定の授業でたまに使うくらいの空き教室しかない。俺なんて、入学してからこの三階に立ち入ったのは片手で数えて足りる程度だ。

 やがて辿り着いたのは、その第二校舎三階の、一番奥にある教室。

 廊下に人は一人もおらず、どこか寒々しい雰囲気を感じさせる。実際どの教室も使われていないのか、廊下にはどこからか隙間風が吹いて来て、俺の身を震わせた。


「さっ、入ろうか」

「えっ、あの、そろそろ説明の一つくらい……」

「いいからいいから!」


 強引に教室の中へと連れ込まれた。

 その教室の作り自体は、なんの変哲もない、机と椅子を積み重ねて後ろに追いやった普通の空き教室だ。

 美人な先輩と、昼休みに人気のない一角にある教室で、二人きり。

 ああ、なんと蠱惑的なフレーズだろう。これまでの不幸は、今日この時のためにあったのか。

 いや待て油断するな。これまでの人生、何度裏切られたと思っている。なんかツイてるなーと思って蓋を開けてみれば、いつもより酷い不幸に見舞われたことなんて、これまで何度もあったじゃないか。例えるなら、宝くじに当選したと思ったら券を紛失するとか、そんな感じの上げて落とすパターンはマジで辛いのでやめて頂ける方向で検討してくれませんか神様。


「んー、そんな警戒しないでもらいたいのだけれど、それも無理な話か」

「まあ、いきなりこんな所に連れ込まれれば、誰でも警戒すると思いますよ」


 主にこれから舞い降りる不幸に対しての警戒だが。

 しかし、思い当たる節がないでもない。

 昨日のことだ。

 白雪小梅は蘆屋高校が誇る完璧美少女。一部の隙もなくパーフェクトな人物だ。そんな人の泣き顔を、あろうことかこの俺が目撃してしまった。口封じとか、その辺りが妥当だろう。もしかして、どこからともなく現れた黒服にここで消されたりしちゃうのだろうか。

 などと妄想していると、先輩は教室の奥まで歩き、何故か置いてある冷蔵庫から缶のカフェオレを取り出した。

 いや、なんで冷蔵庫?


「はい、これ。あたしの奢りだよ」

「ありがとうございます……」


 連れてこられた目的が判明するどころか、謎が増えてしまった。なんで教室に冷蔵庫なんてあるのか。いや、よく見たら冷蔵庫以外にも、普通の教室には似つかわしくないものがいくつか。

 まず、小さな本棚。そこに並べられたライトノベル。電子レンジにコーヒーメーカー。

 あとは布団さえあれば軽く生活できてしまうかもしれない。


「やっぱこのカフェオレだよね〜。ちょっと甘さが足りない気もするけど、学校の自販機で売ってるのはこれが一番甘いし」


 自分のカフェオレも冷蔵庫から取り出し、それを気持ちよく一気に呷った。このカフェオレは、先輩が言った通り相当甘いものだ。なんか生クリームとか入ってるらしい。

 昼休みに入ってすぐあの教師に説教されていたから、かなり腹が減っているのだが、頂いてしまったものは仕方がない。先輩に倣い缶を開け、カフェオレを喉に通す。


「あまっ……」

「それがいいんじゃないですかー!」


 何故敬語……。

 今日初めて会話したが、この人のテンションが早くも謎だ。ここに来てから謎が増えてばかりなんだが、そろそろ一つくらい解明されてもいい頃合いじゃなかろうか。


「あの、白雪先輩……」

「あっ、小梅でいいよ。ここでそう呼ばれるのは、あたしには荷が重いから」

「……?」

「あははっ、まああんまり気にせず、気軽に小梅様と呼んでくれればいいよ」

「小梅先輩」

「ありゃっ」


 軽く呼んでみたものの、女子の名前を呼ぶのなんて初めてなもんだから。いやでも、今の少ないやり取りだけでも十分に分かった。この人はあれだ、多少ぞんざいに扱っても問題ないタイプの先輩だ。

 うん、そう思うとなんだか気が楽になって来たぞ。学校一の美少女と二人きりで、とか考えてしまうからダメなのだ。この人は、ただのノリのいい先輩。今日が初対面だけど。


「で、小梅先輩はどうして俺をここに連れて来たんですか? て言うかそもそも、なんで俺を助けたんです?」

「困った人がいたら助けてあげる。お兄さんとお姉ちゃんにそう教えられてるからね。現に君は困ってたでしょう?」


 ニシシ、と笑ってみせる小梅先輩は、実年齢よりも幾分か幼く見える。高い身長やキツい印象を与えそうな目尻からは、あまり想像できない表情だ。

 いや、そもそもの話。この白雪小梅と言う人は、その雰囲気からして不思議な人だ。黙っていれば、そのつり上がった目つきから、神様が手ずから作ったようなこの美しさに、鋭利な雰囲気を纏わせそうなものなのに。

 天真爛漫。そんな一言が実に似合いそうなイメージを、今日この時以前から俺は勝手に持っていた。恐らくは、俺以外の全校生徒も。

 美しいと言うよりも、可愛いと言った方が的確な笑顔から、つい目を逸らしてしまう。この人が美人なことを意識するな、なんて無理だった。


「で、君をここに連れてきた目的だっけ?」

「ああ、はい。そうです。正直他にも聞きたいことあるんですけど」

「例えば、この教室はどうして学校に関係ないものがこんなにあるのか、とか?」

「……そうっすね」

「それも気にしなくて大丈夫。ここの管理を任されてる教師、あたしの叔父だから」


 校内に身内までいるのかよ。そりゃ教師にあれだけ強く出れるわけだ。


「さて。君をここに連れてきた目的だけどね」


 ゴクリ、と。知らず喉を鳴らす。

 目の前の小梅先輩から、先ほどまでの陽気で天真爛漫な雰囲気が抜け落ちたから。

 そう、敢えて言葉にするなら。纏っているのは氷。それを思わせるくらいに冷たく、鋭い雰囲気だ。

 そしてその小さな唇を歪めた小梅先輩に、俺の心臓が竦む。


「女の子の泣き顔を見たんだから、その責任を取ってもらうために決まってるでしょ?」


 果たして耳に届いた言葉は、予想通りではあったのだが。俺にこれからの不幸を予感させるのに、十分すぎる衝撃を持っていた。

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